第29話
最後のコードを終えて、私たちのあいだに何も残らなかった。
いや、彼女の音の残像が、壁に染みついている。私のものは、もうどこにもない。
汗が額を伝って、顎から落ちた。冬なのに、スタジオの中は蒸していた。
――駄目だ。
こんなにも違う。同じ曲を弾いていたはずなのに、すべて釣り合っていない。
「はじめて、どれぐらい?」
「……たぶん、二ヶ月と少しです」
「そう」
「あの……だ、駄目でしたか……? 私の……」
僅かに思案げな表情が、鏡越しに見える。
「それは、アヤが決めることだ。私じゃない」
「私が決める……」
「技術的に上手いとか拙いとかはあるよ。でも本質的には、それが好きか嫌いかだけじゃないの?」
そうなんだとしたら、私は――私はどうなんだろう?
この人は、どうなんだろう?
結局、答えられず私は俯いた。
「上手くなりたいの?」
「そう、ですね……私、弾いていたいんです。ずっと……だから……」
温度も湿度もない、透明な隙間。それは私とお姉さんの会話が途切れたことで現れた。さっきまでの音も静かに霧散して、空調のうねりと、アンプが吐く微かなハムノイズが乗っている。黒い影が壁に背を預けて、ギターのネックを片手で支えたまま、私を捉えていた。
「そう言うと思った」
「えっ?」
「偶然じゃないんだよね、あそこでアヤに会ったの」
「それはどういう……」
「SAKURA楽器の三階にリペア工房がある。テリーさん――FRONTの店長に、いいリペアマン紹介してもらってね。私はそこでこれの調整を依頼してた」
お姉さんが掲げた黒い個体。鋭く奏でていたギターだ。
「そのリペアマンが、よくギターの弦を切る、変な高校生がいるって話してたんだ。最初は、そういう学生もいるって聞き流してたけど、あのライブで確信した。それがアヤだったんだって」
「…………」
心当たりがあるとすれば、いつもの店員さんだ。通っていて顔なじみになった。きっとその人が話したんだ。
「普通ならそこで終わり。だけど、少し気になることがあった。いや、確かめてみたいことがあったから。だから私もSAKURA楽器のあたりを行くようにしてた」
「確かめたいことって、なんでしょうか? あの、下手だっていう……?」
「ねえ、アヤ」
「はい」
「一緒に弾いてその疑問が深まった」
壁際から離れた彼女が、私に近づいてきて口にする。
「どうして、そこまで正しい音に辿り着けるの?」
正しさ。
ふと思い出す。
お父さんの呼吸。抱きしめられたときの心音。柔らかく、正しい。
それが私の価値観。
「私は……」
「ま、いいや」
お姉さんが私の言葉を待たずに、再びギターのボリュームを持ち上げる。
「私、アヤに興味あるんだ。だから――次は、私がアヤの興味を惹く」
そうして彼女が鳴らした音は、私の耳を掴んで引きずり込むような衝撃だった。
必死に練習したのに、頑張ったところから、強く美しい響きに塗り替えられていく。私が積み重ねた時間が、足元から崩れていくのがわかった。じわりと、絡みつく鏡越しの視線。
「――っ」
私は息を呑んだ。
“来い”と、言っている。
私に、早く来いと。
みんなで作った曲が、激しく荒く、けれど迷いなく整えられていく。
私もツマミに触れてミュートを解除した。
歌う。もうAメロだ。
指が追いつかない。
この人のギターは、あまりにも整いすぎている。私みたいな下手くそでもわかるほどに。
隙がどこにもない。
置いていかれる。
私のストロークはそのままなのに、隣から来る旋律がすべて塗り固めていく。同じコード進行、同じ曲。なのに、このギターが、私が知っている群青を変えていく。
まぶたが焼けるように痛い。
刺されるような、いや、もっと……もっと強烈な刺激だ。
だから声を上げる。必死に足に力を入れて、お腹の底から。
私が描く輪郭を、彼女の音が内側から照らす。暗がりに懐中電灯を当てたみたいに。見えなくていいものまで、鮮明に映っていた。薄く塗ったファンデーションが蛍光灯の下で全部浮いているのに気づいたように、どこがどれほど足りないのか、わかる。別ものの余韻がそこにあるせいで、影が露わになっていた。
この声が届ききらない。後ろのギタリストは、待ってくれない。
まだ足りないんだって、否が応でもわからされる。
“ここにいる”と。“だから来い”と。そのギターが咆哮する。
私の視界に飛び込んできたのは、知らない形だった。
はじめてライブで浴びた鉛色でも、頑張って近づいた群青でもない。
冷たく、無駄がない。硝子を薄く伸ばして光を通したみたいな、触れたら割れそうな透明の奥に、微かな彩りがある。その名前はわからない。言葉にできず、胸が詰まった。
ああ、きれいだ。
こんなにきれいなものは、私の記憶にない。
なのに――
「アヤは、きれいなものを見るために生まれたんだね」
これは、私の色じゃない。
強引に映される音だ。私は鳴らしていない。私は叫んでいない。血の滲んだ弦から漏れたものじゃない。
涼しげにこの人が響かせている。
お守りの紐が、ふいにほどけて掌に落ちるみたいに――お父さんの声が降ってきた。どうして今。
きれいなもの。
それは、いっぱいの無遠慮と砂嵐でドロドロに溶けた世界の中で、私がほしかったもの。
私がただひとつ、大切にしていた価値。
でも今見えているのは、私の知らない輝きだ。
当たり前のように私の居場所に入ってきて、強烈な存在感で埋めきって。
完璧だった。
私が何度弾いても乱れる音が、一発で鳴った。フレーズの選び方も、伸ばし加減も、ビブラートのかけ方も。夜通し書いた手紙を、短く直されたみたいだった。
反論できない。ここには、これしかないという顔で居座っている。
時間をかけて作った曲の、大事な場所を、この人はあっさり完成させた。
苦しくなって、指が止まりかける。
イベントが終わって一週間と少し経って、ふわふわした気持ちが落ち着いた?
嘘だ。そんなわけない。
あのステージに立つために頑張って、必死に歌ったんだ。
あの夜からずっとそうだった。バンドが終わって、チャットが止まって、ひとりで弾き続けて。目を背けて、蓋をしていた。
私は、まだバンドをやりたかったんだ。
みんなで――
だからこんなところで、置いていかれたくない。
私たちの努力が、きれいなものに埋め尽くされるのが怖い。
私がいなくても、この音があれば世界は色づいてしまう。私の鼓動も、血も、痛みも、全部いらない。この人が演奏すれば、それで済む。
じゃあ私は何のために弾いているんだろう。
何のために、ここにいるんだろう。
きれいなものを見るためだけに生まれたなら、歌う必要だってない。聴いていればいい。彼女の隣に、いればいい。
嫌だ。
それは嫌だ。
それは灰色に戻ることだ。あの部屋で、輪郭のない自分に戻ることだ。
ピッキングが荒れた。弦が軋む。コードが崩れる。構わない。
胸の中で丸めたアルミホイルがくしゃくしゃ鳴っている。
ノイズが膨らんでいく。ハウリングが起きている。ボリュームなんて知らない。ツマミの位置なんて覚えていない。ただ手が動く。弦を叩く。
完璧なままのギターが、まだ聴こえる。私がどれだけ崩れても、隣で正しい音を奏で続けている。それが余計に苦しい。
うるさい。
うるさい。
うるさい!!
だから叫ぶ。
私は――ここにいる!
目の前が真っ赤に染まる。
私の視界は、そこで爆発した。




