幕間
まばらな拍手が途切れ、演奏者が暗幕の奥へ消えたのを確認して、小さく嘆息する。
通路に流れる人を視界に収めるや、彼女もあとに続こうとした。
「よう、エア。もう帰んのか? まだ半分あるぜ」
「ええ、これぐらいで」
扉の傍、壁に寄りかかっていた照途に呼び止められる。
かつての面影を失った師に冷たい眼差しを浴びせた己を省みて、また溜め息が漏れた。
「お前にも審査してもらいたかったんだが」
「知っているでしょう。そういうのガラじゃないので」
「淡白な奴だなぁ。ま、いいや。気になったのはいたか?」
去ろうとした彼女へ、投げやりな問いが追いついてきた。ほんの少し思案して、口を開く。
「……四番目」
それきり口を閉ざし、拾壱号ビルの階段へと進んだ。
地下の濁りや淀みを孕む扉を、背中側へと押し黙らせる。コンクリートの階段を上りきり、ビルのエントランスから外界へと顔を出した瞬間――鼓膜を嬲っていた重低音の残滓や、壁に染みついた煙草の香り、べっとりと張りついていたフロアの熱までも、見えざる鉋によって寸分違わず削ぎ落とされた。
無防備な状態のまま、呼吸する。
喉の奥へ滑り込んだ気体は、砕けた蛍光灯の破片を丸呑みしたかのような、凶悪な痛みを伴っていた。胸の浅い位置でつかえた息をたまらずこぼして、容赦のない風を一身に受ける。
完璧にプレスされたシャツの上から、あつらえのいいライダースジャケットの襟元をきつく引き寄せ、街灯の射すほうへとブーツの踵を運ぶ。
だが、そこに広がっているのは、かつて都会で踏みしめていた無機質で従順なアスファルトではない。昼夜の寒暖差が練り固めた黒ずんだ氷の隆起に、体重を乗せた硬いソールが弾かれ、不快な感触とともに重心が外側へ滑る。
体勢を立て直そうと足首にこもるわざとらしい力み。裏で突き返されるのは、いかなる歩み寄りも許さない大地の鋭い反発だ。
「馬鹿馬鹿しい……」
夜のすすきのを東へ向かう。
国道三六号線では、膨大なネオンが、黒ずんだ氷の路面に毒々しい極彩色を撒いては消えていく。凍てついたアスファルトを蹴るたび、足音が周囲の喧騒に飲まれた。
神楽坂永愛にとって、極寒の景色はどうにも馴染みがたい。
除雪車が削り残した氷の段差を避けて、歩道の端を選ぶ。東京にいた頃は、足元に注意を払った記憶がない。視線が下がると、知覚まで翳る。それが苛立たしかった。
車道を挟んだ向こう側では、客引きの声が割れたスピーカーのように響いている。ネオンの色が積もった雪に沁みて、足元が妙に明るい。東京の歓楽街は上を見れば光があったが、この街では全部下に落ちている。
整然としたスタジオを離れた日の記憶が、白い息に混じって蘇る。手にするものすべてが虚しく感じ、いつしか北に流れていた。
札幌を選んだのは、雪に憧れたからでも逃げたかったからでもない。照途の顔がふいに浮かんだためだ。連絡を入れたとき、向こうは拍子抜けするほどあっさりしていた。来れば、と。その弛んだ言葉で、行き先は決まった。
あれからどれだけ経ったか、曖昧だ。
交差点にさしかかる。赤信号で止まった途端、真横を走り抜けたタクシーが泥水を撒き散らしながら、けたたましいクラクションを鳴らした。
びり、と大気が震える。その唐突な破裂音に、無意識のうちに肩が強張る。
そういった響きを、反射で仕分ける癖がある。高さ、芯、立ち上がり、煩わしい倍音。だいたいは、すんなり棚に収まる。いま耳朶を打ったクラクションも、本来ならそれで終わるはずだった。
だが今日は違う。同時に、処理したはずの像が網膜の裏側へ力任せに引きずり出された。
――四番目。
片づけたはずだった。件のバンドの九割九分は、とうに処理が済んでいる。ギターのピッチは甘い。ベースは中盤以後、沈みすぎた。ドラムは走る。スリーピースとしての骨格がまとまっていない。八組で技術的に最も拙いのは、疑う余地もなくあの三人だった。
信号が青に変わる。ブーツの底が氷を噛んで、小さく軋んだ。
曲が終わったあとだ。
ドラムもベースも止まって、フロアに数秒の空白が落ちた。あれは誰のものでもない。ただの隙間だ。
あの子は、そこで歌った。
頼まれてもいない。譜面にもない。なのに声が溢れていた。少なくとも永愛は、そう受け取った。
彼女が二〇年かけて築いた尺度に、乗らなかった。測れないのではない。そうしようとすると、指が滑る。ギターボーカルは、技術的には酷いものだった。しかし、異様なほど正しい音に向かうのが上手い。そう思った。その据わりの悪さがつっかえて、とれない。
酔っぱらいの笑いが背中を通り過ぎた。ネオンが割れている。どちらも耳に入っているのに、アウトロだけが同じボリュームで頭に居座っている。
邪魔だ。
舌打ちを噛み殺し、肩をすくめたまま歩を速める。どの音も、ビル風に攫われるより早く喧騒へ沈んだ。
明日のシフトを頭に並べる。酒の在庫、客の顔、グラスの配置。いつもなら即座に埋まる棚に、今夜は何も入らない。あいた場所に、彼女の声が戻ってきた。
国道に面した喫煙所に辿り着く。
ポケットのセブンスターの箱を探り、かじかむ指先で一本抜いた。親指でトップを弾くと、凛とした金属の響きが届いた。シリンダーを擦り下ろすと、暗闇の中へ均整のとれた火がつく。
深く吸い込まない。それがルーティンだ。
芳香の痺れが微かに滲む。口の端から紫煙を吐き出すと、灰色の粒子は冬の寒波に煽られ、形を成す前に千切れていった。
視界の先、靴で潰れた雪が泥に塗れている。
アウトロの像は、消えない。
空白に落ちた僅かな残響は、どれほど風に晒されても剥離しない。
理詰めで構築した思考のどの棚にも収まりきらない正体不明のノイズとして、頭の奥でざらついていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「四番目……四番目ねぇ……」
「撤収作業もやらねーなら裏に行ってくんない? テリーさん」
「俺はお前らがサボってないか見張ってんの。さっさと片付けろよ」
「はー、横暴だ」
吐き捨ててフロアへ戻るPAの男をぞんざいな台詞で送り、目を眇める。
既に帰宅したはずの永愛の呼吸が、遅れてやってきた。
一六歳でセッションギタリストとして仕事を受け、今や己よりも優れた技術を持つに至ったかつての教え子。きっかけは聞いていないが、札幌へと来た。
ジャンルに縛られない引き出しの多さ、卓越した技巧、研ぎ澄まされた刃のようなプレイング。あいつは優秀なギタリストだ、と照途は思う。何故こんな地方都市にいるのか、理解に苦しむほどに。
そんな永愛が放ってきた「四番目」という言葉。
違和感は、あった。
Tennesseanのフロントマンが、あそこで歌ったのはどうしてか。
歌もギターも未熟だ。曲は悪くなかったが、グルーヴはないレベル。
だが妙に耳に残った。
正直に漏らせば、ああいう手合の演奏は、冒頭を聴けば先がわかる。ライブハウスの店主として、あるいは元ミュージシャンとして、見立てが崩れるというのは、まずない。
だから少し宙に浮くものがあったことが、不思議でならない。
四番目。うら若い学生の、何となく衝動的に組まれただけのバンド。
こちらの審査――もとい、簡易的なレビューを聞かず帰っていったから、あまり縁がなさそうではあった。捨て置いてしまえばいい。蛇のように張りつくダクトに送られる空気と同じ。それで引っかからなくなる。その程度の感触。
「おお、照途くん。ライブどうだった? いいのいたかい?」
「いや、そうだなぁ……前田さんはどうだった?」
「うーん、どれも似たりよったりだね。トレンドは掴んでるけど……後ろのバンドは、なかなかだったね。まとまってた。六番と八番かな」
「そうだよなぁ」
ブッカーの前田は、照途より一回り年嵩で、FRONTでは最古参のスタッフだ。彼の評なら、ほぼ間違いはないだろう。というより、その目と耳を信用しているといったほうが正しいだろうか。
「四番どうだった?」
「四……いや、記憶にないね。それがどうしたの?」
「…………」
テリーはポケットをまさぐりセブンスターを掴む。そこで、はたとここが禁煙だったと思い返し、再び押し込んだ。
「なあ、前田さん」
「なに?」
「山岡家でも行こうぜ。プレミアム塩とんこつ食ってさ、帰りに飲もう」
前田は、呆れて肩を竦める。こんな軽薄さで、過去にはギターを抱えてアメリカを横断したなんて信じられない。
「あのねぇ……照途くん、健康診断酷かったんだろ。大丈夫なの?」
「そんなの気にしてらんねえよ。食いたいもんを食って、飲みたいもんを飲む。そんで明日になる。それでいいの」
「馬鹿だねぇ。で、いいバンドはいたかって話は?」
照途は重たい腰を上げて、
「四番目」
そう言った。




