第26話
指先が冷えていた。
暗がりの中で、Tennesseanのネックを握ったまま立っている。震えていた吸音材が静まって、ステージからは、何も聞こえなくなっていた。
足元がおぼつかない。自分の靴がどこにあるのか、ぼやけている。右のほうでスバルちゃんの息が短く抜けた。左のイブキ先輩は、静かに佇んでいる。
金属の擦れる音が奥からきた。暗幕の向こうで、マイクスタンドを引きずっている。ドラムのセッティングを確かめる靴底の擦れ。……転換って、そういう意味だったんだ。
スバルちゃんがスティックを握り直す。
イブキ先輩がストラップを撫でた気配。見えないけれど、革が軋んだのは聞こえた。
「行こ」
スバルちゃんの声は、私とイブキ先輩にしか届かない大きさだった。
重たい幕に触れると、布越しに照明の熱がぼんやり伝わってくる。
くぐった。
空気が裂けた。
明かりが頭越しに降ってきて、肌があっという間に乾く。暗がりに馴染んでいた目を、白い光が容赦なく焼いた。まぶたの裏まで熱い。
ステージの床は、楽屋の通路ともステージ裏とも違う、踏まれ続けて凹凸を失った平たい硬さ。前のバンドの汗が染みているのか、微かに光の反射があった。
客席に視線を向ける。
鉄パイプの先。暗いところに、まばらな人影が散っている。手元の光に俯いている顔。こっちを意識していない。誰も私たちを待ってはいない。ただ確かにいる。
フロアの中、ほのかに視界が滑る。透き通った温度だ。でも目は止まらない。
反対の端に、乾いた匂いが映って、消えた。
シールドをアンプへ差し込む。プラグが噛んだ感触。
Tennesseanに触れて、ボリュームを上げる。ピッキングはしていない。指を乗せただけ。なのに返ってきたノイズが、スタジオで聴いていたものとは別の場所から届いた。
近い。
壁に跳ねて戻る音じゃない。下にある鉄の箱から直撃する。同じ弦を、同じ力で触っているのに、滲み方がまったく違う。薄くて、広い。はじめてアンプを使ったときの、割れんばかりのフィードバックノイズを思い出す。
考えがまとまらない。
マイクの位置が高い。
スタンドの位置を調整してみた。
スバルちゃんが椅子に座った。ハイハットを踏む。チッ、と短い金属音が天井に弾けて、照明の熱に呑まれた。
イブキ先輩が|Rickenbackerのネックに手を添えながら、私を見ていた。
頷いて、ほうっと息を吐いた。
スバルちゃんのスティックが四回、鳴る。
はじまりはE。
右手を振り下ろした瞬間、スピーカーが返した音に色がついた。
昨夜の部屋にはなかった。あの視界を、ギターの余韻が塗り替えていく。
私は、知っている。この色を。
イブキ先輩のベース――太い振動が床を這って、靴底から脛を伝い、背骨を駆け抜ける。スバルちゃんのキックがそこに被さった。重ねるのではなく、ぎゅっとすし詰めにする感じ。スネアがぱん、と短く弾けて残響を待たずに次が来た。
Aメロ。コードを追いかける。指が覚えているフレットへ自然に収まった。
昨日の続きだ。
力いっぱい吸った酸素が、ストロークに合わせて押し出される。スピーカーから漏れる三人の音が、すぐ傍で呼吸していた。ぶつかっているのに、まだその場所にいる。
幾度も弾いた。この順番を。この指を。
声がこぼれ落ちたのは、Bメロだ。
ここから、二小節後にベースとドラム。
コードの間隔が広くなる。歌いながら、フレットの位置を確認する。ステージ上だと、手元がすごく見えづらい。
スバルちゃんのハイハットが、うっすらと走った。
気のせいじゃない。次のスネアも変わらなかったから。打点が前に滑って、私のストロークより先にいく。階段を踏み外した空振りのような感覚。
イブキ先輩の低音が厚くなった。下にあったはずの振動が、横いっぱいに広がっている。まるで壁だ。私を支えてくれなくって、フレーズの底が布団を頭から被ったときみたいに重くって、乗りきれない。
ブレイク。
一瞬の余白。
私たちで、何度も合わせた。
だけど――
足りなかった。
スバルちゃんの最後の一打が、ほんの少し早く落ちる。ベースのタイミングが、そこでずれた。
私は止まれた。
なのに、再開の呼吸が揃わない。
サビだって、しっかりと口が開いた。
声は、出ている。
私、こんなに歌えたんだって思うぐらい、まっすぐな熱を帯びていた。
けれど、浮いている。ドラムに乗れなかったし、ベースの幅にも収まっていない。天井に向かって放り投げられて、どこにも着地しない。
まとまっていた輪郭が、散り散りになる。キャンバスを破り捨てたみたいに面が割れて、破片がそれぞれ違う角度に逸れる。
スバルちゃんがまた前に行って、イブキ先輩が沈んだ。
フロア――客席は冷めている。空気でわかる。私たちが合っていないと、伝わっている。
サビ終わりに一拍置いてユニゾン。
そしてギターソロにいく。
一八秒ぐらい。頑張ってほしいと、先輩に託された。フレーズを考えてくれた。絶対に外せない。必死に――完璧にはできないけれど必死に。
指を動かす。
三人では戻れない。
でも弦を押さえた先に、鮮やかに浮く箇所がある。
そっちへ。理屈じゃない。そっちのほうがきれいだったから。より鮮やかなところへ、ただ進む。
スバルちゃんやイブキ先輩がどこにいるか、正確に捉えられなくなった。聞こえてはいる。走るドラムも、沈むベースも、鳴っている。それなのに、寄りかかるんじゃなく、色づくほうへ私の体が転がっていく。
演奏が途切れる。
落ちサビ。
バスドラムの残響が床に沈んで、|Rickenbackerの唸りが引いていく。
静かだ。
「声が張りついちゃって、どうしようもない」
ワンフレーズ。
私の声。Tennesseanも響かない。
作詞は、私の言葉で、と言われた。
だから、私に見えることを書いた。
それだけ。正しいかは、今もよく理解していない。
ひとりだと形にならなかった。けど、さっきまでの三人がまだここにいる。
喉の形を作って、息を流して、音にする。
みんなで鳴らしていた色の欠片が、ステージにまだ漂っている。ぐしゃぐしゃになって、揃わなくて。それでもここにある。その残りを辿って、コードを押さえた。
口が開いた。
こぼれた。
届けようとしたんじゃない。
決めたわけでもない。喉が震えて、声がそこへ滑っていった。
ピッキングハーモニクスから音が戻って、最後のサビに入る。
スバルちゃんの立ち上がりが、少し遅い。
先輩のベースが、低いところから這ってきた。壁じゃない。もっと薄い。横に並んでいる。
ドラムが重なる。打点が、ようやく私のストロークと噛み合った。
たった数小節、バラバラだったものが同じところに刺さった。
短い。それが限界だった。
だけど、何かが通ったと感じた。
また楽器が止まる。
サビの、終わりの言葉。
「どうせ、どこにもないんだから」
歌はもう、ここでおしまい。
アウトロに流れていく。
終わっちゃう。離ればなれになって、僅かに戻ってきて、それで終わっちゃう。
あとはラララと声を流すだけ。
少し。ほんの少し物足りなくて。まだできることがあると信じて。
口ずさみながら指板に落ちかけていた顔を上げる。
ああ――
群青だ。
演奏はやり遂げた。ドラムも、ベースも、ギターも。
なのに私は、はじめてこの色を見たあのフレーズを歌っていた。
練習も相談もしていない。こんなつもりじゃなかった。
――声が、その色に向かって転がっていった。
息が漏れる。
拍手。
まばらで、すぐ止んだ。
視界が大きく開けた。ステージの照明が目を焼く。その白さの奥で、フロアの影がぼんやり揺れている。
何かが見えていた。さっきまで散っていたものは、遠くにいった。手を伸ばしても届かない。端から色が抜けていく。
群青が、薄れていく。
イブキ先輩がシールドを抜く音がした。スバルちゃんが椅子から腰を浮かす。
私はTennesseanのネックを握ったまま、動けなかった。




