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Sugarless SugarLady  作者: アベシ
第八章
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第29話

 最後のコードを終えて、私たちのあいだに何も残らなかった。

 いや、彼女の音の残像が、壁に染みついている。私のものは、もうどこにもない。

 汗が額を伝って、顎から落ちた。冬なのに、スタジオの中は蒸していた。

 ――駄目だ。

 こんなにも違う。同じ曲を弾いていたはずなのに、すべて釣り合っていない。


「はじめて、どれぐらい?」

「……たぶん、二ヶ月と少しです」

「そう」

「あの……だ、駄目でしたか……? 私の……」


 僅かに思案げな表情が、鏡越しに見える。

「それは、アヤが決めることだ。私じゃない」

「私が決める……」

「技術的に上手いとか拙いとかはあるよ。でも本質的には、それが好きか嫌いかだけじゃないの?」


 そうなんだとしたら、私は――私はどうなんだろう?

 この人は、どうなんだろう?

 結局、答えられず私は俯いた。


「上手くなりたいの?」

「そう、ですね……私、弾いていたいんです。ずっと……だから……」


 温度も湿度もない、透明な隙間。それは私とお姉さんの会話が途切れたことで現れた。さっきまでの音も静かに霧散して、空調のうねりと、アンプが吐く微かなハムノイズが乗っている。黒い影が壁に背を預けて、ギターのネックを片手で支えたまま、私を捉えていた。


「そう言うと思った」

「えっ?」

「偶然じゃないんだよね、あそこでアヤに会ったの」

「それはどういう……」

「SAKURA楽器の三階にリペア工房がある。テリーさん――FRONTの店長に、いいリペアマン紹介してもらってね。私はそこでこれの調整を依頼してた」

 お姉さんが掲げた黒い個体。鋭く奏でていたギターだ。


「そのリペアマンが、よくギターの弦を切る、変な高校生がいるって話してたんだ。最初は、そういう学生もいるって聞き流してたけど、あのライブで確信した。それがアヤだったんだって」

「…………」

 心当たりがあるとすれば、いつもの店員さんだ。通っていて顔なじみになった。きっとその人が話したんだ。


「普通ならそこで終わり。だけど、少し気になることがあった。いや、確かめてみたいことがあったから。だから私もSAKURA楽器のあたりを行くようにしてた」

「確かめたいことって、なんでしょうか? あの、下手だっていう……?」

「ねえ、アヤ」

「はい」

「一緒に弾いてその疑問が深まった」

 壁際から離れた彼女が、私に近づいてきて口にする。


「どうして、そこまで正しい音に辿り着けるの?」


 正しさ。

 ふと思い出す。

 お父さんの呼吸。抱きしめられたときの心音。柔らかく、正しい。

 それが私の価値観。


「私は……」

「ま、いいや」


 お姉さんが私の言葉を待たずに、再びギターのボリュームを持ち上げる。

「私、アヤに興味あるんだ。だから――次は、私がアヤの興味を惹く」


 そうして彼女が鳴らした音は、私の耳を掴んで引きずり込むような衝撃だった。

 必死に練習したのに、頑張ったところから、強く美しい響きに塗り替えられていく。私が積み重ねた時間が、足元から崩れていくのがわかった。じわりと、絡みつく鏡越しの視線。


「――っ」

 私は息を呑んだ。


“来い”と、言っている。


 私に、早く来いと。

 みんなで作った曲が、激しく荒く、けれど迷いなく整えられていく。

 私もツマミに触れてミュートを解除した。


 歌う。もうAメロだ。

 指が追いつかない。

 この人のギターは、あまりにも整いすぎている。私みたいな下手くそでもわかるほどに。

 隙がどこにもない。

 置いていかれる。


 私のストロークはそのままなのに、隣から来る旋律がすべて塗り固めていく。同じコード進行、同じ曲。なのに、このギターが、私が知っている群青を変えていく。

 まぶたが焼けるように痛い。

 刺されるような、いや、もっと……もっと強烈な刺激だ。


 だから声を上げる。必死に足に力を入れて、お腹の底から。

 私が描く輪郭を、彼女の音が内側から照らす。暗がりに懐中電灯を当てたみたいに。見えなくていいものまで、鮮明に映っていた。薄く塗ったファンデーションが蛍光灯の下で全部浮いているのに気づいたように、どこがどれほど足りないのか、わかる。別ものの余韻がそこにあるせいで、影が露わになっていた。


 この声が届ききらない。後ろのギタリストは、待ってくれない。

 まだ足りない(・・・・・・)んだって、否が応でもわからされる。


“ここにいる”と。“だから来い”と。そのギターが咆哮する。


 私の視界に飛び込んできたのは、知らない形だった。

 はじめてライブで浴びた鉛色でも、頑張って近づいた群青でもない。

 冷たく、無駄がない。硝子を薄く伸ばして光を通したみたいな、触れたら割れそうな透明の奥に、微かな彩りがある。その名前はわからない。言葉にできず、胸が詰まった。


 ああ、きれいだ。

 こんなにきれいなものは、私の記憶にない。

 なのに――


「アヤは、きれいなものを見るために生まれたんだね」


 これは、私の色じゃない。

 強引に映される音だ。私は鳴らしていない。私は叫んでいない。血の滲んだ弦から漏れたものじゃない。

 涼しげにこの人が響かせている。


 お守りの紐が、ふいにほどけて掌に落ちるみたいに――お父さんの声が降ってきた。どうして今。


 きれいなもの。

 それは、いっぱいの無遠慮と砂嵐でドロドロに溶けた世界の中で、私がほしかったもの。

 私がただひとつ、大切にしていた価値。


 でも今見えているのは、私の知らない輝きだ。

 当たり前のように私の居場所に入ってきて、強烈な存在感で埋めきって。


 完璧だった。

 私が何度弾いても乱れる音が、一発で鳴った。フレーズの選び方も、伸ばし加減も、ビブラートのかけ方も。夜通し書いた手紙を、短く直されたみたいだった。

 反論できない。ここには、これしかないという顔で居座っている。

 時間をかけて作った曲の、大事な場所を、この人はあっさり完成させた。

 苦しくなって、指が止まりかける。


 イベントが終わって一週間と少し経って、ふわふわした気持ちが落ち着いた?

 嘘だ。そんなわけない。

 あのステージに立つために頑張って、必死に歌ったんだ。

 あの夜からずっとそうだった。バンドが終わって、チャットが止まって、ひとりで弾き続けて。目を背けて、蓋をしていた。


 私は、まだバンドをやりたかったんだ。

 みんなで――

 だからこんなところで、置いていかれたくない。

 私たちの努力が、きれいなものに埋め尽くされるのが怖い。


 私がいなくても、この音があれば世界は色づいてしまう。私の鼓動も、血も、痛みも、全部いらない。この人が演奏すれば、それで済む。

 じゃあ私は何のために弾いているんだろう。

 何のために、ここにいるんだろう。

 きれいなものを見るためだけに生まれたなら、歌う必要だってない。聴いていればいい。彼女の隣に、いればいい。


 嫌だ。

 それは嫌だ。

 それは灰色に戻ることだ。あの部屋で、輪郭のない自分に戻ることだ。


 ピッキングが荒れた。弦が軋む。コードが崩れる。構わない。

 胸の中で丸めたアルミホイルがくしゃくしゃ鳴っている。

 ノイズが膨らんでいく。ハウリングが起きている。ボリュームなんて知らない。ツマミの位置なんて覚えていない。ただ手が動く。弦を叩く。

 完璧なままのギターが、まだ聴こえる。私がどれだけ崩れても、隣で正しい音を奏で続けている。それが余計に苦しい。


 うるさい。


 うるさい。


 うるさい!!


 だから叫ぶ。

 私は――ここにいる!


 目の前が真っ赤に染まる。

 私の視界は、そこで爆発した。

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