第22話
ストラップを肩にかけて、立ち上がった。座って弾くときと、重さの落ちる場所が違う。鏡にちらっと目をやったら、Tennesseanを抱えた自分が映っていた。――このギター、こんなに大きいんだ。
弦に指を置く。
まだ弾いていない。ピックも握っていない。左手が六弦のフレットに触れているだけで、金属の冷たさと細い振動が皮膚に伝わる。
一週間、この瞬間を待っていた。
イブキ先輩の曲を頭の中で再生しながら、ずっと。
不思議と、私の灰色は薄れていた。
アンプの赤いランプが点いていて、後ろにはスバルちゃんのドラムがあって、イブキ先輩の|Rickenbackerがある。
ひとりじゃ辿り着けなかったものが、三人なら鳴るかもしれない。
「アヤちゃん、準備できた?」
「……はい」
声が震えた。緊張じゃない。早く音を出したいだけだ。
運指で温める。スケール練習は毎日やってきた。うん、ちゃんと動く。
「頭はEで、C#かな。それで次は――」
「Eで……C#……」
「スバルちゃん、いいかな?」
「オッケーです」
スティックを叩いてのカウント。
一斉に放たれる。
三つの楽器が重なった瞬間、スタジオの密度が増した。
Marshallが返してくる聴き慣れたはずのクランチが、塊になった重圧の中だと輪郭が変わる。私が出した音なのに、初めて聴くみたいだ。
イブキ先輩のベースが低いところを支えている。私のギターが暴れても、その下は崩れない。スバルちゃんのドラムが背中を押してくる。ときどき強すぎて、つんのめりそうになる。
合っていない。コード進行を追いかけるのでいっぱいいっぱいで、周りを見る余裕がなくなってきた。弦の振動が指先から腕へ伝わって、腕から胸へ抜けていく。通り道に、薄い色が滲んだ。
Aメロの終わり。ベースが抜けて、スネアのタタタタ、という響き。
そして、静寂。
三人とも止まった。壁が残響を飲み込んで、何も鳴っていないのに、耳の奥がまだ揺れている。
ディスプレイに映っていた空白が、今ここにある。データじゃなくて、体温を持った沈黙として。
その時間は、たぶん一秒もない。
口が開いた。頭でどうこうしたわけじゃない。それよりもずっと早い。
喉から溢れたのは、歌と呼べるものじゃない。ただあの沈黙を埋めるように、声がおのずとそこへ落ちていった。
私は、先走ったのかもしれない。
でも――止まるなって言う。
ふと、途切れていたはずの音が、私の背中を押した。
無地のキャンバスを埋めるのは、声とベースとドラムだ。まるで示し合わせたみたいに。
この先にあるものが気になり、進もうとして――
はた、と自分がギターを弾いていないことを意識する。
左手でぎゅっと弦を押さえているだけ。
それを考えた途端に、私はそのまま宙に放り出された。最後の一音が壁にぶつかって、吸音材に飲まれた。
スタジオが、しん、と黙った。
スバルちゃんのスティックが、スネアの上で止まっている。先端が皮に触れたまま、ピタリと。イブキ先輩はネックを握ったまま、弦を離していなかった。
息が荒い。三人の呼吸が、狭いスタジオの天井あたりでぐるぐる回っている。
何が起きたのか、わからなかった。
ただ体の芯に、さっきまでなかった熱が通っている。指先が痺れていて、喉の奥がひりつく。確かに、声が漏れていた。どんな音だったのかは、忘れてしまったけれど。
「今のさ」
「うん」
「確定でいいです?」
「だね。Bメロ入りも繋ぎもあれでいいかな。最後はブレイクにしちゃおう」
「サビ前、ブレイクと。ヤバいなー、ガチで覚えきれん」
「まだサビできてないし、そのあともどうするか決めてないから、まだまだあるよ」
「あー、テクいフレーズがないだけマシかー?」
スバルちゃんが笑って、スティックをくるりと回した。いつもの癖だ。さっきまでスネアで止まっていた手が、もう軽く動いている。切り替えが速い。
「とりあえず今日決まったことまとめません? アタシ、マジ忘れる自信しかない」
「そうだね。えーと……テンポはさっきので確定。イントロはコードストロークだね。Aメロはベースとドラムで支えて、ギターもコード弾き。Bメロは歌で入って、二小節後にベースとドラムね。……で、ブレイク挟んで、そこからサビ」
「あ、あれ、メロディって言えるんでしょうか……」
「でしょ」
スバルちゃんがあっさり言った。
「メロディとか、歌じゃなかったらなんなのって話だし」
反論できなかった。私が、私の声を覚えていないのだから。
「ただ、問題はサビかな。あとの流れもまだ。どうする? 私がこの先も作る?」
「イブ先輩、イメージあるんです?」
「そうだねぇ、イントロとAメロであんな悩んだのがバカバカしいぐらい、構想ができちゃってるかも」
先輩が苦笑して、私を見た。先週と同じ顔。けど声の温度が少し違う。
返事をするか迷いながら、Tennesseanのストラップを外して、ケースへと戻した。ボディに触れると、まだ微かに熱を帯びている。さっきまでの名残がそこに閉じ込められている気がして、蓋を閉めるのを一瞬、躊躇う。
「アヤちゃん」
「はい」
「歌詞、考えてみてくれない?」
先輩の声は軽かった。頼みごとというより、ひらめきを口にしたくらいの感じ。だけどその目は、真剣だった。
「か、歌詞……ですか……?」
「サビのメロディが決まったら、そこに乗せる言葉がいるでしょ。アヤちゃんが歌うなら、アヤちゃんの言葉がいいんじゃないかな」
「…………」
「あー、あんまりまとめて情報詰め込んだら、駄目ですよ。うちのアヤちゃん、理解すんのに時間かかるから」
「ふふっ、でも決めなくちゃね?」
「イブ先輩、意外とS?」
歌詞。
言葉を書く。音に乗せる言葉を。
あの空白に落ちた声には、まだ何も載っていなかった。ただの響きだった。それに意味を与えるということ。
私は色が見える。そして聴ける。けれど、それを言語化する方法を知らない。ずっとそうだった。
「……やってみます」
答えたとき、自分の声が思ったより静かだったことに驚いた。震えていない。さっきまでのひりつきが、しっかりと主張している。
スタジオの扉を開けると、廊下の冷たい空気がぶつかってきた。汗ばんでいた首筋が瞬く間に冷える。
階段を下って、外に出る。地上の光がやけに白くて、目を細めた。
歌詞。
どんなことを書けばいいんだろう。
まだ何もわからない。でも、胸の奥に残る、あのざらざらした感触。あれがヒントになるんだろうか。
「あと歌もだぞー、アヤ」
「……えっ!?」
ひとつ飲み込んで、またひとつ。今度は喉に詰まってしまった。




