第24話
ベッドの上で、壁に背を預けて腰を落とした。
Tennesseanのボディが太ももに乗って、慣れた重さが戻ってくる。
時計は見ない。
夜だということは、窓の向こうが暗いのでわかる。カーテンの隙間から、国道三六号線の光がときどき天井を舐めていく。時間が動いている証拠。
明日だ。
その一語が、頭の隅にずっと座っている。どかそうとしても動かないし、かといって暴れもしない。
弦に触れた。
左でEの形をつくって、右で振り下ろす。部屋にアンプはないから、生音が短く跳ねてすぐ布団に吸われた。
C#だ。薬指の腹がフレットを押し込んで、金属の冷たさが骨まで届く。
イブキ先輩の曲。
もう数え切れないほど弾いた。覚えている。覚えているのに、毎回ほんの少し違うトーンになる。同じ動きをしているのに、同じにならない。最初の頃は、それが怖かった。今は――平気だ。けれど、慣れたわけじゃない。
Aメロの終わりまで来て、いつもの空白に差しかかる。
ここが、声が落ちるところ。
唇が開きかけて、閉じた。
喉の奥に、何かが張りついている。いつもそうだ。ここだけは、ひとりだと形にならない。スバルちゃんのドラムがあって、イブキ先輩のベースがあって、その真ん中でようやくこぼれる。
今は、これでいい。あの場所で出ればいい。
――出るかはわからないけれど。
空白を飛ばして、Bメロをなぞる。
ちょっと走った。テンポを意識したはずなのに、体が駆けようとする。深呼吸をひとつ。弦から手を離して、もう一度置き直す。
繰り返す。
繰り返す。
ノートは、ギターケースの蓋の裏に挟んである。
斜線だらけのページと、斜線じゃないページ。借り物の言葉は全部消した。残っているのは、私の中から溢れてきたもの。
足りているかはわからない。
歌詞と呼べるのかも、わからない。
でも、もうなかった。絞っても、振っても、これですべてだった。
サビの直前まで弾いて、止まった。
止めたんじゃない。止まった。
弦の上に指が乗ったまま、動かない。
静かだ。
アンプがないから、Tennesseanの残響はすぐ消える。エアコンの送風音と、遠い車のタイヤが雪を踏む音。それだけ。
何も見えない。
灰色じゃない。砂嵐でもない。群青でもない。
何もない。
静かで、透明で、冷たくもなくて。
怖くない。
怖くないことが、おかしいと思った。
私はずっと、何も見えないのが一番怖かった。灰色よりも、砂嵐よりも。
なのに今は、この中に座っていられる。
視線が落ちた。
ベッドの脇、フローリングの——あの場所。
充電ケーブルは、とっくにどこかへ追いやられていた。
置くものが決まらなかったそこに、黒い箱がある。
それだけのことが、胸をじわりと押した。
私は、また弦に手を戻した。
E。最初の音。さっきと同じところから。
同じ曲を、頭から鳴らす。
今度は通しで、進んでいく。空白も飛ばさない。声は乗らないまま、指がその場所を通過する。喉の形を作って、息を流す。音にはならない。それでも体は次へ進んだ。
サビに入る。メロディを追いかけて、コードが切り替わる。ここの展開はスタジオで幾度も合わせた。イブキ先輩が苦笑しながら直してくれた繋ぎ。スバルちゃんが「ここキメたくね?」と言って、三人で繰り返しやった。ひとりで弾くと、間が広い。支えがないぶん、自分の音がぽつんと留まる。
だけど、最後まで行けた。
余韻はない。布団と壁に吸われて、響きは返ってこなかった。
Tennesseanを膝から降ろして、ベッドの縁に立てかける。
それからケースを開けた。
蓋の裏のノートを引き抜いて、ページを確認する。黒く塗りつぶした行間をそっとなぞった。文字は読まない。そこにあることを確かめて、また挟む。
ケースにはシールド、ピック、チューナー、ストラップ。ペイズリー柄のナイロンが端で折れていたので、伸ばして入れ直した。弦は――しっかり張り替えた。予備が一セット、ポケットに入っている。切れたら替えられる。
ひとつずつ触って確認していく。
チューナーの電池。ピックの枚数。シールドのプラグ。
明日になったら、全部ここから出す。
ケースのバックルをパチン、と留めた。
その音が、やけにはっきり聞こえた。
ふとスマホが点滅しているのに気づく。
グループチャットに「スティック折れて、ガンダした」という短い文章とともに、自撮り写真が添えられていた。鼻と耳が真っ赤なスバルちゃん。
咄嗟に文字を打とうとして、画面を開いたまま考える。
「頑張りましょう」では駄目だ。「おやすみなさい」もきっと違う。どう答えればいいのかわからなくて、猫のスタンプをひとつ押して、画面を伏せた。
イブキ先輩からは反応がない。たぶんもう寝ている。あの人は、こういう夜でもちゃんと眠れるタイプだと思う。
喉が渇いている。
ベッドを抜け出して、廊下に向かう。暗い。お母さんはもう寝ている。リビングを通り過ぎるとき、テーブルに紙袋が置いてあるのが見えた。パステルピンクのリボン。いつものケーキ屋さんだ。しまい忘れたのか、私に気づかせるために置いたのか。
コップに水を注いで、立ったまま飲んだ。冷たいのが喉を滑っていく感覚がはっきりしていて、あとは暗い台所の輪郭がぼんやり浮かんでいる。
部屋に戻って、ドアを閉めた。
窓の外で、除雪車がゆっくり通り過ぎていく。低い唸りが遠ざかって、また静かになった。
毛布を引き上げて、仰向けになる。天井に、国道の光がまだ走っている。
眠れる気はしない。お腹の底がじんわりと重たくて、目を閉じても指にフレットの溝が刻まれている。
言葉が足りるかも、声が落ちるかもわからない。あそこに立って、何がこぼれるかなんて決められない。
でも、ケースの中身は揃っている。弾ける曲はひとつ。ノートに残った言葉がいくつか。それだけ持って、あそこに行く。
これ以上足しても、たぶん変わらない。
まぶたを塞いだまま、右手をベッドの外に垂らした。
ハードケースの角に触れる。
冷たくて、硬い。
ここにある。
明日も、ここから始まる。




