第13話
教室を出て小走りで廊下を進み、階段を一段飛ばして上がる。校舎別棟は、人の気配が薄い。部活の掛け声も、誰かの笑い声も、どこか遠くに置いてきたみたいだ。
踊り場を回って三階に上がると、空気が少し冷たくなった。この階は使われている教室が少ない。自分の靴が床を叩くたび、その響きが大きく返ってくる。鞄が肩に食い込んで、息が切れているのがわかった。
突き当たりまで進んで、左手に曲がる。短い通路の先に、視聴覚室Bのプレートが見えた。扉の前で立ち止まって、乱れた呼吸を整える。
ことの発端は、五限目が終わったときだ。スマホが震え、「放課後。別棟、視聴覚室B」というメッセージが届いた。送り主はスバルちゃん。悩んだ末、「わかりました」とだけ返した。
ここは授業で来ることがない場所だ。
幾ばくかの緊張のまま、私はドアノブを回した。
「おりゃああぁぁぁ! アタシが札幌のキース・ムーンだぁぁぁぁっ!!」
重い扉を開いた瞬間、叫び声と同時に、何かがまぶたの裏にべちゃっと貼りついた。跳ねもしなければ、広がりもしない。天井から叩きつけられたのではなく、足元の床が、そのまま沈んだみたいだ。突然のドンガラガッシャン。びっくりした。
「ふぅ……よし、基礎練に戻るか――あれ、アヤ」
部屋の端っこからスバルちゃんが顔を覗かせた。
むちゃくちゃにドラムを叩いたんだ……おかしな色を見たときは、つとめて冷静に周囲の把握をする。
「アヤちゃん、お疲れさま」
スバルちゃんの後ろで座っていたイブキ先輩が、立ち上がる。
「お疲れさまです。あの……ここは?」
「あれ? アヤちゃん、知らない? 軽音部の部室。今日休みだから使わせてくれるって話なんだけど……」
聞いていない。
不良の呼び出しみたいな連絡しか来ていない。
「今ここにあるのは、学校の備品なんだよ」
「そう、なんですね」
黒いドラムセットのバスドラムには、YAMAHAのロゴ。シンバルスタンドが何本も立っていて、その奥にスバルちゃん。
両脇を固めるのは、アンプの塊。左手前にはギターアンプが二台、無造作に並べられている。右奥には、背の高いベースアンプ。どれも角が擦れて、長く使われてきた痕跡が残っていた。
ギターが何本か立てかけられていて、こちらも備品ということらしい。
「恥ずかしながら、そんな部活があることも、ここに部室があることも知りませんでした」
「別棟はほとんど使わないし、仕方ないよ。それに軽音部と言っても毎日活動しているわけじゃないみたいだし」
「そ。だからぶっちゃけ、勝手に使っても怒られないわけ」
確かにスバルちゃんは、部屋の主みたいな顔でドラムセットのところに座っているけれど。
「ドラムやりてー、でもスタジオ遠い……あ、ここにあるじゃん! みたいな? 先生落としてきたわ。アタシ凄くない? どーよ?」
「どーよ? と言われても……どうなんでしょう?」
「イブ先輩もいるし?」
「ふふっ、スバルちゃん、リズム感あるよ。ハイハットだけ聴いてみよ? あとはズレてもいいよ」
どうやら、イブキ先輩が、スバルちゃんにドラムを教えていた。
「最初から速く叩くことを意識しない。リズムを作るんじゃなくて、守るようなイメージね」
ハンバーグステーキを食べながら話していた日から、一週間ぐらい。スバルちゃんが本当にドラムを叩きはじめた。
私と違って、音楽好きという下地があるからか、もしくは物覚えのよさか、動作を苦にしていない。
「手足がバラバラに動くっていうのは考えないで。ひと塊を反復反復ね。止まらずにやりきってみて。失敗なんて起こって当然。いい? ハイハットをしっかり聴く。ね?」
「うおおぉぉぉぉ――っ!!」
力強い雄叫びとは対照的に、チッ、チッ、というスローなハイハットが響いた。
私はスバルちゃんに正対する形で椅子に座り、その音を受け止める。ゆったりとした歩みは微笑ましく思えた。私よりやや小柄なせいか、ドラムセットにすっぽり隠れて可愛い。
ぼんやり眺めるのも、そんなに悪い気がしない。
ただ時折、ハイハット、スネア、バスの全部が全力で吐き出され、真っ黒な塊になってぶつかってくる。イブキ先輩の制御がなかったら、タールに覆われてドロドロになっていたかもしれない。
不思議だ。いつも感じる砂嵐よりよっぽどひどいのに、不快感がない。
「アヤちゃん、ギター弾いてていいよ」
「え? でも……」
備品と言っていたギターがすぐ傍にある。
「ストラトタイプのモデルだね。アヤちゃんのギターよりは、テンション――少し張りが強いかも。先生もいいって言ってたし、ちょっと持ってみたら? アンプは――真空管だね。スタジオと同じ要領で使えるよ。Hot Rod Deluxeは、いいコンボアンプだから」
そう言われると断れない。邪魔をしないようにギターを抱えて、椅子に座る。
「……お借りします」
違和感が走った。
薄い? 平べったい?
いつもなら胸とギターの間に空気が挟まるのに、これは肋骨にぴたりと張り付いてくる。板が、直接触れている。その感触が、妙に生々しくて落ち着かなかった。服を一枚剥がされたみたいな、心許なさ。
左手をネックに回す。細い。握り込んだ指が、余る。いつもの太さを探して、無意識に力を入れすぎてしまった。親指の位置も定まらない。どこに置けばいいのか、身体が迷っている。
試しにGを押さえる。弦が硬い。沈まない。いつもの力では足りなくて、指先に痛みが走った。もっと押し込まないと、鳴らない。タコになったはずの皮膚が、まだ薄いと訴えてくる。
右手で掻き鳴らす。
ジャッ、という響きが跳ねた。鋭くて速い。追いつけない。いつもなら鳴らした瞬間にふわっと広がる空気があるのに、これは真っ直ぐ飛んでいくだけだ。
次のコードに移ろうとして――指が、止まった。
あれ?
届いているはずなのに、何かが違う。ほんの数ミリなのに、フレットの間隔が微妙にずれる。スライドさせても、指がついてこない。何度か繰り返しても、覚えたはずの形が馴染まなかった。
これは、私のギターじゃないと言われている。何より、私が見たい色は出ない。まったくの別物だ。
「ちょっとストレス発散したから、いい感じ」
「うん、ちゃんとできてるよ」
声が少し遠く感じる。
ドラムセットに背を向け椅子に座り直して、A5、D5、E5を順にダウンピッキングで鳴らす。この曲をはじめて聴いたときは、ひどくうるさいと思った。視界のノイズが大きくなって、苦しくなったのを覚えている。だけどその強烈さは、私をめちゃくちゃにしてくれるような――そんな気がした。
「スバルちゃん、感覚を掴むために、アヤちゃんに合わせてみたら?」
「や、合わせるとか以前に、アタシそんなレベルじゃないですよ。マジで不器用すぎてヤバいです」
「自分の音だけ聴こえてるのと、他人の音があるのと、その違いがわかれば面白くなるよ」
「違いかー。アヤ、やる?」
「や……やるといっても、何をすれば……?」
「アヤちゃんは、いつものように弾いてくれればいいよ。テンポ遅めの曲が嬉しいかな?」
速い遅いを選べるほどバリエーションがない。
ひとまずFenderと書かれたアンプに繋いで、以前教わったとおりに電源を入れ、しばらく置いてからSTANDBYをセット。そのあとでギターのマスターボリュームを持ち上げた。
「詰まっちゃってもいいのでしょうか。コードチェンジとか……」
「気にしないで。アヤちゃんはアヤちゃんの練習をしてくれればいいんだよ」
「は、はい……」
誰にも聴かせていなかった練習曲がある。指が覚えきらず、輪郭が揺れるままでも、止まらずにいこう。
最初のひとつは、弦を押し上げきれず、途中で折れた。
次は、指が遅れて、音だけが先に落ちた。
目の前が濁った。
チョーキングも戻しも思ったようにならない。
視界に滲むはずのものが、弦の向こうで止まっている。
それでも、次を拾った。
大丈夫。このまま進む。
だからその次は、弦を一本ずつ拾うことだけに意識を集中させる。
そうすると視界が急激に狭まって色を帯びる。この感覚が、私は好きなのかもしれない。
その流れの端に、チッ、という乾いた音。
気づけば、ブレのない間隔で、ハイハットが私の隙間を測るみたいに刻まれている。
じんわり滲んで溶け合う。
私が感じているものとは違う存在が、するりと忍び寄って混ざった。
背中を優しく押される感覚。
辿り着いた場所は音をばらして繋ぐ、歌の入り口だ。
はじめの一文――英語の響きのまま、「夜も更けた頃」と口ずさむ。
「……っ!?」
背後で誰かが息を呑む。
今度はピッキングを間違った。
ううん、踏みとどまらない。行こう。まだ先に。
結びの一文は、「うん、今夜の君は素敵だよ」だ。
私が弾けるのはここまで。
最後にDからGに繋いでおしまい。
ほっと胸を撫で下ろす。
自分の知りたいものが見えたとは言えないけれど、いつしか濁りが消えていた。
チョーキングは持ち上がらなかったし、戻せなかった。アルペジオも意図しないミュートがかかったし、鳴らす箇所を誤った。でもこの目の先が薄らいだ。強い衝撃はない。柔らかだ。それだけでよかった。
「……今日は、ここまでにしよっか」
背中越しの言葉に、私は顔を上げた。
耳に残っていた余韻が消えると、時計の針は大きく進んでいた。
帰らなくちゃいけない。もっと弾いていたいのに。
名残惜しい気持ちのまま、私は片付けをはじめる。
借りたギターをスタンドに戻したとき、イブキ先輩が、じっと私を見ていた。




