1・君がいなくても困らない
ご好評につきまして、連載版を始めました。
6話から短編版の続きで、少し変わってきます。
「エレナ。君がいなくても、僕は別に困らないんだ」
目の前のレイモンドは、私──エレナにそう告げた。
ここは、クラウゼル公爵家の豪奢な応接室。
春の柔らかな日差しが差し込む、美しい場所だ。
だが、最高級の調度品が並ぶ応接室に似つかわしくないほど、嫌悪で顔を歪ませているのはレイモンド──なにを隠そう、私の婚約者である。
「……とおっしゃいますと?」
一瞬、彼がなにを言いたいのか分からず、そう聞き返してしまう。
「言葉の通りだよ」
レイモンドは吐き捨てるようにこう続ける。
「君はここに来ても、なにもしていないじゃないか。なんの役にも立っていない君を妻にする意味はない。だから──君との婚約は、本日をもって破棄させてもらう」
と、レイモンドはさも素晴らしい決断を下したかのように、自信満々に胸を張った。
……なにもしていない? 私が?
しかも婚約破棄?
こいつ、バカなの?
確かに私は表向き、『未来の公爵夫人としての見習い』という名目でここ──クラウゼル公爵家に通っていた。
しかし、その実態は全く違う。
現在、公爵領の財政は火の車に近い状態にあった。それを立て直すため、私は山のような業務をこなしていたのだ。
杜撰極まりない領地の帳簿の整理。レイモンドが思いつきでばら撒いた夜会の招待状の尻拭い。
帳簿を整理していく際に隠されていた横領を見抜いて是正したのは、この私。
夜会では席次から料理の手配、余興の調整も、全て私が裏で手を回した結果だ。
しかし、それらの成果はすべて、公爵家とレイモンド様自身の功績として発表している。
私は公爵家のため──そして未来の夫のためにと思って、あえて裏方に徹してきたからだ。
しかし、この美しい顔立ちだけが取り柄の婚約者は自分が優秀だと、本気で勘違いしてしまっているらしい。
彼にとって、私はただ執務室の隅で控書をまとめているだけの、大人しくて退屈な伯爵令嬢に過ぎないんだろう。
周囲の人間もそうだ。私が目立った活躍をしないことをいいことに、『公爵令息の隣にいるだけの役立たず』と陰口を叩いているのは知っていた。
それでも、レイモンドだけは分かってくれるはず……と信じてやってきたが、どうやらその努力は水の泡になってしまったらしい。
「君のような無能な女は、我が公爵家には相応しくない。よって僕は君との婚約を解消して、もっと華やかで有能な令嬢を新たに迎えることに決めた」
「……そうですか」
自分でも驚くほど、あっさりとした返事になってしまう。
──今まで、私がやってきたことは無駄だったのだ。
血の滲むような努力と、睡眠時間を削ってまで尽くしてきた日々。
それらが、レイモンドの言葉で一瞬にして霧散してしまった。
だが、不思議なことに暗い気持ちにはならない。
むしろ、今まで重くのしかかっていた鎖が解かれ、清々しい気分まである。
「分かりました。婚約解消の件、謹んでお受けいたします。今まで大変、お世話になりました」
頭を深く下げると、レイモンドは虚をつかれたように目を丸くする。
こいつは、私が泣いてすがるとでも思ったのだろうか?
「あ、ああ……君が自分の無能さを自覚してくれてなによりだ。すぐに出て行ってくれ」
戸惑うように言ったレイモンドの言葉を聞いてから、私は席を立ち、応接室を去った。
「ふう……バカな男の話に付き合うのも、疲れるわね」
扉を閉めてから、そう息を吐く。
さて……これからどうしようか。
実家である伯爵家に帰っても、婚約破棄された役立たずとして厄介者扱いされるのは目に見えている。
父親はレイモンドとの繋がりだけを当てにしていたからだ。家に戻っても都合の良い政略結婚の駒として再利用されるだけだろう。
「いっそこの国から出てしまおうかしら」
その時、私の頭の中に浮かんだのは、以前から強い関心を抱いていた隣国、アルヴェリア王国のことだった。
その国では身分にとらわれず、実力と知識を重んじる気風があるらしい。
私が読んでいた他国の経済書や法体系も、アルヴェリア王国のものが一番理にかなっていて面白かった。
さすがに国を跨いでしまえば、私にさほど関心がない父も追いかけてこないだろう。
あそこなら、私も楽しく暮らせるかもしれない。
「よし、隣国へ行こう!」
思い立ったが吉日。
私は早速、軽やかな足取りで歩き出した。
レイモンド──あなたは「君がいなくても困らない」とおっしゃいましたね。
ならば、その言葉通りにしてあげましょう。
私もあなたがいなくても、なにも困らないのだから。
今日この日をもって私──エレナは婚約者の影だった人生を捨てて、自由に生きます!
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