第27話
「ね、アヤ。ギター、どうなの?」
「どうって?」
「続けてるでしょ。どうなのかなって。この前、ライブやったって、スバルちゃんから聞いたよ」
お母さんとスバルちゃんのパイプは、相当強固だ。ほとんど全部が筒抜け。もう諦めるしかない。
「一緒に練習してるんでしょ?」
「う、うん……」
金曜の夜。夕食をお母さんと食べながら、私は曖昧に微笑む。
あのイベントから、もう一週間と少し経った。
どこかふわふわしていた感情も、今は落ち着いている。
「お母さん、私、明日スタジオに行ってくるね」
「そう? 送っていこうか?」
「ううん、大丈夫。寄り道していくから」
お風呂上がりに部屋に戻り、早速ギターを持った。
かつてぽっかりと空いていた空白には、ギタースタンドとハードケースが並んでいる。
ヘアアイロンは相変わらず机で冷えて、プラチナの光沢が蛍光灯に媚びていた。使い方は、未だに理解していない。
その隣、巾着袋の中のハンドクリームは、いつの間にか三分の一ほど減っていた。弦を押さえ続ける左の指先が割れるようになって、お母さんが置いていったこれに手を伸ばしたのは、いつだったか。蓋を開けたときのラベンダーの匂いが、アロマディフューザーと混ざって少しくどかった。
机の端には教則本が伏せたまま開きっぱなしで、背表紙が反り始めている。足元にはSITの空パッケージがひとつ。捨て忘れたのか、捨てる気がないのか、自分でもわからない。
以前よりも、この部屋には物がある。
それが私の輪郭なのかどうかは、まだ判断できずにいる。
ふと、スマホに手を伸ばした。
いつからか、スバルちゃんが作ったグループチャット。
今は、沈黙している。
最後のメッセージは、ライブ翌日、私が打った「お疲れさまでした」の文。それに既読がついたまま、動かなくなった。
ステージを降りて帰路につくとき、私たちは狸小路のハンバーグチェーンに寄った。たぶん打ち上げというやつだ。
「緊張して走っちゃった」とか「リズムキープできなかった」とか、失敗の話をしていたと記憶している。それでもあの瞬間を、「楽しかった」と締めて、別れた。
私は――楽しかったのかは、正直なんとも言えないけれど、少しだけ寂しかった。
そして、それからこのグループチャットは止まっている。
あれだけ一緒に練習していたのに、あれ以来集まっていないし、学校で会ってもバンドの話にはならなかった。
眠ってしまったチャットを起こそうとして、文字を打っては消して、そして閉じる。そんな毎日だ。
たぶん、私たちのバンドはもう終わってしまったんだ。
きっとそれだけのこと。
私はあらためてTennesseanを引き寄せる。
E。もう群青は見えない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
土曜日。私はスタジオに行く前に、SAKURA楽器へ立ち寄った。そろそろ弦を買い替えたいと思っていたからだ。
「コーティング弦にしてみたら? 好みはあるだろうけど、長持ちするから、トータルコストでは通常の弦より安く済むこともあるよ」
「なるほど……」
「コーティング弦は、いつものSITより錆びにくいよ。そういう意味では劣化はしにくいね。物理的な強度は大差ないから、アヤちゃんみたいに弦切りまくるなら、あとは好みだねぇ。どう? 最近はそうでもない?」
「慣れてはきました……今もアタックが強いって指摘されます。自分でも直すべきなんだろうって思いつつも……」
「それは、いいんじゃない? それこそ慣れだからさ。アヤちゃん、はじめて一ヶ月とか二ヶ月とかそんなもんじゃん? まあ、それにしては弦切りすぎだと思うけど。というかSITなら、うちよりネットのほうが安いよ」
馴染みの店員さんと会話をしながら、私はいつもの弦をいくつか手に取った。
コーティング弦というのは確かにいいのかもしれないけれど、なんだか変える勇気がない。
「けどお小遣いもかなり限界で……アルバイトしなきゃなって思ってます」
「へぇ、バイト。そりゃそうだよね。ギターとかバンドってさ、意外と金かかるのよ。働くとこ決めたの? うちは? スタッフなら募集してるよ。アヤちゃん、接客は向いてなさそうだし、そっちならいけるじゃん?」
「そ、そうですね……」
酷い言われようだけど、否定できない。
アルバイトを検討するにあたって、まず排除したのが接客だからだ。コミュニケーションが取れないわけじゃない。なんだか疲れてしまう。ギターをはじめても、バンドで演奏しても、この視界を覆うノイズが完全に消えたわけじゃないから。
「品出し、在庫管理、清掃。一日三時間、勤務日数応相談。時給は安いけどね。二〇時には上がれるし、学校帰りでも働けるよ。どう?」
「えっと……そ、そうですね……考えておきます……」
「うんうん、それでいいよ。お姉さんは、アヤちゃんがギター続けてくれただけで嬉しいからね。もっと頑張ってほしいだけなのさ」
お誘いを保留しながら、私は買ったばかりの弦を鞄に押し込んだ。
そのまま挨拶をして、お店を出る。
狸小路二丁目側の通りへ向かい、右に折れる。
冬の空気が頬を叩いた。アーケードを抜けると、陽射しが雪に反射して視界が白く飛ぶ。Tennesseanのケースが肩に食い込んで、歩幅が狭くなる。
「あれ? 君は……」
顔を上げると、黒い服に身を包んだ女性。私と同じように、ギターケースを提げている。手には金属コーナーと黒い外装の箱――おそらくエフェクターボードを持っていた。
そんなところに意識がいってしまったせいで、FRONTで会った人だと理解するのが、遅れてしまった。
「あっ……バーカウンターのお姉さん……」
昼の光の下で見るお姉さんは、あの薄暗い地下とは別の人みたいだった。
背が高い。私より頭ひとつぶん向こうに目がある。黒いライダースの革が冬の陽射しを跳ね返して、鈍い光沢を帯びている。風に煽られても乱れない前髪からほのかに覗く眼差しは、ナイフのように鋭い。装飾がどこにもない。イブキ先輩の柔らかさとも、スバルちゃんの賑やかさとも、まるで違う。
削って削って、余計なものを全部落としたあとに残った線。異様なほどに整った顔かたち。そういう人だった。
そして、やっぱりこの人の周りには、色がなかった。
「バンド練習?」
「いえ……ひとりで……あの、うちじゃ音を出せないので……」
「へぇ、そうなんだ」
「は、はい……」
なんだか気まずくて、私は一段視線を落とした。
「じゃ、バンドは別でやってるんだ? 学生でしょ? 大変じゃない?」
「バンドは……もう終わっちゃったので……今はひとりでやってます……」
「…………」
はた、と会話が途切れてしまったのを感じる。変な言い方をしてしまっただろうか。だけど嘘をつくのもおかしいから、これでいいはずだ。
この間が、ちょっとだけ怖い。スバルちゃんじゃないと、受け答えできないんじゃないだろうか。
「どこでやるの?」
「えっ?」
「練習」
「えと……Piece Of Mind STUDIOっていう……」
「いいね」
「あ、はい……」
まただ。長続きしない。知り合いというほどでもないから、余計にそう感じるのかもしれないけれど。
「で、では……私はこれで……」
「ねぇ」
この場を去ろうと踏み出した私を、短く呼び止める。
「行くよ、私も」




