第20話
改札を抜けて地上に出ると、南区の冷え込みがまぶたの裏をひりつかせた。スーパーの案内放送に、車のタイヤが雪をこする音。ちぐはぐな響きが混ざり合って、顔のまわりを飛ぶ。
コートのポケットからスマートフォンを取り出し、送られてきた住所をもう一度確認する。
イブキ先輩の家。その言葉だけで、じわっと汗ばむ。
駅を背にして、東側の住宅街へ続くゆるやかな坂をのぼる。大きな通りから離れるにつれて、景色はすうっと透き通っていく。積もったばかりの雪が、街のざわめきを白い毛布みたいにくるんでくれていた。
踏みしめるたび、靴の裏で鳴るのは、角砂糖を奥歯でそっと砕いたような小さく乾いた音。それくらいなら、私の視界を濁らせたりはしない。
三日前に届いたメッセージは一行だった。
「土曜、時間ある?」
理由を聞き返す勇気はなかった。「はい」と打って、そのあと一五分ぐらいスマホを裏返しにしていた。
「このへん、はじめて来たわ」
隣で、スバルちゃんの足音がザクザクと重なった。
「私もです」
駅から七分ほど歩いて、静かな道の角を曲がる。
スマートフォンが示すところには、淡いクリーム色の壁をした二階建ての家が建っていた。
すっぽりとガラスに覆われた玄関フードの扉を引くと、僅かに大人しくなる。透明な仕切りの奥に、控えめな文字の表札がある。
「き、緊張します」
「や、なんで? 友達の家に来ただけじゃん」
「……スバルちゃん、すごいですね」
装飾的なわけじゃないのに、空気がきれいに整っている。イブキ先輩がベースを抱えたときの、あの無駄のない、すんと澄み切った立ち姿が、そのまま建物になったみたいなお家だ。
扉の前で、白く濁った息をゆっくりと吐き出す。手袋を外した指先はすぐに冬の温度に染まっていくけれど、胸のうちには、小さく丸まった熱がちゃんとある。
私は、拭き上げられたインターホンに向かって、そっと腕を伸ばす。
すると、指がボタンに触れるより早く、内側の分厚い扉がカチャリと音を立てた。
ふわりとこぼれる暖房の甘いぬくもりと、私を柔らかく包み込むイブキ先輩の声。
「いらっしゃい。寒かったでしょ?」
「あっ……こんにちは、イブキ先輩」
驚いて手を引っ込めた私とは対照的に、スバルちゃんがいつもどおり声を弾ませた。
「イブ先輩! 外ガチでヤバいです。坂のぼってきたら耳もげるかと思ったー」
「ふふっ、ごめんね。さあ、早く中に入って」
先輩は部屋着らしい生成りのカーディガンを羽織った姿で、凍える私たちを温かな場所へと招き入れてくれた。
靴を脱いで廊下を進むと、すぐに広いリビングへと繋がった。
天井のダウンライトで隅々まで影を消し去るうちのマンションとは違って、ここは光と影がちょうどいいバランスで馴染んでいる。床から壁、天井までが深い木目で覆われていて、ひとつの大きな茶色い箱に見えた。
中央に置かれた低いグレーのソファも、壁にぼんやりとオレンジを落とす間接照明も、自分らしく呼吸するための空間だ。
「おじゃましまーす! てかイブ先輩ん家、オシャレすぎてエグくないっすか?」
スバルちゃんの声も、木の壁が乱反射を吸い取ってくれるのか、角が取れてやんわり耳に届いた。
「そうかな? あ、私の部屋は二階だから、こっちへどうぞ」
「あ、これ……つまらないものなんですけど……」
「そんな気を遣わなくていいのに。ありがとう、アヤちゃん」
リビングを横切った奥にある階段をのぼる。黒い鉄の手すりがすんと冷たい直線を引いていて、木の段に足を乗せるたび、トントンと鳴る響きが心地いい。
二階の廊下の最奥。先輩がドアノブを押し下げて、ゆっくりと扉を開く。
「どうぞ、座って。そこのビーズクッションか、床に――ああ、そっか。これ使って」
「ありがとうございまーす!」
スバルちゃんは跳ねるようにして受け取ったクッションに腰を下ろす。
一階の落ち着いた雰囲気から打って変わって、そこは白や薄いベージュを基調とした明るさに満ちていた。
窓から差す冬の光が、毛足の短いラグに落ちている。たくさんある洋服や可愛い小物たちも、ただ見せるために飾られているのではなく、すべて先輩に馴染んで体温を持っているみたいだ。
ふと、端に置かれたデスクに目を奪われた。
そこにはノートパソコンやスピーカーといった機材が整然と並べられていて、そのすぐ横――
あの深い赤色、Rickenbacker 4003が、ギタースタンドに立てかけられていた。
先輩らしい部屋の中で、無骨な鉄のパーツを光らせるその楽器は、派手なのにちっとも浮いていない。
「あのー、イブキ先輩、ご両親は……」
「ああ、うん。買い物に行ってて、夕方まで帰ってこないの」
「や、にしてもマジいい匂いしますね。女子力高すぎてアタシら溶けそう」
「ふふっ、なにそれ」
手持ち無沙汰になって、はじめにイブキ先輩が指した大きなビーズクッションに座った。すると、マシュマロみたいなもちもちに飲み込まれ、ぐぐっと体が沈んだ。あまりの驚きで、バタバタともがいてしまう。
「どしたん? 溺れた?」
「大丈夫?」
「す、すみません……びっくりしちゃって……」
「ああ、そうだ。飲み物とってくるね」
遠慮しようとする声を出す前に、イブキ先輩がパタパタと駆け足で離れていった。
僅かな沈黙。
「イブ先輩の部屋、マジでイブ先輩オーラ出てるわー」
「……ちょっとわかります。しっかりしてますよね」
「で、どうして呼ばれたん? アヤ、なんかした?」
「え? どうして私なんですか……?」
「や、アタシじゃないだろー。なんかするならアヤ一択だろー」
何故か声を抑えてやり取りしていた。お互いまだ緊張しているのかもしれない。
途端に階段を上がってくる気配を察して、私たちは姿勢を正した。
「ごめんね、紅茶でよかったかな?」
「うわ、やっぱイブ先輩だわ。ね、アヤ?」
「そうかもしれないです……」
「んん? どういう意味?」
先輩がティーカップを小さなテーブルに置いて、ゆったりとベッドに腰掛けた。
カップをぎゅっと両手で包むと、ほのかな温かみが皮膚に伝わる。
「今日、どしたんです? イブ先輩のうちでしか話せないやつとか? あっ! まさか音楽性の違いで脱退!? ついにアタシたちにもきたか……試練が……」
「スバルちゃん、面白いね」
クスクスと笑うイブキ先輩。
先日のあの表情が、何故か脳裏をよぎる。
「けど私たち、音楽性がわかるほど曲持ってないよ」
「ま、確かにそれはガチ」
「それでしたら――」
「あの日――スタジオでの話、覚えてる?」
ドキッとする。
「コピーでいいって、思えない」と私が告げたこと。
余計なことを言ったと反省もしたけれど、取り消せるわけじゃない。イブキ先輩と歩いていたとき、困らせてしまって、それで笑わせてしまって……申し訳なさでいっぱいだった。
「アヤがコピーは嫌だって、スタジオに転がって駄々をこねてたやつです?」
「えぇっ!? 私そんなのやってません!」
「だっけ?」
スバルちゃんには、いったい何が見えていたんだろう。
「で、イブ先輩、あれがどうしたんですか? コピー駄目なら、どうすんのってやつですよね?」
「うん、それ。選択肢はオリジナルしかないでしょ?」
「そう、ですね……自分で言っておいてなんですが、私、作曲はどうすればいいかわからなくて……まだ調べてるところです……」
「アタシ、あんま知らんけどさー、スリーコードで簡単なやつとか無理なん?」
「複雑なのは……ちょっと難しいかもしれません。ストロークするだけなら、コードチェンジもスムーズになってきたのですが……」
スリーコードなら、弾ける。難しくない。
――それで、どうなるんだろう? 歌は? 歌詞は? 最初の音は?
それで全部だろうか? 足りないものがわからない。
無責任な発言のあとで、結局私は答えに辿り着けなかった。
だけどそれでも、あれをなかったことにしようとは、思えない。
「もしも……ううん、遊びだっていいの。もし、本当にオリジナルがほしいなら……」
先輩は立ち上がって、机のほうへ向かった。
そのままノートパソコンを開いて、起動する。
次を尋ねられなかった。
「……作ってみたの」
「え? ガチ? イブ先輩が? 曲?」
「そ」
短く答えて、イブキ先輩が指先でノートパソコンの角をなぞる。
触れているのか確かめているのか、わからない動き。
「私ね、まあ、三人で音を出したけど、飽きたらすぐやめるだろうって、ちょっと思ってたの。だから楽しくても、そこそこでいいかなって。でも……アヤちゃんってば、止まらないじゃない? 走ったら走りっぱなし。ああ、この子はきっと三人じゃなくて、ひとりでいても、ずっとそうなんだなぁ……そう考えたら、私も――」
私は、口を挟まなかった。いや、挟めなかった。
優しい色の、つややかな揺れに触れるべきではないと感じたから。
「もう少し歩幅を合わせなきゃってね。ふふっ、アヤちゃん、何も知らないのに何かしようって、バタバタしてたんだもん。曲作りするんだって。笑っちゃったよ」
「……すみません」
「昔っからですよ、アヤは。何見てんのか謎だけど、ガチで意味わからんことするし。危なっかしいんです」
「うーん、そうだよね」
私は結構問題なく溶け込んでいたつもりだった。そうでもなかったのだろうか。
「それでね、曲を作ってみたの」
先輩がノートパソコンを操作すると、いくつかの波形がディスプレイに映る。
「私、あまり本気で物事に取り組みたくないの。プロのミュージシャンになるって挫折した人を知ってるから、そういうのって少し恥ずかしいじゃない? だから三人でやるのは今回だけ。こういうのは、ほどほどに、ね?」
「それって――」
「これDAWね。イントロとAメロ終わりぐらいまで。最後までは、ちょっと難しかったかな」
イブキ先輩が再生ボタンを押した。
「ごめんね、本当に途中、まだまだなんだけど――」
低い振動が、静かな部屋をわずかに揺らす。
まだ何ものでもない音が、じっと誰かを待っている。
私は息を止めた。
流れてきた色は、まだ固まりきらない群青だった。
指で触れれば、形が変わってしまいそうな。




