第15話
視聴覚室の隅に、見たことのない黒いケースが置かれていた。
それに目を奪われながらも、私は重たいGretschのハードケースを床に置いた。
クラスの友人からも、「アヤ、ギターやってんの!?」とか「ライブすんの!?」とか詰められてしまった。
こんなことなら無理に持ってこなければよかったなんて後悔しかけたけれど、視聴覚室のギターはあんまり馴染まなかったから、仕方ない。
「アヤ、今日もでっかいの背負ってんなー」
「あ、お疲れさまです。遅れてすみません」
「もー、謝んのやめなー。アタシらだってさっき来たばっかなんだから」
「スバルちゃん、私より早かったよね?」
「でしたっけ? ま、アタシ、ホームルーム出ないことあるんで。それかも」
「大丈夫なんですか……?」
朝になって、この部屋が空いているからギター持ってきて! と連絡してきたのはスバルちゃん。
今日も晴れ晴れと、ドラムセットの椅子に腰掛けている。
ちょうどその端――鎮座するあの黒い輪郭が視界に入り込んだ。
「あの――」
「さー、基礎練するかー」
「ちゃんと続けられてるね、ドラム」
「や、それなって感じですよ。といっても一週間もやってないから、偉そうなことは言えんなー」
聞きそびれてしまった。でもいいや。
軽音部の部室らしいし、そんなものが置かれてることもあると納得する。
私はすっかり意識を自分のギターに向けた。
アンプに繋いでみる。
ああ、こんなに違うんだ――それが第一印象だった。
この前のは借りたものだったから、当然そう感じた。でも、Tennesseanですら、アンプひとつで色が別物だ。繋ぐものが変われば、見えるものも変わるんだ。
分厚い膜で覆われたみたい。
ううん、閉じ込められたんじゃない。周囲が、水を含んだようにしっとりと重くなったんだ。
弾けば、その暖かさがシールドを伝って手元まで逆流してくる。透明で、冷たくて、でも芯のほうに熱を隠している。
きれいなだけじゃなくて、どこかザラザラとしている。それでいて、冬の朝の光と同じ透き通った密度。
強く振り抜くと、私のモヤモヤを全部さらっていく。暴力的なのに、どこか救いのある濁流が溢れ出した。
「GAINを持ち上げると、結構暴れるね」
「そうですねー、パリパリしてていい感じ」
「いい感じ、でしょうか……?」
「いいんじゃね? アヤはそう思わん?」
「こんな音が鳴るんだなって」
「アンプによっても変わるから、色々試せるならそれがいいかもね。アヤちゃんが気に入るのがあるかもしれないし」
そう言われると、この音も不思議ともっと聴いていたくなる。
私はふたりに背を向けた。
いつの間にか、これが私の定位置になっている。
ピックを握り直す。
最初は、探りながら軽く。弦が震えて、空気が解き放たれる。その波が背中のスピーカーから返ってくるまでの、ほんの一瞬の間に馴染む。投げたものが返る、その反発は、自分がここにいると教えてくれる。
指が覚えた形を、ひとつずつフレットに刻む。ぎこちなさは、まだまだいっぱい。でも、一ヶ月前とは違う。押弦の迷いも薄れて、ストロークだって苦しくない。追いつかなかった体が、少しだけ噛み合いはじめた。
薬指の腹が弦を捉えて、ぐっと沈む。フレットの冷たさが骨に届く。その圧を逃がさず叩き落とすと、全身がびりびりと揺さぶられた。
まぶたの裏がざわつく。ほどけるとも、塗り替わるでもない。乾いた肌に水滴が広がるみたいに、境界が曖昧になっていく。
繰り返し弾くたびに手触りが変わる。さっきより深く沈んだ。さっきより鋭く跳ねた。同じ動きを心がけているのに、ひとつとして同じじゃない。
呼吸が浅くなっているのを自覚して、止めた。
でもそんなの束の間だ。
静寂が嫌だから、また鳴らした。違う景色を、もう少し見たかった。
すると、少し慣れたハイハットが届く。
ちょっと遅れてスネア、バス。
私と一緒でつたない。
でも私の背中を優しく押す音だ。
だから行こう。促されたんだから。
どんくさい私でも、駆け出さないわけにはいかない。
強く右手を叩きつける。DからG、そしてまたDだ。
まとめて、はじけた。
「ここに留まるのか、進むのか」を問いかけてくる。
ううん――
走らなくちゃ。
私の音は汚れている。
スバルちゃんの響きは整っていない。
でもこの目は、クリアだ。
キライな音はいっぱいある。
日常にあふれるありとあらゆる音が砂嵐で、世界はドロドロだ。
でも、今は違う。
私でも、走っていける。
途端に、低い地響きのような紺色の鎖が、私の視界を冷たく覆う。
ハッとした。
足が止まって、右手が弦を外す。
息が詰まって、さっきまで広がっていたはずの音が、遠くへ飛び立たない。床に落ちて、跳ね返ってきた。
這うような低音。ドラムじゃない。
顔を上げて振り返る。
黒いソフトケースが、骨を抜かれたみたいにへたり込んでいた。
次の音は前よりも低く、足首に巻き付いてきた。こんな冷めているのに、内側に熱がある。ひどい矛盾だ。なのに――不快じゃない。
そうして気づけば、私は顔を上げていた。呼吸も忘れて、視線を向ける。自分の意思じゃない。首が、自然とそこを見ていた。
イブキ先輩だ。
ドラムセットから左に三歩ぐらいの場所。ベースアンプの前。備品じゃない楽器を抱えている。
赤い。深くて粗い赤。
構え方が低くて、しなやかな腕と脚が妙に眩しい。
指が弦に触れている。手首から先の小さな動きだけなのに、部屋の空気が全部そっちに吸い込まれていく。
先輩の目は、弦を見ていなかった。こっちでもない。スバルちゃんでもない。どこか、ここにはない場所。
床ごと沈んでいく感触が、私のギターにピタリと張りつく。
強いピッキングでも離れない。お腹の下をぎゅうっと直接押された。
重たく、鼓動よりも速いそれは、次第にドラムと混ざり合って――違う道を示す。
頭が爆発しそうだ。
行かなくちゃ。考えるより早く。
慌てて私は掻き鳴らす。強く、もっともっと強く叩く。
ドラムとベースが離れてくれない。お尻に火がついてもう大変だ。
だから踏み込んだ。
瞬間――
ドン、と底が抜けた。
三つの音が穴に落ちて、ぐちゃぐちゃに絡まって、そのまま固まった。
きれいじゃない。私の浅葱色が遠い。
足元がベースで、背中がドラムで、私は真ん中で暴れてるだけ。
なのに成り立っている。
どこからが私で、どこからがスバルちゃんで、どこからがイブキ先輩なのか、わけられない。
境界が溶けた。あの灰色じゃない。もっと熱くて、もっと乱暴だ。
止めようと思えなかった。それが一番怖い。
これを知る前には、もう帰れない。




