表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Sugarless SugarLady  作者: アベシ
第六章
PR
25/33

第23話

 ノートを開いた。

 ペンを持った。

 それだけで、もう三〇分が経っていた。


 机には、イブキ先輩が送ってくれた曲の構成メモがスマートフォンに表示されている。Aメロ、Bメロ、サビ。小節数とコード進行と、テンポの数字。あとは譜割。決まりに沿って、歌詞を書く。単純だ。

 罫線の上にペンを置いた。インクが小さな点をひとつ落とすけど、そこからが続かない。


 言葉が浮かばないのではなかった。浮かんでは消えている。「灰」と書きかけて、違うと考える。「色」と書きかけて、それも消した。消したというか、その前に指が止まった。どれも嘘じゃない。けれど、全部あのざらざらした感触に届いていない。

 スタジオで喉から漏れた声を思い出そうとする。残っているのは、声を発したあとの喉のひりつきと、体の芯を通った熱だ。


 それを詞にする。

 どうやって?


 そんな悩みを掻き消すように、携帯が振動した。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 駅から一〇分ほど歩いて、発寒河畔公園の傍。厚い雪に覆われた住宅街の角地に、スバルちゃんの家は建っている。

 濃いグレーの壁に、ところどころ木目のパネルが挟まった二階建て。窓が少なくて、中に六人も暮らしているとは思えないくらい、すんとした顔をしている。


 玄関に向かって、インターホンに手を伸ばしかけたとき、

「アヤ! こっち!」

 声が玄関じゃなくて、ガレージのほうから飛んできた。


 シャッターが半分ほど上がった隙間から覗くと、奥でスバルちゃんが顔を出している。白い息がぽんぽん弾けていた。

 かがんでシャッターをくぐる。

 奥の壁際に押し込まれた自転車。隣には、無造作に立てかけられたプラスチック製ソリと、どっしり場所を取る赤いママさんダンプ。ミニバンと冬の道具たちで埋まったガレージは、あの静かな外観からは想像できないくらいだ。弟たちの遊び道具の匂いが鼻を抜ける。


 ただ、空いたスペースの最奥は、記憶になかった。

 五畳ほどの部屋。

 中を覗いて、足が止まった。


「寒かったっしょ。入って入って。ガチ熱いお茶淹れたげるよ。なんかうち来んの久しぶりかー?」


 コンクリートの壁に木の床。隅っこに灯油ストーブが座っていて、オレンジの火がぼんやりと室内を温めている。片面にはポスターがいくつか無造作に貼られていた。

 そして中央に、ドラムセットらしきもの。黒いパッドとシンバルが、金属のフレームに組み上がっている。

 見慣れた人と、見知らぬ部屋。


「こんにちは、スバルちゃん。たぶん、私が入学する前――ぐらいに来た覚えがあります」

「あー、それな。はい、番茶。灯油ストーブで温められるのさ。ばあちゃん家みたいじゃね」

「ありがとうございます」


 私はすぐ傍にギターケースを置いて靴を脱ぎ、熱々のお茶を受け取った。


「この場所、昔からありましたか?」

「あれ? アヤ知らんかったっけ? ここね、パパの趣味部屋だったの。で、奪った」

「うば――え?」

「もともと防音しっかりしてたから、ちょうどいいなって。見てこれ。ドラム買ったわ。YAMAHA(ヤマハ)の電子ドラム。中古だけど、エグくない? バイト代でさ。コスメとラーメンはちょい我慢だなー」

「す、すごいですね……機材は買えないって話してませんでしたっけ……」

「そんな昔の話すんなよー!」


 私としては最近だったように思うけれど、スバルちゃんは同じ時間を生きていないのかもしれない。


「その……ところで私、どうして呼ばれたのでしょうか? ギター持ってこいって連絡があったので、急いで来たのですが……」

「これ、ほら」


 ドラムセットの足元に、小さな黒の塊。

 Roland(ローランド)のロゴがのったギターアンプだ。


「え……アンプですか?」

「そ。それも中古ね。アヤ、SAKURA楽器にテンション高い店員いるって話してたくない? その人に聞いて買ってきたわ」

 なんという行動力……おそるべし。


「アタシさ、ここでアヤと合わせたくてアンプ買ったわけ。で、ついでにギターも触ってみたらさ、これがまあ意味わかんないぐらいムズいの。アヤ、よくこんなんできんなー」


 アンプと並んで置かれているギターは、ストラトタイプのモデルだ。

 そっと近づいて覗いたところ、弦高がやけに高いのがわかった。


「……そうなんですね。なんかスバルちゃんなら、すぐ上手になりそうですね」

「あはー! ないなー。アタシ、不器用だし。飽きっぽいし」

「飽きっぽいのにドラム買っちゃったんですか?」

「ほんとそれな」

 あっけらかんと笑って、スバルちゃんは椅子に座った。


「ここ、寒くね? そこだけ問題だわ。ドラムとストーブって離さなきゃなんだってさ。余計に寒いわ」

「は、はぁ……」

「でさ、アヤ、合わせよ」

「えっ、ああ……はい……」


 いつもの調子でまくしたてられて、私は慌てて立てかけていたケースを開いた。

 そこからまだほとんど手つかずのノートが落ちる。


「ん? なにそれ?」

「あっ――」


 スバルちゃんが、私より早くノートを拾った。

 表紙をめくる。

 一ページ目。斜線。二ページ、斜線。三ページも、四ページも。書いては消した跡が、何行も重なっている。

 全部確認された。「返して」と手を伸ばす前に、スバルちゃんの目がページの上を滑り終えていた。


「悩んでんねぇ」

「いいのが出てこなくて……譜割って難しすぎます」

「アヤ、やるって言っちゃったしねぇ」

「それにロックな歌詞ってよくわからなくて……愛してるぜベイベーとかロッケンロールとかでいいんでしょうか……?」

「ダサ。え、ダサ……えっ……」

「うぅ……」

「あは、ごめんて。そんな顔しないで。アヤさ、自分でもわかってんでしょ。だから線引いてんじゃん」


 ぱたん、とノートを閉じて、返された。

 受け取った表紙が、まだスバルちゃんの体温を持っている。


「イブ先輩が聞きたいの、アヤの言葉でしょ。だからそういうことだって」

 どういうことだろう?

 私は、こんなに困っているのに。スバルちゃんはまったく、いつもの感じだ。


「アヤ、国語の成績どうなん?」

「……良くも悪くもないです。悪い寄りかもしれません」

「ふーん、とりあえず合わせよ」

「相談に乗ってくれるわけじゃないんですね……」

「アタシ、国語二だぞー。なんも浮かばん」


 スバルちゃんはスティックを握って、スネアをタン、タンと小気味良く叩いた。

 スピーカーから音が聴こえてきて、ちょっとだけびっくりする。


「アヤ、はやく」

「は、はい」


 ギターのセッティングを急いで、アンプに通す。

 スタジオで私を飲み込んだ、あの大きなMarshall(マーシャル)とは、まるで別の生き物だった。

 あっちは空気ごと持っていかれるような、塊でぶつかってくる重さだった。このアンプは、そういう力を持っていない。


 こぼれ落ちたのは、角の取れた水滴みたいな音。

 指先が拾った細かな震えが、静かに広がっていく。ごまかしが利かない。ありのままの姿。

 パネルに並んだツマミのひとつに、コーラスと書いてある。右に回してみた。


 もう一度、弦を弾く。

 まっすぐだった音の縁が、ふわりと滲んだ。ひとつの音がたくさんの反射を連れて、きらきらと揺れている。


「じゃ、やるか」

 どの曲かを問いかける間もなく、カウントが刻まれた。


 最初はEで、次がC#、それでG#に繋ぐ。

 歌詞を考えすぎても仕方ない。今の私はただ鳴らすだけだ。


 Eを弾く。透明な粒が、コンクリートの壁に跳ね返る。スタジオの吸音材に飲まれるのとは違う。硬い面にぶつかって散って、戻ってくる。

 スバルちゃんのキックが追いかけてきた。電子ドラムの響きは軽い。スタジオで浴びた、背中ごと押されるような圧はない。タイミングだけが正確に私の足元に落ちてくる。


 C#――指が移る。コーラスの揺らぎが、コードの隙間を甘く埋めた。

 三人で鳴らしたときとは、景色が変わる。イブキ先輩のベースがあった場所がぽっかり空いていて、その穴を誰も埋めない。ギターとドラムだけで走っている。


 不安定だけれど、不安じゃなかった。

 足りないぶん、指が触れているものがよく見える。弦の一本一本が返してくる色が、濁らずにそのまま届く。Marshall(マーシャル)のときには押し寄せてきたのが、今は一粒ずつ、砂糖を摘むみたいに、確かめられる。

 Aメロの終わり。あの空白が来る。

 スバルちゃんのスティックが止まった。


 スタジオでは、ここで声がこぼれた。みんなの沈黙が、私の喉を開いた。

 今は、違う。

 声は漏れなかった。


 代わりに、静まった空間の底に、灯油ストーブの火が揺れている。オレンジの光がコンクリートをじわりと舐めて、私の手元まで染みてきた。弦を押さえた指に、輪郭が落ちる。

 それが目に映っているのか、耳の奥で鳴っているのか、わからなくなった。

 群青じゃない。あの日スタジオに広がった、深くて冷たい色じゃない。もっと――そう、体温に近い何かが、薄く視界の端に滲んでいる。


「……アヤ?」

 スバルちゃんの声で、指が動いた。止まっていたことに気づいていなかった。


「ごめんなさい、ちょっと……」

「や、なんかすごい顔してたくない? 大丈夫なん?」

「は、はい」


 大丈夫じゃないかもしれない。でも、怖いわけではない。

 ストーブの火は変わらず揺れている。さっきと同じオレンジ。さっきと同じ部屋。なのに、壁も床も天井も、数秒前とは温度が変わっていた。

 何かがわかりかけたのに、霧みたいに消えていく。

 私の言葉。

 私が見ている言葉。


 ふいにスバルちゃんの携帯が鳴り響いた。

 ギターのボリュームを下げる。


「おっ」

「どうかしましたか?」

「グループチャット開いてみ」


 鞄に押し込んでいたスマホを探った。

 三人だけのグループチャットにイブキ先輩からの通知が届いている。

 そこには「できたよ」と短い文、そして楽曲データがひとつ。


 スバルちゃんがスマホをドラムセットの横に置いて、画面をタップした。

 スピーカーは使わなかった。携帯の小さなスピーカーから漏れるだけ。

 先輩のピアノが、薄く鳴り始める。

 Aメロは知っている。Bメロも、さっき弾いた。そこまでは知っている。

 ブレイク。僅かな沈黙。


 そして――

 知らない音が来た。

 サビだ。

 ピアノの打ち込みが、ぐっと持ち上がる。メロディが跳ねている。開けた場所に飛び出したような広がりだ。

 携帯のスピーカー越しなのに、部屋が広くなった気がした。天井が抜けたみたいに。


 色だ。

 群青じゃなかった。もっと明るくて、もっと軽くて……けれど、どこかに熱を含んでいる。さっき弦に触れた指に落ちてきた、あの名前のない色に近い。


 けど、同じじゃない。

 イブキ先輩の音がそこにいて、さっきまで私が弾いていた残像がそこにいて、ふたつが触れ合う場所に、うっすら形が浮かんでいる。

 言葉じゃない。もっと前の、まだ何にもなっていないもの。

 なのに、ある。確かに、そこにある。


 手を伸ばしたい。

 伸ばしたら――ううん、声を出したら、届くかもしれない。

 ああ、それなのに喉に張りついてどうしようもない!


 演奏が止まった。

 たぶん三〇秒ぐらいだ。

 スバルちゃんが、スティックをくるりと回して、声を発さずにもう一度スマホをタップした。


 同じ三〇秒。同じメロディ。なのに、最初より近い。さっきは視界の端にいたはずなのに、今は正面にいる。まだ触れない。でも、顔がわかる。

 気づいたときには、ノートを掴んでいた。


 斜線のページを飛ばす。手が私の意思を無視してめくる。白紙を開いて、ペンを引き抜いた。

 書けない。だけど、さっきまでとは違う。言葉が浮かばないんじゃなくて、濁流みたいに押し寄せてきて、どれを置けばいいかわからない。

 ペン先が震えている。紙の上で止まったまま、インクが滲む。

 片っ端から、思いつく限りいくしかない。


「アヤ、ガチじゃん。いいね」

 スバルちゃんが、スティックで自分の膝をとん、と突いた。

 笑ってはいなかった。茶化してもいなかった。ただ真っ直ぐ、私を捉えている。


「……詞にするのって、難しいんですね」

「アタシはなんもわからん。でもアヤが悩んでやるのは、いいことなんじゃね」


 旋律を反芻する。

 見えてきたものを置いていくたび、視界が少しずつ柔らかくなった。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「駅まで送ってく?」

「いえ、ひとりで」


 ガレージの外では、雪がまた降り始めていた。

 もう日が暮れはじめている。


「歌詞できたらさ、次は最後まで通しで練習だなー」

「通し練習……」

「立って弾いて歌って、歌詞もメロディも作って、アヤ大変だ」

「自分で言ったことなので……歌は変わってほしいですけど」

「あはー! やだよ!」


 ふたりには迷惑をかけてしまっている。それぐらいはやらなくちゃ。

 ううん、もっと率先してやっていかないと。


 スバルちゃんに別れを告げて、雪を踏みしめる。

 少しだけ抜けの悪い、そんな足音。

 ノートを丸めて握りしめたまま、灰色じゃない帰り道を歩いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ