第25話
すすきの駅を上がってすぐのハンバーガーチェーンに入ると、イブキ先輩が小さく手を振っているのが見えた。
「遅れてすみません……」
「ううん、ぴったりだよ」
「あれ? スバルちゃんは……」
「あっち。飲み物買ってくるって。もうずっと前に来てたんだよ」
レジに視線を移すと、スバルちゃんがちょうど注文を終えてこちらに歩いてくるのがわかった。
私も注文しなきゃと思い、鞄とハードケースを置く。
「お、アヤ、お疲れ。コーラ買っといたよ。あれ? コーラでいいっしょ?」
「お疲れさまです。ありがとうございます」
スバルちゃんが座ったのを確かめてから、私も隣に腰掛けた。
重たいギターの感触がなくなって、少しだけ落ち着く。
「どう? ちゃんと寝られた?」
「いえ……なんだかそわそわしちゃって……ギターをケースにしまったのにまた引っ張って弾いたりして……知らないうちに朝になってたぐらいで……」
「アタシも似たようなもん。や、こんな緊張すんのかって。だって二時間ぐらい早く着いちゃって、ブラブラしてたわ」
「意外。スバルちゃんって、そうなんだ?」
「心臓がもう飛び出た感じですね。ガチでヤバいです」
柔和なイブキ先輩とは対照的に、スバルちゃんはあまり記憶にない表情をしている。言葉は軽いけど、トーンは鈍い。それが伝わってきて、私までドキドキしてきてしまう。
「そろそろだね。準備しよっか」
お店を出ると、すすきのが薄暗くなりはじめていた。私たちにほんの一瞬訪れた沈黙が、冬の寒さをより尖らせている。
もうすぐ日暮れだけれど、ビルの間から差す光が雪道に跳ねて、やけに眩しい。
スバルちゃんが半歩先を行って、イブキ先輩が私の横にいる。コーラの炭酸がまだ喉の奥で弾けていて、その刺激が今の私の輪郭を保っている。
信号を渡って、雑居ビルの並ぶ一角へ。
「てか、アタシ、朝から腹壊してんだけど」
「それ言わないほうが、よかったんじゃない?」
「いやガチで。イブ先輩、緊張するとくるタイプじゃないですか?」
「私はそういうのはないかな」
私は笑おうとして、頬が引きつった。顔の動かし方がわからなくなっている。
ギターケースが肩にのしかかる。いつもの重さなのに、今日はそれが背中まで届く。掌が汗をかいていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
見慣れた階段だった。
降りるたび靴底に返ってくる鉄板の硬さも、内装に染みついた煙草と、何かが焦げたような匂いも、覚えている。それでもハードケースが食い込むたび、すべての手触りが違うほうへとずれていく。
前は、この先にあるものが怖かった。
今は、この先に立たなくちゃいけない。
どっちがましなのか考えかけて、足を止めそうになった。そうなったら最後、このまま引き返してしまいそうで、段をひとつ飛ばした。着地が雑になって、ケースの中でシールドがカチャリと鳴った。
「や、着いたね」
扉の傍で、スバルちゃんが振り向いた。初めて来たとき、金色のドアハンドルを握ったのもスバルちゃんだった。あのときは制服だった。今日はスティックケースとシューズケースを持っていて、鼻の頭が赤い。
迷いなく、開けた。
空気が入れ替わった。籠もった湿気と、何層にも重なった夜の残り。甘いのか苦いのか理解できない匂いが、鼻ではなく喉の裏側に落ちてきた。
知っている。全部知っている。
なのに通路の幅が狭い。ケースが壁にあたりそうで、肩をすぼめた。すぼめたら余計にストラップがずれて、直す余裕がないまま歩いた。
「出演の方ー?」
受付に、イブキ先輩が「はい、そうです」と答えてくれた。
「おぉ、マジで来たのかよ」
「や、アタシ電話したじゃん。バンド名も人数も伝えたし」
「若い奴はわかんねーもんだな。お前、聴く専だと思ってたぜ。ま、嬉しいよ。一〇バンドぐらい集めたかったけどよ、お前ら含めて八バンドだ」
「うちら、最近はじめたんで。まあ、急に決まったっていうか」
「ふーん……なんだ、お前、Gretsch弾くのか?」
「えっ、あっ……は、はい……」
スバルちゃんと談笑していた男性が、私が背負っていたギターを覗く。
――あの日、ステージで、ギターを掻き鳴らし鉛色の声で叫んでいた。
「ハコモノか。いいじゃねーか。気合あんな」
「あれ? テリーさん、ハコモノ嫌いなんじゃねーの?」
「馬鹿だなぁ、お前。好き嫌いと、良し悪しってのは別なんだよ」
割って入ってきた受付に対して、店長がかぶりを振った。
あの色を放った人には、どうにも見えなかった。
「ま、ちょっとしたイベントだから、堅苦しく考えんな。ああ、そこのドリンクはサービスだからよ。楽しんでいってくれよ」
私の肩をポンと叩いて、そのまま裏へと消えていく。
ほのかに煙草の香りを漂わせながら。
「アヤ、楽屋こっちだって!」
店長を目で追っていた私を呼ぶスバルちゃん。
私は慌ててそちらに駆け寄る。
案内された通路は、人ひとりがまっすぐ歩ける程度の幅しかなかった。片側の脇にギターケースやドラムのハードウェアバッグが積み上がっていて、残された隙間に体を横にして進む。足元にあふれたシールドの束を踏みそうになった。
反対は大理石風のパネルで、蛍光灯の明かりを跳ね返している。天井も低い。剥き出しのパイプやダクトは、手を伸ばせば届きそうだった。奥のほうに丸テーブルとソファがあったけれど、そこにも誰かの荷物が載っていて、座れなさそうだ。機材と壁に挟まれたまま、突き当たりにある扉を引いた。
楽屋は、思っていたよりずっと狭かった。
六畳あるかないか。外周に長椅子がふたつ向かい合っていて、間を通るのがやっとだ。
そこに、大勢がいた。
端にもたれてスマホをいじっている男性。スティックを回す女性。床に直接座って、ギターケースを枕にしている姿もある。声が近い。全部が近い。距離が均等に縮んでいて、人いきれと機材の金属の匂いが、空気を分厚くしている。
「うちら、あのへんですかね。荷物置けそうなの、あそこぐらいだし」
スバルちゃんが指した先に、三つぶんのスペースがかろうじてあいていた。
ケースを降ろす。立てかけるところを探して、横にいた男性のベースケースにぶつかりそうになった。
「あっ、す、すみません……」
相手はイヤホンをしていて、こちらに反応すらしなかった。
ようやく座った。
長椅子の隅、イブキ先輩とスバルちゃんに挟まれた位置。太ももにギターケースの角が当たっている。どかしたいけれど、場所がない。
対面に座っている人が、曲を口ずさんでいた。ひとりが歌いはじめると、別のひとりがアンプなしのベースを被せてくる。リズムが合っていて、お互いの呼吸を知っている感じがした。
その隣では別のバンドがセットリストらしき紙を囲んで、ペンで何かを書き直している。そんな響きが、妙に耳に刺さった。
「あれ、スリーピースなの?」
スバルちゃんに話しかけてきた、革ジャンの人。
「ですよ。そっちも?」
「そーなんだよ。うちメタルやんだけど、ひとりやめちゃったんだよ」
「えっ、三人でメタル? マジ? ヤバいですねー」
スバルちゃんの声がいつもより高い。緊張で跳ねているのか、素でテンションが高いのか、判別できなかった。
イブキ先輩はベースケースを抱えたまま、静かに目を閉じている。
私は黙っていた。
手を膝の上に置いて、指を見る。弦の跡がまだ残っていた。昨夜からずっと消えない。
さっきのバンドの合わせが途切れて、替わりに誰かの笑い声が弾けた。高くて短い。すぐ傍で缶を開ける音。プシュ、という破裂と、炭酸のしゅわしゅわが耳の中で膨らんだ。
別方向からは、ギターのチューニング。ペグを回す金属の軋みが、細い針みたいに鼓膜を引っ掻いてくる。
ひとつひとつは小さいけれど、数が多い。
どれもが名乗ってくる。灰色の砂嵐じゃない。粒がそれぞれ好きに主張していて、秩序がない。混ざらないまま層になって、視界の端がちらちらし始めた。
蛍光灯がじじ、と鳴った。そんなことまで拾ってしまった自分に気づいて、唇を噛んだ。
「……っ」
誰かがチューニングしきっていないギターを響かせた。嫌な揺れが床から這い上がってきて、足の裏を通って脛に伝わる。部屋の様子がもうひとつ重くなった。
どうして、こんなに全部聞こえるんだろう。普段は我慢できている。歯を食いしばって、飲み込んで、顔に出さないようにして、やり過ごしてきた。にもかかわらず今は顎が震えて、噛みしめる力がうまく入らない。
「ちょっと……外、行ってきます」
「大丈夫?」
イブキ先輩の声が、遠い気がした。近くにいるのに。
「はい、すぐ戻ります」
立ったとき、膝がギターケースに引っかかって倒しそうになった。慌てて押さえる。掌が冷たい。ライブハウスに到着したときには、汗をかいていたはずだ。指先の温度が抜けていた。
人と人の間を縫って、ドアを押す。
廊下へ抜けたら、耳の圧が少し緩んだ。
まだ音は聞こえている。フロアから漏れる声と、どこかで鳴っているベースの低音と、空調のうなり。でも、四方八方同時に殴られるような密度ではなくなった。
壁に寄りかかった。コンクリートの冷たさが、肩甲骨から背骨に沁みていく。
呼吸が浅い。肺の底に届かない。途中で折り返して、喉元で溜まっている。
目を閉じた。
まぶたの裏に、あの明かりの残像がちらついている。白くて、硬い。
フラフラと狭い道を過ぎ、バーカウンターのほうへ進む。
お水をひとつお願いして受け取ったとき、隔てた先からドンと衝撃が響いてきた。
スマホを確認すると、ちょうど最初のバンドが演奏をはじめる時間だった。
こういうとき、見に行ったほうがいいのかな。だけど、この調子じゃ――
「今日も、音に酔ったの?」
「あっ……」
すぐ隣で私を覗いているのは、いつか私に水をくれた女性だ。
「ギター弾くんだ? 担いでたでしょ」
「はい……演奏するんです」
鋭い視線と、尖った声。ひどく透明で、彼女が発するものすべてに余韻がある。
そのおかげか、私の意識もはっきりしてきた。
「いいね」
「あの……お、お姉さんは……」
「ははっ、お姉さん? はじめて言われた。私はやらないよ。呼ばれて来ただけ。帰ろうと思ってたけどさ、酔っぱらいの君がいるなら、見とくよ」
「酔っぱ――」
私が返す暇もなく、お姉さんはフロアへと入っていった。
ペットボトルを握ったまま、バーカウンターに座っていた。
フロアのほう。くぐもった音の塊が断続的に届いてくる。曲の切れ目に拍手が混じって、それが止むとまた次の圧が押し寄せる。壁を挟んでいるせいで、何が鳴っているかはわからない。ただ、音圧が腰骨に伝わってくる。
最初のバンドが終わったらしい。扉が開いて、観客が出てきた。額に汗を浮かべた男性が、息を弾ませながらカウンターでドリンクを注文する。声が妙に大きい。話の内容より、ボリュームが先に刺さった。
私はそこより少し離れた席で、水を一口含んだ。
二バンド目に切り替わる僅かな静けさが、かえって耳に痛い。何もないはずだけど、直前の震えが骨の中にわだかまっている。
やがてフロアの扉が閉まり、低いうねりがきた。さっきよりテンポが遅い。ベースの一音一音が重たくて、仕切り越しでもなお内臓を押してくる。カウンターに置いた手が、微かに揺れていた。
スマホに通知はない。グループチャットも止まっている。イブキ先輩もスバルちゃんも、あっちにいる。帰ったほうがいいのはわかっている。わかっているけれど、腰を上げる動作がうまくいかない。立つための順序を、忘れてしまったみたいに。
ペットボトルを両手で包むと、自分の体温が移っていた。あれだけ指が冷えていたのに、いつの間にか戻っている。
三バンド目。それまでのふたつとは違う質の振動がやってきた。ドラムの連打が壁を叩いて、水が小さく波紋を起こす。速くて、荒い。そこにギターの高音がキンと抜けてきて、この隔たりにもかかわらず鼓膜が痺れた。
この重さを、あと少しで私が作る側になる。
その事実が、お腹の奥にゆっくりと沈んでいった。
ボトルのキャップを閉めて、カウンターに戻す。プラスチックが天板に当たる。
「アヤ!」
通路の向こうでスバルちゃんが顔を覗かせた。
「そろそろ準備だって!」
「……はい」
立てた。膝が笑っているけれど、問題ない。
スバルちゃんの後ろについていく。先ほど離れていった道を逆に歩いている。横のパネルも、積まれた機材も同じなのに、行きと帰りでは道のりの長さが違った。短く近い。
扉をくぐると、密集感が薄れていた。演奏を終えたバンドがフロアに移ったのか、荷物の隙間が広がっている。長椅子のひとつが丸ごとあいていた。
代わりに、匂いが変わっている。汗と体温の名残が蛍光灯に灼かれ、湿ったぬるさが室内に溜まっていた。窓がないから逃げない。換気扇は回っているけど、追いつかない。
イブキ先輩がベースケースを開けていた。|Rickenbackerの深い赤が、明かりの下で光っている。
「調子はどう?」
「はい……すみません」
「謝らなくていいよ。無理はしないでね」
先輩はそこで黙ってしまった。
私もケースを開ける。バックルを外す指が、昨夜と同じ動きをなぞった。
パチン。
昨夜のほうが大きく聞こえたのは、あのとき部屋が静かだったためだ。今は周りに紛れて、私のものが遠い。
Tennesseanを抱えて、膝に乗せる。
そこでふっと呼吸が落ちた。
ずっと浅かった。ギターの負荷が太ももに来た途端、肺の底に息が届く。
背負っていたときはあんなに食い込んでいたのに、ここに置くと、収まるべきところに収まっている感じがする。
弦に触れた。冷たい。まだ弾いていないからだ。でも、すぐに掌の熱が移る。
三バンド目のドラムの振動が、壁を越え、床を這って、Tennesseanのボディに入ってくる。他人の音が、私のギターの中で震えている。
「準備できた?」
「はい」
「じゃ、行こっか」
イブキ先輩がベースのストラップを肩にかけた。スバルちゃんがスティックを握って立ち上がる。二本の棒を握ったまま、一度、太ももを叩いた。スタジオでも先輩の家でも、スバルちゃんの家でも聞いた音だ。
私もTennesseanを提げて、ふたりに続く。
楽屋を出る。細道を、今度は三人で歩く。ちょっと前、ひとりで逃げてきた道だ。機材の山が半分なくなっていて広い。パネルがずっと先まで伸びていた。
ステージ裏への角を曲がると、ふいに暗くなった。ステージの照明が暗幕の間から細く漏れているだけで、下が掴めない。イブキ先輩の|Rickenbackerのヘッドがぼんやり赤い。スバルちゃんのスティックの端が、わずかに光を拾っている。
誰も喋らなかった。
向こうで、まだ演奏している。ドラムのフィルが速くて、壁が息を吸うみたいに膨らんだと錯覚した。
止まった。
最後の一音が残響で伸びて、薄くなって、消えた。
拍手。それも引いていく。
足音。シールドを抜く音。アンプのスイッチが切れるパチン。ドラムのシンバルを外す金属の擦れ。
終わっていく音だ。
ひとりずつ通り過ぎていった。暗くて表情は見えない。すれ違いざまに、蒸れた匂いが鼻を横切った。
全員がいなくなった。
ステージの向こうが、静かになった。




