第14話
チョークが黒板を走る音は、苦手だ。
ペンを走らせる音も、慣れない。
何もかもが大嫌いな砂嵐だ。
けどそんな私に、微かな変化が訪れた。
楽しいのかは――今もなんとも言えない。それでもただギターを続けていた。この目に映る無機質を焦がして、私の乾いた視界を、少し、また少しと焼いてくれるから。
だからたぶん、私はギターを弾いていられる。
アスファルトを這う冷気が靴底を抜け、足首を鋭く刺した。吸い込むたびに鼻の奥がツンとして、肺の中がじわじわと冷たく染まる。吐き出した息が濁っては消えるのを見ていると、体温が外に散って、自分の形がぼやけていくみたいだ。
痩せ細っているつもりはないけれど、強い風が吹けば、そのまま空へ舞い上がってしまいそうなぐらい寒い。ここまで気温が落ちるなら、まっすぐ帰るべきだったかもしれない。
辟易しながら狸小路三丁目を出て、豊水すすきの駅に向かう途中、思わぬ人とばったり出会った。
「アヤちゃん」
「イブキ先輩……?」
制服の上に淡い色のロングコートを羽織った先輩が、私の前に立っている。首元には、毛足の長い白っぽいマフラー。シャギー素材というらしい。以前、お母さんに教わったことがある。澱んだ街に溶けそうなのに、この周りだけ、柔らかくなる感じだ。
「びっくりしました。こんなところで会うなんて」
「こっちこそだよ。今日はどうしたの?」
「SAKURA楽器に寄っていました」
女性の店員さんにはギターをはじめた頃、弦を切っては持ち込み、弦を切っては持ち込み……とお世話になった。張り直し方を丁寧に教えてくれて、本当に頭が上がらない。
実のところ、学校終わりにここに来るのは、もう日常と化している。
いつも大きな音がしないから、落ち着くというのもある。たまに試奏している人もいるけれど、馴染んできたのかもしれない。
「すっかりギターの虜だね、アヤちゃん」
「そ、そうでしょうか……」
「ねえ、アヤちゃん。もし時間があるなら、お茶しない?」
ふいのお誘いに、私は首を縦に振った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
座った席は、深い藍色のベルベット生地が張られたソファだった。指で撫でると、毛並みに沿って濃淡が変わる。テーブルの天板は、冷たいガラスだ。そこに天井の明かりが映って、水面のように揺らいでいる。音楽は流れていない。遠くで豆を挽く響きが、低い振動になって床を伝ってきた。ひとかけらの埃っぽさが、なぜか落ち着く。隠れ家というよりは、屋根裏部屋みたいな場所だ。
運ばれてきたホットココアを両手で握る。
「ふふっ、アヤちゃんって、温かくても冷たくても、カップをぎゅっと包むように持つのが癖なんだね」
「……っ」
私は照れくさくなって、顔を伏せた。
指先を通して感じる熱は、生きてる実感を知れるから好きだ。話したわけでもないのに、数回一緒になったイブキ先輩に、あっさりバレてしまった。
「私、しっかり見てるから」
そんな微笑みを向けられて、何も言えずにいる。
「ね、アヤちゃん」
「は、はい……」
「歌ってたね?」
「えっ……?」
あの日、ふと口をついて出た言葉のことだと認識するのに、時間がかかった。
短い時間の、小さな声。あれを聴かれていたんだと思うと恥ずかしくなる。
「あれは……音をたどっていたら、勝手に声が出ただけで……その、えと……歌っているつもりはなかったんです」
「そうなんだ」
イブキ先輩の返答はシンプルで、そこに混じり気はない。
練習していた曲を、技術がない中で弾こうと試みて、失敗に次ぐ失敗で、知らず声になっていただけ。本当にそれだけだった。だから、あれが歌かと聞かれても、答えようがない。
自己主張でもなければ表現行為でもない。色を辿ったら、自然と漏れただけ。そんな感じ。
「そっか」
もう一度、繰り返す。何かを理解しようとするみたいに。
イブキ先輩がカップに口をつけた。
その数秒の沈黙が、今までと違う。いつもなら柔らかい布を一枚挟んだような心地よさがあるのに、今は布の向こう側の輪郭が、どことなく強張って見える。
声のトーンが変わったわけじゃない。表情だって崩れていない。
なのに、ほんの少しだけ、周囲の温度が下がった。
「前は、音楽聴かないって言ってたよね?」
「はい」
「今はどう? 好きになった?」
「……わかりません」
正直に返した。好きかどうかで測れない。聴くことと、鳴らすことは、私の中ではまったく別のものだから。聴くのは今でも苦しい。長い時間は耐えられない。でも鳴らすと、嫌な滲みがほどける。それは確かだ。
好きっていうのは、もっと明るくて、もっと簡単なもののはず。スバルちゃんが音楽を語るとき、声はいつもひまわりみたいに鮮やかだ。あんなふうに主張できたらいいのに。
私の中にあるのは、そんな感情とは違う。もっと重くて、手放せなくて、何より痛い。自分でも持て余している。
だから、わからないとしか答えられなかった。
「うん……」
頷いて、ガラスの天板に視線を落とした。映り込んだ照明が、先輩の目の中で小さく揺れている。
こんな弱々しく迷うところを、私ははじめて見たかもしれない。
「あの日ね、アヤちゃんが声を出した瞬間、私――」
そこで、唇が止まった。
一拍置いて、指先がカップの縁をなぞる。爪が陶器に当たって、コツ、と小さな音がした。
「……ちょっと、くやしかったの」
「え……?」
聞き間違いかと思った。
くやしい? イブキ先輩が?
「上手いとか下手とかじゃなくて。あの声が出てきたのが、弾きながら自然にこぼれたのが……なんだろう、ずるいなって。私には、あんなふうに――」
そこで、先輩の唇が閉じた。
飲み込んだ。
何を言おうとしたのか、私にはわからない。
先輩はカップを持ち上げて、ゆっくりとココアに口をつけた。その所作は無駄がなく、今の一瞬が嘘みたいだった。
「ごめんね。変な話、しちゃった」
「いえ……」
「もう暗くなるし、帰ろっか」
立ち上がった先輩の声は、いつもの柔らかさに戻っていた。
でも、さっき見えたものが、私の中に残っている。
いつもなら澄んでいるはずの輪郭が、ぼやけていた。




