第21話
音は止まっているはずだった。
なのに私の中では、まだそれが沈んでいくところ――押し返そうとする底に向かって、ゆっくりと。
両手がカップを握ったまま動かない。さっきまで温かかったはずの陶器が、ただの冷たい器になっている。気づくのに時間がかかった。
イブキ先輩はマウスに触れたまま、止まっている。私やスバルちゃんを見ていない。たぶん、自分が鳴らしたものの後味を、ひとりで確かめている。
静かだ。
この部屋はもともと静かだったけれど、今は密度が違う。暖風が通り過ぎたあとの、温度が残った空白。
私は目を上げられない。この群青が散ってしまう気がして。
呼吸が浅い。指先に脈が伝わっている。心音には、固まりきらない色がうっすら混ざっている。
何か言わなくちゃ。感想とか、ありがとうとか、そういうの。黙っていたら、先輩が不安に思うんじゃないだろうか? ディスプレイを閉じない指先が、微かに震えているのだから。
「――これだけ?」
ふいの声に、肩が跳ねた。
隣では、スバルちゃんが膝に頬杖をついて、イブキ先輩を真っ直ぐ捉えている。
「これギター打ち込み? Aメロまでってことは、サビとかまだ?」
「……うん、途中だから」
「じゃあ続き作んないと。ていうかイブ先輩、これ黙って作ってたんだ?」
「……ごめんね」
「謝んなくていいですけど。でもさ、先輩、結構ガチじゃん。あんな風に言ったのにって。あれ聴いちゃったら、アタシも、はいおしまいってわけにいかなくないですか?」
スバルちゃんの声は軽い。いつもの調子に聞こえる。だけど真剣な顔つきだ。
イブキ先輩が、初めてマウスから手を離した。
「……スバルちゃんは、どうだった?」
「どうって。アタシ、作曲はわかんないし。なんていうか足踏みみたいなリズムだなって。こう、まだ走れてないっていうか……いいか悪いかは、やっぱわかんないですね」
「……そうだね」
「ドラム入ったら変わるんじゃないかなって。アタシのじゃなくても、もうちょいこう、前に行くやつ。や、アタシ、言語化下手か?」
スバルちゃんはそんなことを口にしながら、膝を一度叩いた。トン、と短くひとつ。まるでここにドラムがあるみたいな、迷いのない動きだった。
先輩の強張っていた肩が、ほんの少し下がる。
「……アヤちゃんは?」
名前を呼ばれて、ようやく呼吸を思い出した。
唇が震えて、声がうまく形にならない。
体中を探る。言葉にしなくちゃと、必死に。
あの色を説明したい。先輩が作った曲が、私の中でどう映ったか。でも話せない。
だから迂回して、別のものを探す。まぶたの裏の光景をそのまま渡せたらいいのに。こんなとき、私はいつも遅い。
「わ、私……」
カップを握り直す。もう冷たいのに、離せなかった。
「……早く弾きたいです」
それしか出てこなかった。
言い終えてから、もっとちゃんと伝えるべきだったと後悔する。
イブキ先輩は、私の顔をじっと見て、それからゆっくりと瞬きをした。
「……うん」
「やるしかないなー、ここまでされちゃ。で、このあとどうします? スタジオ入るとか? あー、でも未完成のままじゃ無理かー?」
「そうだね。ここまでじゃまだ」
「てか、もっとテンポ落とすとかどうです? 二曲やりきる余裕なさそうだし、これに全力投球みたいな。もうちょいスローにして、時間稼ぐとか? 一〇分をどう使うかは自由っぽいし、これに絞ればワンチャン?」
「悪いアイデアじゃないかも。これ単純な打ち込みで、なんとなくのイメージをまとめただけだから、本来はもっと広がるんだよね」
イブキ先輩がデスク前の椅子に腰掛けて、ノートパソコンをカチカチといじり始める。
「少し下げて、グリッドにキック挟んでみよっか」
「てかアタシは速すぎたら叩けん。無理ゲーになる。アヤは?」
「えと……」
自分にできることを話さなくちゃいけない。
頭で、さっきの曲を幾度も反芻する。
「私も、ちょっと遅いほうがいいです」
「テンポね?」
「そ、そっちのほうが……きれいかなって……あの……うーん……」
私はやっぱり言葉に詰まって、はたと思い当たり、ピアノで打ち込まれた最初のメロディを口ずさむ。
詰まっていた喉が、歌うほうが楽だと知っている。
「ここの――」
視線を上に向けると、ふたりの目が私をじっと捉えているのに気づいた。
「……ど、どうかしましたか?」
「あっ、ううん、なんでもないの。それでなんだっけ?」
「もうちょっと遅いほうが詰まらなくなるかなって……すみません……」
「……なるほどね」
イブキ先輩の表情がほどけて、マウスを迷いなく数回クリック。画面のどこかの数字が変わったらしい。私にはいまいちわからない。
「このくらいかな」
再生。
同じ音、同じ並びのはずなのに、部屋に広がる空気が別だ。
さっきは追いつけなかった。沈んでいくものの背中を見送って、私は置いていかれた。今は隣にいられる。私の呼吸の傍をゆっくり通りすぎていく。速度が落ちたぶん、ひとつひとつの響きが長く残って、消える前に次が来る。
胸の奥まで息が届いて、肺が広がる。
「いけそうじゃね? リズム拾いやすくなった感じある。単純に他が聴きやすくなったのかも」
スバルちゃんが太ももを指で軽く叩きながら、ゆるく首を揺らしている。先輩がその反応で、肩の力を抜いた。
「じゃ、このテンポで進めよっか。……うーん、Aメロの最後、どう繋ぐべきかなぁ」
キーボードを叩いた先輩は目を細め、波形を眺めている。ああ、こうやって曲を作っていたんだ。
カチカチとクリックが響く。
「とりあえず調整したから、聴いてみて」
再生。
一番深い場所を体が覚えている。持ち上がって、そのまま途切れる。無意識に息を止めていた。胸のあたりがきゅっと縮む。また沈む。
強い衝撃はなく、ただ足の裏をやんわりと撫でられた。落ちきるはずの場所に、地面があった。膝が折れない。重たいまま、立っている。
目を開けた。いつ閉じたのかもわからなかった。
スバルちゃんの膝が跳ねていた。本人も気づいていない顔で、それからはっとして自身の脚を見下ろしている。
「……すごくいいと思います」
「あれこれ加えないで、いったんAメロは切ろっか。今のところ一分ぐらいだね」
「Bメロに繋ぐ? それともサビ? アタシはBメロでぐっとやりたいですけど。そしたら、サビが爆発しそうじゃないですか? バーンって」
イブキ先輩はディスプレイに顔を向けたまま、顎に指先を当てている。何かを確かめているみたいだった。納得しきっていないけど、手応えはある。そういう表情だ。
私はまだ、さっきの場所にいた。押し返されたあの一瞬から戻ってこられない。そこから先を、音が待っている。伸びたがっている。道があるのに、曖昧にぼやけている不安。
持っているのは、体に残ったものだけだ。テンポとかキックとか、ふたりが使うような用語は私にはない。でも圧力が、底からせり上がる。飲み込もうとしても、喉元にいて、引き返せない。
「……ここ、繋ぐなら音は入れなくてもいいかもしれません」
考えるより早く口から漏れて、自分が驚いている。
ふたりが私を見ていた。
「……このまま、もう少し。そこで歌いだしていいと思います」
音楽の言葉じゃないのはわかっている。何小節伸ばすとか、和音をどう展開するとか、まったく伝えられない。ただ、行きたがっているトーンを止めてこそ映る景色もある。
「この先は……今はいらないのかもしれないです。根拠とかないですし……上手く言えないんですけど……」
声が小さくなっていく。語尾がほとんど息だ。
イブキ先輩は、聞き返さなかった。
ふっと微笑んで、それからゆっくり作曲ソフトに向き直り、マウスを右へ引く。
ずっと続いていたドラムとベースの打ち込みが、ばっさり切られた。レールは敷かれていない。まだ誰も踏んでいない場所がある。
「アヤちゃんが言うなら、そうしてみよっか」
「まあ、いいんじゃないですか? そこからはみんなでっていうか」
「スタジオかな、あとは」
また静寂が戻った。スピーカーはもう鳴らない。
耳の奥には残っていた。音の形というよりは、体のどこかに染みた熱のような。冷めきったカップに手を戻したとき、陶器の冷たさのほうがずっと強くて、余計にそれが際立った。さっきまで鳴っていた空気と、今の沈黙は質感が違う。
窓の外が暗くなりはじめている。お昼に見えていた向かいの家の屋根が、影に溶けかけていた。フェンスの上に積もった雪が、街灯の光をわずかに返している。
「来週、入れる?」
イブキ先輩のトーンは軽かった。行動を決定づける重さはない。
「アタシは調整できますよ」
「アヤちゃんは?」
「行きます」
名前を呼ばれた瞬間に吐き出していた。
先輩がパソコンをゆっくり閉じた。画面の光が消えて、窓から漏れる薄い明かりが部屋に残る。並ぶ洋服も小物もラグの感触も、来たときと同じはずだった。それなのに、色合いが変わっている。
ここで鳴ったものが、片隅や天井や、先輩のカーディガンの繊維に染み込んでいるのかもしれない。あるいは私の耳が――ううん、どっちだって構わない。
「じゃあ、そろそろ」
「うん。ありがとうね」
階段を下りた。行きはトントンと軽く鳴っていた木の段が、少し違う返事をする。足の裏がさっきより敏感になっている。
リビングを横切って、玄関で靴を履く。スバルちゃんが先に外へ出た。いつもどおり、迷いのないステップで。
「気をつけて帰ってね」
「はい、ありがとうございます」
玄関フードの扉を押す。
冬の風が顔から熱を剥がした。行きよりずっと冷え込んでいて、鼻の奥がつんと痛い。積もった雪が街灯の光を反射して、白く浮かんでいる。空は暗かった。
坂を下る。スバルちゃんが半歩前を歩いて、私がその足跡を踏む。
どちらも喋らなかった。
雪を踏む。行きがけに聴いた、角砂糖を奥歯で砕くような乾いた音が続く。同じはずなのに、耳への届き方が変わっていた。ひとつ鳴って、消えて、次が来る。さっきイブキ先輩がテンポを落としたあとの間隔に似ていた。
知らず、歩くスピードが遅くなる。この響きを踏み潰したくなかった。ひとつずつ聴いていたかった。
スバルちゃんが振り返らないのが、ありがたかった。この顔を見られたら、茶化される。泣いているわけじゃない。笑っているわけでもない。ただ、胸がいっぱいで、表情の作り方がわからなくなっている。
駅に着いて、改札をくぐる。
「寒いなー、ガチで」
「はい」
「大通まで一緒でしょ。寝ないようにしないとなー。てか、電車暑くね」
「そうですね」
ホームで電車を待つあいだ、ポケットの中で指が動いていた。弦を押さえる形に丸まっている。無意識だった。止めようとしても止まらない。まっさらな地の先に指を置いたらどうなるのか、確かめたくてたまらない。
暖房の効いた車内に入って、座席に座った。目を閉じる。
スバルちゃんの吐息が僅かに聞こえた。
まぶたに、あの空白がまだある。ベースも、ドラムも、ギターも――そして、歌もない。誰かを待っている場所。
来週、私はあそこに音を置く。
何が鳴るかは、まだわからない。
左手はもう、その形を探しはじめている。




