第23話
ノートを開いた。
ペンを持った。
それだけで、もう三〇分が経っていた。
机には、イブキ先輩が送ってくれた曲の構成メモがスマートフォンに表示されている。Aメロ、Bメロ、サビ。小節数とコード進行と、テンポの数字。あとは譜割。決まりに沿って、歌詞を書く。単純だ。
罫線の上にペンを置いた。インクが小さな点をひとつ落とすけど、そこからが続かない。
言葉が浮かばないのではなかった。浮かんでは消えている。「灰」と書きかけて、違うと考える。「色」と書きかけて、それも消した。消したというか、その前に指が止まった。どれも嘘じゃない。けれど、全部あのざらざらした感触に届いていない。
スタジオで喉から漏れた声を思い出そうとする。残っているのは、声を発したあとの喉のひりつきと、体の芯を通った熱だ。
それを詞にする。
どうやって?
そんな悩みを掻き消すように、携帯が振動した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
駅から一〇分ほど歩いて、発寒河畔公園の傍。厚い雪に覆われた住宅街の角地に、スバルちゃんの家は建っている。
濃いグレーの壁に、ところどころ木目のパネルが挟まった二階建て。窓が少なくて、中に六人も暮らしているとは思えないくらい、すんとした顔をしている。
玄関に向かって、インターホンに手を伸ばしかけたとき、
「アヤ! こっち!」
声が玄関じゃなくて、ガレージのほうから飛んできた。
シャッターが半分ほど上がった隙間から覗くと、奥でスバルちゃんが顔を出している。白い息がぽんぽん弾けていた。
かがんでシャッターをくぐる。
奥の壁際に押し込まれた自転車。隣には、無造作に立てかけられたプラスチック製ソリと、どっしり場所を取る赤いママさんダンプ。ミニバンと冬の道具たちで埋まったガレージは、あの静かな外観からは想像できないくらいだ。弟たちの遊び道具の匂いが鼻を抜ける。
ただ、空いたスペースの最奥は、記憶になかった。
五畳ほどの部屋。
中を覗いて、足が止まった。
「寒かったっしょ。入って入って。ガチ熱いお茶淹れたげるよ。なんかうち来んの久しぶりかー?」
コンクリートの壁に木の床。隅っこに灯油ストーブが座っていて、オレンジの火がぼんやりと室内を温めている。片面にはポスターがいくつか無造作に貼られていた。
そして中央に、ドラムセットらしきもの。黒いパッドとシンバルが、金属のフレームに組み上がっている。
見慣れた人と、見知らぬ部屋。
「こんにちは、スバルちゃん。たぶん、私が入学する前――ぐらいに来た覚えがあります」
「あー、それな。はい、番茶。灯油ストーブで温められるのさ。ばあちゃん家みたいじゃね」
「ありがとうございます」
私はすぐ傍にギターケースを置いて靴を脱ぎ、熱々のお茶を受け取った。
「この場所、昔からありましたか?」
「あれ? アヤ知らんかったっけ? ここね、パパの趣味部屋だったの。で、奪った」
「うば――え?」
「もともと防音しっかりしてたから、ちょうどいいなって。見てこれ。ドラム買ったわ。YAMAHAの電子ドラム。中古だけど、エグくない? バイト代でさ。コスメとラーメンはちょい我慢だなー」
「す、すごいですね……機材は買えないって話してませんでしたっけ……」
「そんな昔の話すんなよー!」
私としては最近だったように思うけれど、スバルちゃんは同じ時間を生きていないのかもしれない。
「その……ところで私、どうして呼ばれたのでしょうか? ギター持ってこいって連絡があったので、急いで来たのですが……」
「これ、ほら」
ドラムセットの足元に、小さな黒の塊。
Rolandのロゴがのったギターアンプだ。
「え……アンプですか?」
「そ。それも中古ね。アヤ、SAKURA楽器にテンション高い店員いるって話してたくない? その人に聞いて買ってきたわ」
なんという行動力……おそるべし。
「アタシさ、ここでアヤと合わせたくてアンプ買ったわけ。で、ついでにギターも触ってみたらさ、これがまあ意味わかんないぐらいムズいの。アヤ、よくこんなんできんなー」
アンプと並んで置かれているギターは、ストラトタイプのモデルだ。
そっと近づいて覗いたところ、弦高がやけに高いのがわかった。
「……そうなんですね。なんかスバルちゃんなら、すぐ上手になりそうですね」
「あはー! ないなー。アタシ、不器用だし。飽きっぽいし」
「飽きっぽいのにドラム買っちゃったんですか?」
「ほんとそれな」
あっけらかんと笑って、スバルちゃんは椅子に座った。
「ここ、寒くね? そこだけ問題だわ。ドラムとストーブって離さなきゃなんだってさ。余計に寒いわ」
「は、はぁ……」
「でさ、アヤ、合わせよ」
「えっ、ああ……はい……」
いつもの調子でまくしたてられて、私は慌てて立てかけていたケースを開いた。
そこからまだほとんど手つかずのノートが落ちる。
「ん? なにそれ?」
「あっ――」
スバルちゃんが、私より早くノートを拾った。
表紙をめくる。
一ページ目。斜線。二ページ、斜線。三ページも、四ページも。書いては消した跡が、何行も重なっている。
全部確認された。「返して」と手を伸ばす前に、スバルちゃんの目がページの上を滑り終えていた。
「悩んでんねぇ」
「いいのが出てこなくて……譜割って難しすぎます」
「アヤ、やるって言っちゃったしねぇ」
「それにロックな歌詞ってよくわからなくて……愛してるぜベイベーとかロッケンロールとかでいいんでしょうか……?」
「ダサ。え、ダサ……えっ……」
「うぅ……」
「あは、ごめんて。そんな顔しないで。アヤさ、自分でもわかってんでしょ。だから線引いてんじゃん」
ぱたん、とノートを閉じて、返された。
受け取った表紙が、まだスバルちゃんの体温を持っている。
「イブ先輩が聞きたいの、アヤの言葉でしょ。だからそういうことだって」
どういうことだろう?
私は、こんなに困っているのに。スバルちゃんはまったく、いつもの感じだ。
「アヤ、国語の成績どうなん?」
「……良くも悪くもないです。悪い寄りかもしれません」
「ふーん、とりあえず合わせよ」
「相談に乗ってくれるわけじゃないんですね……」
「アタシ、国語二だぞー。なんも浮かばん」
スバルちゃんはスティックを握って、スネアをタン、タンと小気味良く叩いた。
スピーカーから音が聴こえてきて、ちょっとだけびっくりする。
「アヤ、はやく」
「は、はい」
ギターのセッティングを急いで、アンプに通す。
スタジオで私を飲み込んだ、あの大きなMarshallとは、まるで別の生き物だった。
あっちは空気ごと持っていかれるような、塊でぶつかってくる重さだった。このアンプは、そういう力を持っていない。
こぼれ落ちたのは、角の取れた水滴みたいな音。
指先が拾った細かな震えが、静かに広がっていく。ごまかしが利かない。ありのままの姿。
パネルに並んだツマミのひとつに、コーラスと書いてある。右に回してみた。
もう一度、弦を弾く。
まっすぐだった音の縁が、ふわりと滲んだ。ひとつの音がたくさんの反射を連れて、きらきらと揺れている。
「じゃ、やるか」
どの曲かを問いかける間もなく、カウントが刻まれた。
最初はEで、次がC#、それでG#に繋ぐ。
歌詞を考えすぎても仕方ない。今の私はただ鳴らすだけだ。
Eを弾く。透明な粒が、コンクリートの壁に跳ね返る。スタジオの吸音材に飲まれるのとは違う。硬い面にぶつかって散って、戻ってくる。
スバルちゃんのキックが追いかけてきた。電子ドラムの響きは軽い。スタジオで浴びた、背中ごと押されるような圧はない。タイミングだけが正確に私の足元に落ちてくる。
C#――指が移る。コーラスの揺らぎが、コードの隙間を甘く埋めた。
三人で鳴らしたときとは、景色が変わる。イブキ先輩のベースがあった場所がぽっかり空いていて、その穴を誰も埋めない。ギターとドラムだけで走っている。
不安定だけれど、不安じゃなかった。
足りないぶん、指が触れているものがよく見える。弦の一本一本が返してくる色が、濁らずにそのまま届く。Marshallのときには押し寄せてきたのが、今は一粒ずつ、砂糖を摘むみたいに、確かめられる。
Aメロの終わり。あの空白が来る。
スバルちゃんのスティックが止まった。
スタジオでは、ここで声がこぼれた。みんなの沈黙が、私の喉を開いた。
今は、違う。
声は漏れなかった。
代わりに、静まった空間の底に、灯油ストーブの火が揺れている。オレンジの光がコンクリートをじわりと舐めて、私の手元まで染みてきた。弦を押さえた指に、輪郭が落ちる。
それが目に映っているのか、耳の奥で鳴っているのか、わからなくなった。
群青じゃない。あの日スタジオに広がった、深くて冷たい色じゃない。もっと――そう、体温に近い何かが、薄く視界の端に滲んでいる。
「……アヤ?」
スバルちゃんの声で、指が動いた。止まっていたことに気づいていなかった。
「ごめんなさい、ちょっと……」
「や、なんかすごい顔してたくない? 大丈夫なん?」
「は、はい」
大丈夫じゃないかもしれない。でも、怖いわけではない。
ストーブの火は変わらず揺れている。さっきと同じオレンジ。さっきと同じ部屋。なのに、壁も床も天井も、数秒前とは温度が変わっていた。
何かがわかりかけたのに、霧みたいに消えていく。
私の言葉。
私が見ている言葉。
ふいにスバルちゃんの携帯が鳴り響いた。
ギターのボリュームを下げる。
「おっ」
「どうかしましたか?」
「グループチャット開いてみ」
鞄に押し込んでいたスマホを探った。
三人だけのグループチャットにイブキ先輩からの通知が届いている。
そこには「できたよ」と短い文、そして楽曲データがひとつ。
スバルちゃんがスマホをドラムセットの横に置いて、画面をタップした。
スピーカーは使わなかった。携帯の小さなスピーカーから漏れるだけ。
先輩のピアノが、薄く鳴り始める。
Aメロは知っている。Bメロも、さっき弾いた。そこまでは知っている。
ブレイク。僅かな沈黙。
そして――
知らない音が来た。
サビだ。
ピアノの打ち込みが、ぐっと持ち上がる。メロディが跳ねている。開けた場所に飛び出したような広がりだ。
携帯のスピーカー越しなのに、部屋が広くなった気がした。天井が抜けたみたいに。
色だ。
群青じゃなかった。もっと明るくて、もっと軽くて……けれど、どこかに熱を含んでいる。さっき弦に触れた指に落ちてきた、あの名前のない色に近い。
けど、同じじゃない。
イブキ先輩の音がそこにいて、さっきまで私が弾いていた残像がそこにいて、ふたつが触れ合う場所に、うっすら形が浮かんでいる。
言葉じゃない。もっと前の、まだ何にもなっていないもの。
なのに、ある。確かに、そこにある。
手を伸ばしたい。
伸ばしたら――ううん、声を出したら、届くかもしれない。
ああ、それなのに喉に張りついてどうしようもない!
演奏が止まった。
たぶん三〇秒ぐらいだ。
スバルちゃんが、スティックをくるりと回して、声を発さずにもう一度スマホをタップした。
同じ三〇秒。同じメロディ。なのに、最初より近い。さっきは視界の端にいたはずなのに、今は正面にいる。まだ触れない。でも、顔がわかる。
気づいたときには、ノートを掴んでいた。
斜線のページを飛ばす。手が私の意思を無視してめくる。白紙を開いて、ペンを引き抜いた。
書けない。だけど、さっきまでとは違う。言葉が浮かばないんじゃなくて、濁流みたいに押し寄せてきて、どれを置けばいいかわからない。
ペン先が震えている。紙の上で止まったまま、インクが滲む。
片っ端から、思いつく限りいくしかない。
「アヤ、ガチじゃん。いいね」
スバルちゃんが、スティックで自分の膝をとん、と突いた。
笑ってはいなかった。茶化してもいなかった。ただ真っ直ぐ、私を捉えている。
「……詞にするのって、難しいんですね」
「アタシはなんもわからん。でもアヤが悩んでやるのは、いいことなんじゃね」
旋律を反芻する。
見えてきたものを置いていくたび、視界が少しずつ柔らかくなった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「駅まで送ってく?」
「いえ、ひとりで」
ガレージの外では、雪がまた降り始めていた。
もう日が暮れはじめている。
「歌詞できたらさ、次は最後まで通しで練習だなー」
「通し練習……」
「立って弾いて歌って、歌詞もメロディも作って、アヤ大変だ」
「自分で言ったことなので……歌は変わってほしいですけど」
「あはー! やだよ!」
ふたりには迷惑をかけてしまっている。それぐらいはやらなくちゃ。
ううん、もっと率先してやっていかないと。
スバルちゃんに別れを告げて、雪を踏みしめる。
少しだけ抜けの悪い、そんな足音。
ノートを丸めて握りしめたまま、灰色じゃない帰り道を歩いた。




