第17話
地下へ続く階段を降りる。
前よりも、足が止まらなかった。
はじめてのときも、ちゃんと自分の意志で踏み込んだけれど、今回はもっと……能動的だと思う。たぶん。
スバルちゃんは驚いていた。でも何かを尋ねられることはなく――三人で扉をくぐった。
「三名で」
「はいよ。それにしてもお前、よく来るなぁ? 暇なの?」
「店長うるさーい。うちら女子高生はガチ忙しいのに時間作って来てるの」
「ほれ、四千五百円な」
「ドリンク代は?」
「奢ってやるよ。可愛い女の子たち連れてきてくれたからな」
「うわ、セクハラ。サイテーじゃん。でもゴチでーす」
ちょっと頭を上げた。
カウンターに座る店長と呼ばれた男の人だ。ギターを掻き鳴らし、叫んでいた光景。
「てか店長、このフライヤー、何? イベントやるの?」
「おー、来月末な。かっこいいだろ、TEENS RIOTってイベントだ。未成年バンド限定。持ち時間一〇分。いいパフォーマンスしたら、うちからギャラ込みで今後ライブのオファー出す。肩肘張らずに応募してくれってな」
「FRONTってそんなバンド不足なん?」
「お前みてーな常連きらーい」
「あは、店長キモ。フライヤーもらってきますね」
「おう、遊びに来いよ。当日タダだからよ。まあ、まだバンド集まってねーから、こじんまりしたイベントになるかもしれねーけどな」
軽妙な会話から戻ってきたスバルちゃんから、ドリンクチケットを受け取る。
あの人が、ステージに立っていたとは思えなかった。
「アヤ、こっち」
「あっ、は、はい……」
どことなく後ろ髪を引かれる思いのまま、私はスバルちゃんに続いた。
フロアはやっぱり暗がりだ。まばらに光るお客さんのスマホの画面が、妙に目立つ。
「イブキ先輩は、ライブに来られたことは……」
「数えられるほどだね。ここも名前は知ってたかな」
「ま、デカいハコじゃないんですけど、プロもやることあるんで設備ガチだし、客の数も悪くないんですよ。常連もいるし」
ライブハウスにも、常連という概念があるんだ。いや……スバルちゃんがそうなのかな。
「前、行く?」
「いえ……ここでいいです」
扉の近く。最初に来たときの立ち位置だ。
靴底がぺたりとくっつく。覚えている、この感触。でも、ぞわっとしない。経験のおかげで、こんなに違う。
「うん、見やすいしいいと思うよ」
みんなで壁際に並んだ。スバルちゃんはもう爪先でリズムを刻んでいる。
私はポケットに手を入れた。弦を押さえていた指の跡が、まだ残っている。
照明が落ちた。
バンドが出てくる。ボーカル、ギター、ベース、ドラムだ。
慣れた動きで準備して、スティックでカウントを刻む。
すぐに音が来た。
――強い響きはあるけれど、殴られる衝撃はない。
このあいだは、壁一枚で全部ぶつかってきた。鉛色の塊。意味も形もない暴力。
今日は違う。音がばらけているってわかる。
ギターが上のほうでガシガシ暴れている。ベースはその下を這って、床板を引き剥がす勢いでうねる。ドラムが全部をひっぱたいて、バラバラになりかけた絵を無理やり一枚に押し戻す。
壁じゃなくて、幾層にも重なったフィルム。うん、そんな感じだ。
ギターが走って、ベースが追って、ドラムが転ぶ。あの人たちも、技術はまだまだなんだろう。私と同じだ。ぼんやりながらもわかるから、見える。どこでずれて、何が噛み合って、どう崩れたか。
二曲目へ移って、周りの密度が変わった。
色が、細かくなった。砂嵐が砕けて散って、粒のひとつひとつが名前を主張しはじめる。茶色になったり柿色になったり、モヤがかかって破片が飛ぶ。
ひどく多い。
同時に、そしてめちゃくちゃに向かってくる。ひとつずつ処理できない。瞳が追いつかない。重なって、混ざって、分離して、また一体化する。まぶたの裏側が、絵の具をぶちまけた画用紙みたいになっていく。
あれ。
……ちょっと、しんどい。
三曲目で、足元がぐらついた。
視界の端が滲んで、天井と壁の境が溶けている。
酔ってる。
車酔いに似ている。目まぐるしい情報のせいで、頭がオーバーヒートしていた。
最初に触れたときは、どうして平気だったんだろう。よく理解できない塊を、そのまま浴びるだけだったから? 何もわからなかったから……?
今は、音が見えるようになった。そのせいかもしれない。鍵の壊れた部屋に、次々と誰かが押しかけてくるように。
閉められない。
閉め方を忘れた。
あの灰色のほうが、よっぽど静かで安全だった。
「アヤ?」
……くらくらする。
「大丈夫?」
大丈夫じゃない。壁に背中ごと預けて、全部の体重をそこに渡した。骨まで壁に沈めたかった。イブキ先輩の手が、そっと肩に触れた。何も言わずに、ただ支えてくれる。その手が体温を持っていて、ほかの全部が冷たい。
音が、遠くなったり近くなったり、まるで水の底で聴いていると錯覚する。泡になって、浮き上がっては割れる。
「外で休んできます……」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
バーカウンターの椅子に座る。他には誰もいない。ドリンク交換もできない。
「うぅ……」
足に力が入らない。眼球の奥が焼けている。さっきまでの残像が、まぶたの裏にこびりついて、爪で剥がしても取れない落書きみたいに残っている。
あっ、スバルちゃんが言っていたバーカンって、バーカウンターのことだ――まったく関係ない思考が割り込んでくる。
ここまでの症状は、小さい頃以来かもしれない。
我が物顔でギターなんて弾いていて慣れたつもりになっていた自分が、とてつもなく情けない。
あのときは、殴られた。
今日は、溺れかけた。
どっちがましなんだろう。だけど確実に、これまでとは違うことが起きている。
まだ頭の中がぐわんぐわんだ。荒くて、バラバラ。理解したぶんだけ、影が残る。お土産なんていらなかったのに、勝手に詰め込まれた。
冷たい空気を肺の底まで吸い込んで、ゆっくり吐いた。
「水、飲みなよ」
「あ、ありがとう……ございます……」
無造作に差し出されたペットボトルを受け取って、口をつけた。冷たさが喉を落ちて、胸の底にたまる。少し揺れが収まった。
「……あれ?」
顔を上げる。
知らない人が、バーカウンター奥の棚にもたれて立っていた。
背が高い。私よりずっと。視線の位置がひとつ上にある。
黒い髪が光を吸う。額にかかる前髪が目元の影を深くしているせいか、眼差しが鋭い印象だ。男性か女性か、すぐにわからなかった。骨ばった印象もあるのに、線は細い。曖昧で、なのに整いすぎている。
まだ酔いが抜けないから、輪郭がうまく掴めない。それでも、ひとつ見えたものがある。
この人の周りに、色がない。
灰色や砂嵐ではない。
何もない。ただ透き通ったまま、そこに立っている。
体温を測られたわけじゃないし、値踏みされたわけでもない。ただ確認された、という余韻が残る。嫌じゃないのに、逃げ場を失う。お客さんではなさそうだ。とはいえ、店員さん……ううん、バンドマンでもない……そんなイメージ。
「えと、どちらさ……」
「ただの客。気にしないで」
声が低い。けど冷たくない。温度がないだけ。水を飲んだときと同じ感覚が、耳から入ってきた。
彼女が、私を一瞥する。
「……君、前も来てなかった? ここに」
「え……」
「見覚えがある気がした。違うならいい。で、どうしたの? だいぶぐったりしてるけど。うるさすぎた?」
「私、その……」
どう言葉にしたものかと考える。
「お、音に酔っちゃって……」
嘘で逃げることもできたのに、正直に吐露した。
「今のバンド聴くに堪えないからね。耳障りなのは理解できる」
そう言って、彼女は私から視線を外した。カウンターから離れて、フロアに続く扉のほうへ歩いていく。
「音に酔う、か」
後ろ姿を追いながら、ペットボトルの蓋を握った。プラスチックがみしっと軋む。
あの透明が、指先にまだ残っている。




