第28話
吸音材の黄ばんだ壁と、鏡に映る自分。いつもスバルちゃんとイブキ先輩がいた場所に、黒いケースを置いた女性がいる。
名前は――知らない。素性も……よくわからない。私はそんな人といる。
スタジオの予約は一名でしていた。けれど彼女は、受付に「二名になった」と告げて、ふたりぶんのお金をバンと置いた。まるで有無を言わせない圧力で。
話しかけるべきだろうか? どうしたものかと悩んだ末に、私はMarshallJCM900にギターを繋いだ。ツマミの設定も覚えているとおりに、鳴らすフレーズも変わらず。
「Tennessean、抜けもいいし、特徴的な倍音でわかりやすいね」
「そ……そうなんですか……?」
「私は好きな個体だよ、それ」
乾いた紙に琥珀色をシャランと落としたような、そんな響き。その良し悪しは、未だに掴めていない。
「どうしてGretschを選んだの?」
「選んだというか……私、Gibsonのギターがほしかったんです。ES-335っていう……」
「ああ……やっぱり」
「……やっぱり?」
顔を上げた私にやんわりと微笑むだけで、会話が途切れてしまった。
ほぼ面識のない誰かと、この空間にいる不可思議さに首を傾げながらも、私はギターのチューニングを終える。
「弾いてよ、なんかさ」
「な……なんか……」
誰かに聴かせられるのはあっただろうか。
私ができるのは――五、六曲ぐらいだ。それですら、ちゃんとできるかはわからない。
自信を持ってこれだと言える曲はないけれど、毎日毎日――今でもずっと弾き続けているものならある。それをやろう。
はじまりの旋律も、繋ぎ方も。覚えているとおりに。
どうせひとりでやろうと思っていたことだから、誰がいても変わりない。
音を響かせて色を見る。
アタックが強い。弦に右手が触れる。いつものこと。
僅かな痛みが振動になって、私が私であることを証明してくれる。
だからこれでいい。
Aメロのコードを追う。指は覚えている。部屋でずっと練習していたから。でもスタジオのアンプを通すと、輪郭が太い。壁に当たって跳ね返ってくる振動は、生音とは別物だ。
サビに入る。ここでスバルちゃんのキックが重なるはずだった。イブキ先輩のベースが足元を支えてくれるはずだった。
ない。
何もない。私の音が、鏡に反射して戻ってくる。
こんなに薄かったんだ、私のギターは。
それでも指は止まらない。止める理由がない。――灰色じゃないから、そのまま進む。
そうしてたった三分とちょっとで演奏が終わる。
「G#mね」
「えっ?」
「それオリジナルでしょ。あの日やってたね」
「はい……」
振り返ると、お姉さんが知らないうちにギターを取り出していた。
黒いボディに金の縁取り。Tennesseanのぼてっとした丸さにはない。薄くて、角があって、金属の部品が鈍く光っている。きれいだけど、触ったら切れそうだった。持ち主と同じで、余計なものがない。ヘッドには、|g'7 G'Seven Specialと書かれている。自分があまりにも無知なせいで、まったく聞いたことのないブランドだった。
そんな私の視線に気づいてか、彼女はふっと口元を緩める。
「仕事で使ってたんだ、これ。ジャズマスタイプだね」
「つい見てしまいました……すみません……」
「立ち上がりが良くて、輪郭も明瞭。分離感と音像感に優れててね。中域に厚みもあるし、アタックに粘りがある。そんなギター」
「はぁ……」
言葉はわかっても、意味が理解できない。申し訳なくなる。
「こんな話してもつまらないか」
「いえ……私、何も知らないので……」
「ふふっ、素直だね」
笑いながら、ギターをエフェクターボード、そしてアンプに繋いだ。
そのままボリュームを上げて鳴った音は、硬く冷たい。けど澄んでいた。私のとは、水の透明度が違う。同じスタジオにいるのに、この人のギターは、別の場所から届いている感じだ。
「ね、名前は?」
「え? な、名前……?」
私はTennesseanと、女性の顔を見比べる。
「君の」
「あ……えと、アヤです。千歳絢……こ、高校一年生です」
「そっか」
「あの……お姉さんは――」
「ねぇ、アヤ。なんでオリジナルやったの?」
「…………」
返答に詰まって、ギターに視線を落とす。
なんで? 答えを言語化するのは、かなり難しい。
「一〇分の持ち時間だと、コピーなら二曲はいけたんじゃない? オリジナルを作ったから、その曲しか練習できなかったんじゃないかって、思うんだけど」
「それは……」
そんな問いかけに、しどろもどろになる。答えに窮するっていうのは、こういうことなのかもしれない。
「もうひとつ、いい?」
「はい……?」
「なんであのとき、あそこで歌ったの?」
「――――っ」
「あれさ、たぶんもとの構成は、ああじゃなかったでしょ。どうしてそうなったのか、気になったんだ。コピーじゃなくて、オリジナルを演奏して。きっと本来の構成にないメロディを口ずさんだ。違う?」
「いえ……そうです」
アウトロと、終わり方。全部みんなで練習したところ。
けれど終わらなきゃいいと思ってしまったから。
ほんの少し、歌を足した。
視線の先にあるものに向かっただけ。
「正解だったんじゃない?」
「えっ?」
「コピーじゃなくて」
「そ――そうかもしれません……借りものの色は濁るから……あっ、いや……」
「色?」
口をついて出たそれは、私がずっと抱えていたおかしさだった。お父さん以外には、話していない。
必死に胸の奥に隠していたのに、どうして――この透明で鋭い声を前に、漏らしてしまったんだろう。
「な、なんでもないです……」
「そう、うん、そうなんだ。アヤは。いいね」
「いえ、私……」
「合わせようよ、アヤ。そのオリジナルさ」
返す言葉がない。
断る理由もないけれど、頷く準備もできていない。ただ、この人が私たちの曲を弾くことの意味が、まだ頭に追いついていない。
お姉さんはストラップを肩にかけて、立ち上がった。
黒と金のギターが、体に沿って収まっている。低い位置。長い腕がネックに伸びて、左手がフレットに触れた。
まだ音は出ていない。
なのに、空気の密度が変わった。
楽器を構えただけで、スタジオの重心がそっちに傾く。鏡に映るふたり。私は椅子に座ったまま、Tennesseanを膝に抱えていて、彼女は立っている。私の意識までそっちに引っ張られそうな振る舞いだ。
「イントロから」
「はい、あのコードは――」
「大丈夫。合わせる」
上手そうな佇まい。慣れていると、そういうものなんだ。
「歌ってよ」
「わ、私がですか……?」
「マイクのセッティングしてあげるから」
拒否する間もなく、マイクスタンドが私の前に置かれた。
考えてみれば、スバルちゃんもイブキ先輩もいない状況で、歌までなくしてしまったら、曲が痩せ細ってしまうのは当然だ。
ここは、従ってみよう。もしかしたら……あの群青に近づけるかもしれない。
私は椅子から離れて、マイクの高さを合わせた。
鏡越しに見る自分が、こんなにも弱々しく映るのはどうしてだろう。
「適当なところで入るよ。ストロークを意識しておいて」
「わかりました」
ギターのミュートをやめて、馴染みのコードを弾く。
さっきのまま。薄いギターの震え。
途端に、ジジ、とノイズが届き――
視界が一枚、剥がれた。
私のコードに、黒い光沢を放ってのしかかる音。艶と粘りがあって、なのに重たくない。鋭いはずなのに、中身が詰まっていて、刃というより、磨いた石の断面みたいだった。
それが私の横から切り込んでくる。心臓に近いところを、正確に。奏でるたびにスタジオの壁が後退していくような錯覚があった。
ここって、こんなに広かったっけ。
違う。彼女の演奏が、空間を作り変えているんだ。私と違う生き物が覆いかぶさってきたみたいに。この場所で、まるで異なる景色を響かせている。
呼吸が乱れる。追いつけない。その完璧な音に。




