表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Sugarless SugarLady  作者: アベシ
第五章
PR
23/33

第21話

 音は止まっているはずだった。

 なのに私の中では、まだそれが沈んでいくところ――押し返そうとする底に向かって、ゆっくりと。


 両手がカップを握ったまま動かない。さっきまで温かかったはずの陶器が、ただの冷たい器になっている。気づくのに時間がかかった。

 イブキ先輩はマウスに触れたまま、止まっている。私やスバルちゃんを見ていない。たぶん、自分が鳴らしたものの後味を、ひとりで確かめている。


 静かだ。

 この部屋はもともと静かだったけれど、今は密度が違う。暖風が通り過ぎたあとの、温度が残った空白。

 私は目を上げられない。この群青が散ってしまう気がして。

 呼吸が浅い。指先に脈が伝わっている。心音には、固まりきらない色がうっすら混ざっている。


 何か言わなくちゃ。感想とか、ありがとうとか、そういうの。黙っていたら、先輩が不安に思うんじゃないだろうか? ディスプレイを閉じない指先が、微かに震えているのだから。


「――これだけ?」

 ふいの声に、肩が跳ねた。

 隣では、スバルちゃんが膝に頬杖をついて、イブキ先輩を真っ直ぐ捉えている。


「これギター打ち込み? Aメロまでってことは、サビとかまだ?」

「……うん、途中だから」

「じゃあ続き作んないと。ていうかイブ先輩、これ黙って作ってたんだ?」

「……ごめんね」

「謝んなくていいですけど。でもさ、先輩、結構ガチじゃん。あんな風に言ったのにって。あれ聴いちゃったら、アタシも、はいおしまいってわけにいかなくないですか?」


 スバルちゃんの声は軽い。いつもの調子に聞こえる。だけど真剣な顔つきだ。

 イブキ先輩が、初めてマウスから手を離した。


「……スバルちゃんは、どうだった?」

「どうって。アタシ、作曲はわかんないし。なんていうか足踏みみたいなリズムだなって。こう、まだ走れてないっていうか……いいか悪いかは、やっぱわかんないですね」

「……そうだね」

「ドラム入ったら変わるんじゃないかなって。アタシのじゃなくても、もうちょいこう、前に行くやつ。や、アタシ、言語化下手か?」


 スバルちゃんはそんなことを口にしながら、膝を一度叩いた。トン、と短くひとつ。まるでここにドラムがあるみたいな、迷いのない動きだった。

 先輩の強張っていた肩が、ほんの少し下がる。


「……アヤちゃんは?」

 名前を呼ばれて、ようやく呼吸を思い出した。

 唇が震えて、声がうまく形にならない。

 体中を探る。言葉にしなくちゃと、必死に。


 あの色を説明したい。先輩が作った曲が、私の中でどう映ったか。でも話せない。

 だから迂回して、別のものを探す。まぶたの裏の光景をそのまま渡せたらいいのに。こんなとき、私はいつも遅い。


「わ、私……」

 カップを握り直す。もう冷たいのに、離せなかった。

「……早く弾きたいです」


 それしか出てこなかった。

 言い終えてから、もっとちゃんと伝えるべきだったと後悔する。

 イブキ先輩は、私の顔をじっと見て、それからゆっくりと瞬きをした。


「……うん」

「やるしかないなー、ここまでされちゃ。で、このあとどうします? スタジオ入るとか? あー、でも未完成のままじゃ無理かー?」

「そうだね。ここまでじゃまだ」

「てか、もっとテンポ落とすとかどうです? 二曲やりきる余裕なさそうだし、これに全力投球みたいな。もうちょいスローにして、時間稼ぐとか? 一〇分をどう使うかは自由っぽいし、これに絞ればワンチャン?」

「悪いアイデアじゃないかも。これ単純な打ち込みで、なんとなくのイメージをまとめただけだから、本来はもっと広がるんだよね」


 イブキ先輩がデスク前の椅子に腰掛けて、ノートパソコンをカチカチといじり始める。


「少し下げて、グリッドにキック挟んでみよっか」

「てかアタシは速すぎたら叩けん。無理ゲーになる。アヤは?」

「えと……」


 自分にできることを話さなくちゃいけない。

 頭で、さっきの曲を幾度も反芻する。


「私も、ちょっと遅いほうがいいです」

「テンポね?」

「そ、そっちのほうが……きれいかなって……あの……うーん……」


 私はやっぱり言葉に詰まって、はたと思い当たり、ピアノで打ち込まれた最初のメロディを口ずさむ。

 詰まっていた喉が、歌うほうが楽だと知っている。


「ここの――」

 視線を上に向けると、ふたりの目が私をじっと捉えているのに気づいた。

「……ど、どうかしましたか?」

「あっ、ううん、なんでもないの。それでなんだっけ?」

「もうちょっと遅いほうが詰まらなくなるかなって……すみません……」

「……なるほどね」


 イブキ先輩の表情がほどけて、マウスを迷いなく数回クリック。画面のどこかの数字が変わったらしい。私にはいまいちわからない。


「このくらいかな」

 再生。

 同じ音、同じ並びのはずなのに、部屋に広がる空気が別だ。

 さっきは追いつけなかった。沈んでいくものの背中を見送って、私は置いていかれた。今は隣にいられる。私の呼吸の傍をゆっくり通りすぎていく。速度が落ちたぶん、ひとつひとつの響きが長く残って、消える前に次が来る。

 胸の奥まで息が届いて、肺が広がる。


「いけそうじゃね? リズム拾いやすくなった感じある。単純に他が聴きやすくなったのかも」


 スバルちゃんが太ももを指で軽く叩きながら、ゆるく首を揺らしている。先輩がその反応で、肩の力を抜いた。


「じゃ、このテンポで進めよっか。……うーん、Aメロの最後、どう繋ぐべきかなぁ」


 キーボードを叩いた先輩は目を細め、波形を眺めている。ああ、こうやって曲を作っていたんだ。

 カチカチとクリックが響く。


「とりあえず調整したから、聴いてみて」

 再生。

 一番深い場所を体が覚えている。持ち上がって、そのまま途切れる。無意識に息を止めていた。胸のあたりがきゅっと縮む。また沈む。


 強い衝撃はなく、ただ足の裏をやんわりと撫でられた。落ちきるはずの場所に、地面があった。膝が折れない。重たいまま、立っている。

 目を開けた。いつ閉じたのかもわからなかった。

 スバルちゃんの膝が跳ねていた。本人も気づいていない顔で、それからはっとして自身の脚を見下ろしている。


「……すごくいいと思います」

「あれこれ加えないで、いったんAメロは切ろっか。今のところ一分ぐらいだね」

「Bメロに繋ぐ? それともサビ? アタシはBメロでぐっとやりたいですけど。そしたら、サビが爆発しそうじゃないですか? バーンって」


 イブキ先輩はディスプレイに顔を向けたまま、顎に指先を当てている。何かを確かめているみたいだった。納得しきっていないけど、手応えはある。そういう表情だ。

 私はまだ、さっきの場所にいた。押し返されたあの一瞬から戻ってこられない。そこから先を、音が待っている。伸びたがっている。道があるのに、曖昧にぼやけている不安。


 持っているのは、体に残ったものだけだ。テンポとかキックとか、ふたりが使うような用語は私にはない。でも圧力が、底からせり上がる。飲み込もうとしても、喉元にいて、引き返せない。


「……ここ、繋ぐなら音は入れなくてもいいかもしれません」

 考えるより早く口から漏れて、自分が驚いている。

 ふたりが私を見ていた。


「……このまま、もう少し。そこで歌いだしていいと思います」


 音楽の言葉じゃないのはわかっている。何小節伸ばすとか、和音をどう展開するとか、まったく伝えられない。ただ、行きたがっているトーンを止めてこそ映る景色もある。


「この先は……今はいらないのかもしれないです。根拠とかないですし……上手く言えないんですけど……」

 声が小さくなっていく。語尾がほとんど息だ。

 イブキ先輩は、聞き返さなかった。


 ふっと微笑んで、それからゆっくり作曲ソフトに向き直り、マウスを右へ引く。

 ずっと続いていたドラムとベースの打ち込みが、ばっさり切られた。レールは敷かれていない。まだ誰も踏んでいない場所がある。


「アヤちゃんが言うなら、そうしてみよっか」

「まあ、いいんじゃないですか? そこからはみんなでっていうか」

「スタジオかな、あとは」


 また静寂が戻った。スピーカーはもう鳴らない。

 耳の奥には残っていた。音の形というよりは、体のどこかに染みた熱のような。冷めきったカップに手を戻したとき、陶器の冷たさのほうがずっと強くて、余計にそれが際立った。さっきまで鳴っていた空気と、今の沈黙は質感が違う。

 窓の外が暗くなりはじめている。お昼に見えていた向かいの家の屋根が、影に溶けかけていた。フェンスの上に積もった雪が、街灯の光をわずかに返している。


「来週、入れる?」

 イブキ先輩のトーンは軽かった。行動を決定づける重さはない。

「アタシは調整できますよ」

「アヤちゃんは?」

「行きます」


 名前を呼ばれた瞬間に吐き出していた。

 先輩がパソコンをゆっくり閉じた。画面の光が消えて、窓から漏れる薄い明かりが部屋に残る。並ぶ洋服も小物もラグの感触も、来たときと同じはずだった。それなのに、色合いが変わっている。

 ここで鳴ったものが、片隅や天井や、先輩のカーディガンの繊維に染み込んでいるのかもしれない。あるいは私の耳が――ううん、どっちだって構わない。


「じゃあ、そろそろ」

「うん。ありがとうね」


 階段を下りた。行きはトントンと軽く鳴っていた木の段が、少し違う返事をする。足の裏がさっきより敏感になっている。

 リビングを横切って、玄関で靴を履く。スバルちゃんが先に外へ出た。いつもどおり、迷いのないステップで。


「気をつけて帰ってね」

「はい、ありがとうございます」


 玄関フードの扉を押す。

 冬の風が顔から熱を剥がした。行きよりずっと冷え込んでいて、鼻の奥がつんと痛い。積もった雪が街灯の光を反射して、白く浮かんでいる。空は暗かった。


 坂を下る。スバルちゃんが半歩前を歩いて、私がその足跡を踏む。

 どちらも喋らなかった。

 雪を踏む。行きがけに聴いた、角砂糖を奥歯で砕くような乾いた音が続く。同じはずなのに、耳への届き方が変わっていた。ひとつ鳴って、消えて、次が来る。さっきイブキ先輩がテンポを落としたあとの間隔に似ていた。

 知らず、歩くスピードが遅くなる。この響きを踏み潰したくなかった。ひとつずつ聴いていたかった。


 スバルちゃんが振り返らないのが、ありがたかった。この顔を見られたら、茶化される。泣いているわけじゃない。笑っているわけでもない。ただ、胸がいっぱいで、表情の作り方がわからなくなっている。

 駅に着いて、改札をくぐる。


「寒いなー、ガチで」

「はい」

「大通まで一緒でしょ。寝ないようにしないとなー。てか、電車暑くね」

「そうですね」


 ホームで電車を待つあいだ、ポケットの中で指が動いていた。弦を押さえる形に丸まっている。無意識だった。止めようとしても止まらない。まっさらな地の先に指を置いたらどうなるのか、確かめたくてたまらない。

 暖房の効いた車内に入って、座席に座った。目を閉じる。

 スバルちゃんの吐息が僅かに聞こえた。


 まぶたに、あの空白がまだある。ベースも、ドラムも、ギターも――そして、歌もない。誰かを待っている場所。

 来週、私はあそこに音を置く。

 何が鳴るかは、まだわからない。


 左手はもう、その形を探しはじめている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ