第六話 帝都に着くと、魔物が湧いていた
シエンが走り始めると、周囲の景色が凄まじい勢いで流れていった。
縮 地 法 。身体強化と魔力操作を組み合わせた移動術で、常人とは比較にならない速度で移動することができる。
街道を走り抜け、起伏のある地形を越えながら、帝都へと向かっていた。一日かけて歩いた道のりも、一刻ほどで済んだ。
腕に抱えたキアは、特に変わった様子もなく、平然としている。しかし、しづは違った。
「うぅ……気持ち悪い……」
到着するなり、地面に降りた猫又が身体を丸めた。
そして、吐いた。口から溢れたのは、なぜか虹色の液体だった。陽光を受けて奇妙な光沢を放ち、地面に広がっている。
……なんか、汚い。乗り物酔いみたいなものだろうか。
少女は平気そうだというのに、なんとも脆弱な魔物だった。
「……オマエ、ちょっとは加減ってものを……うぇぇ」
しづが恨めしそうにこちらを見上げていたが、相手にしている暇はなかった。
帝都の方角から、人々の悲鳴が聞こえていた。近づくにつれて、街の惨状が明らかになっていく。
建物のあちこちから火の手が上がり、幾筋もの黒煙が空へ伸びていた。風に運ばれてくる煙には、木材や布が焼ける焦げ臭さが混じっている。
城門を抜け、市街地へ足を踏み入れた。
街路には瓦礫が散乱し、逃げ惑う人々が互いにぶつかりながら走っていた。どこからともなく獣のような鳴き声が響き、その合間に、金属同士が激しくぶつかる音が聞こえる。
近くで戦闘が起きているらしい。シエンは音のする方角へ向かった。
すると、一人の兵士が目に入った。知った顔だった。
すでに負傷しているらしく、装備の一部が血に染まっている。剣を構えてはいたものの、足元は覚束なく、息も荒い。
その兵士が、こちらに気づいた。
「シエンさ——」
その瞬間、物陰から魔物が飛び込んだ。間に合え——。シエンは地面を蹴り、剣を振り抜いた。
鈍い音を立てて、異形の身体が地面に落ちる。兵士もまた、その場に崩れ落ちた。
致命傷は防げたようだが、傷は増えてしまった。
「やっぱ、強いなオマエ!」
しづが声を上げた。会話に付き合っている暇はない。
付近の建物の陰から、さらに何頭かの魔物が姿を現した。
低く唸りながら身体を屈め、こちらを窺っている。シエンは剣を構え直した。
ふと、腕の中で小さな震えを感じた。——キア。
少女は顔を背け、周囲を見ないようにしていた。小さな手が外套の布を握り締めている。
無理もない。目の前には得体の知れない魔物がいて、地面には血を流した兵士が倒れている。
だが、ここで一人にするわけにもいかなかった。シエンはキアを抱え直し、片手に持った剣を構えた。
最初の一頭が跳躍した。牙を剥き出しにして迫る魔物を、身体をわずかに傾けて避ける。その勢いを利用して刃を走らせると、魔物は空中で身体を斬り裂かれ、地面へ転がった。
続けて二頭。一頭目を斬り伏せ、もう一頭の爪を剣で弾く。金属を引っ掻くような耳障りな音が響いたが、構わず踏み込み、返す刃で仕留めた。
魔物たちは、なおも次々と姿を現した。キアを抱えているため、動きに多少の制約はある。
だが、その程度だった。シエンは間合いを見極め、襲いかかってくる魔物を立て続けに斬り伏せていった。
先ほどの兵士の様子を確かめる余裕はなかった。すると、背後から聞き覚えのある声が響いた。
治癒魔術の詠唱だった。声の方へ視線を向けると、先ほど倒れていた兵士が身を起こし、その傍らでは金髪の女性が片膝をついていた。
リリア・ハーティス。彼女が治療を施していたらしい。
周囲には数名の傍付きの兵士がおり、武器を構えながら警戒を続けている。新たな魔物が接近すれば、彼らが迎撃する態勢だった。
治療を終えたリリアが、立ち上がろうとしていた。そして、目が合った。
「……シエンさん?」
驚いたような表情だった。
リリアは、兄アシルの死後、軍に入った。
帝国の軍令では、十八歳になった男性に軍役の義務が課される一方、女性に入隊の強制はない。
婚約者を亡くしてから、しばらくは悲しみに明け暮れる日々が続いたらしい。
だが、ある日、思い立ったように父親へ軍に入る意思を告げたという。なんと前向きで、強い女性なのだろう。
それから五年間。リリアはめきめきと才能を伸ばし、剣術だけでなく、適性を持つ者が少ない治癒魔術まで扱えるようになった。軍においても、その能力は高く評価されている。
退役する少し前、彼女はシエンに本音を明かしてくれたことがあった。戦争をなくすために、総帥になりたいのだという。父親にも、まだ告げていない夢らしい。
軍の頂点に立つことが、どれほど難しいことなのか。それを理解していないはずはなかった。それでも彼女は、真剣な眼差しで語っていた。
そんなリリアと、治療を受けていた兵士の無事を確認し、シエンは安堵の息を漏らした。
「リリア。何が起こっている?」
問いかけると、彼女は表情を引き締めた。
「わかりません。得体の知れない魔物が急に湧き、人を襲い始めたようです」
シエンは、足元に転がる魔物の死骸へ目を向けた。改めて観察すると、見たことのない姿をしている。
魔物というより、異形と呼ぶ方が相応しいかもしれない。
一見すると狼に似ているが、目と呼べるものがない。顔の中央、額にあたる位置には、一つの黒い石が埋め込まれていた。
全身は赤黒く、四肢の先には鋭い赤色の爪が伸びている。頭部には口らしき裂け目があり、その隙間から不揃いな牙が覗いていた。
鳴き声だけは、犬や狼に近い。だが、それ以外はまるで別の生き物だった。
「それに、本部とも連絡が途絶えています。中に入ることもできませんでした」
「……どういうことだ?」
「魔術による結界のようなもので、遮断されているんです」
リリアによれば、軍本部の周囲には正体不明の結界が張られているらしい。
試しに触れてみたところ、指先に焼けるような痛みが走り、皮膚が損傷したという。
幸い、彼女自身の治癒魔術で回復できたようだが、内部の状況はまったく把握できていなかった。
軍本部が機能していないとなれば、事態は想像以上に深刻だった。
シエンが状況を整理していると、背後から小さな足音が聞こえてきた。
とたとたと、忙しなく地面を蹴る音。
「はぁ……はぁ……!」
しづだった。短い脚を懸命に動かしながら、こちらへ走ってくる。
どうやら、戦闘中にシエンの外套から落ちてしまったらしい。……気づかなかった。
しづはようやく追いつくと、大きく息を吐き、顔を上げた。
「間違いないっ、魔王の仕業だ!」
言い終えるなり、前脚を地面につき、口を開けて犬のように息をしている。
シエンが返事をするより先に、リリアが声を上げた。
「まぁ! シエンさんっ、何なんですかっ、この愛くるしい魔物はっ!」
その声は、先ほどまでの緊迫したものとは明らかに違っていた。場違いなほど、弾んでいた。
しづは顔を上げた。
「ふふんっ。この女、わかっているじゃないか! そうそう、こういう反応を待っていたのだ!」
すっかり機嫌を直したらしい。二又の尻尾を揺らし、胸を張っている。
シエンは、キアを腕から静かに地面へ下ろした。
そして、しづの首の後ろを掴み、自分の顔の高さまで持ち上げた。
短い脚が宙に浮いた。二又の尻尾も、ぴたりと動きを止める。
「今、ふざけている場合ではない」
面と向かって告げた。抑揚の少ない声が、いつにも増して冷たく、重く響いた。
しづは、ぎょっとした顔になった。
「わ、わかったから! そんなに怒らなくてもいいじゃんか!」
短い前脚をばたつかせている。
シエンが手を離すと、しづは地面に着地し、軽く毛並みを整えた。
それから、改めてこちらを見上げた。
「時間がなさそうだし、端折って言うぞ」
先ほどとは違い、声が落ち着いていた。
「——シエン。魔王を倒せ」
なんとも分かりやすい。どちらにしても、そのつもりではあった。
帝都を襲う魔物たちも、魔王の影響によるものなのだろう。であれば、元凶を倒すことで、この異変も収まる可能性がある。
もっとも、実際に何が起きているのか、まだ確かめる必要はあった。
すると、少し離れた場所から声が響いた。
「リリア様~!」
振り返ると、複数の兵士がこちらへ向かってきていた。
リリアの傍付きとは別の部隊らしい。武器を携え、周囲を警戒しながら駆け寄ってくる。
これだけ人手が揃えば、少なくともこの一帯の安全は確保できるだろう。
シエンは、傍らに立つ少女へ目を向けた。
「リリア。この少女を頼む」
そう告げると、キアの顔が一瞬固まった。こちらを見上げ、何かを言おうとしている。
「……いかないで……」
小さな声だった。
キアはシエンの外套の袖を掴んでいた。細い指に、力が込められている。
シエンはしばらく少女を見つめたあと、その頭にそっと手を置いた。
「大丈夫だ。すぐ戻る」
キアは何も言わなかった。ただ、袖を掴む手を離そうとはしない。
すると、リリアが傍らへ歩み寄り、柔らかな声で言った。
「大丈夫です。この人、実は、一番強いから」
キアはリリアの顔を見上げた。そして、ゆっくりと頷いた。外套を掴んでいた指が離れる。
リリアがその小さな手を握り、安心させるように微笑んだ。
シエンは二人の様子を確かめると、その場をあとにした。
少し離れたところで足を止め、意識を集中させる。——魔力探知。
広い範囲に存在する魔力を感知し、その位置や規模を探る術だった。
ただし、万能ではない。特に、相手が強敵である場合、こちらが探知を行ったことに気づかれる恐れがある。
自分の存在を知らせてしまう可能性もあるということだ。だが、問題はない。
いずれは対峙する相手なのだから、今さら隠れる必要もないだろう。
意識を広げた。街の各所に、小さな魔力の反応が散らばっている。おそらく、先ほどの異形たちだ。
さらに探知範囲を広げていくと、それらとは比較にならないほど大きな反応があった。
ひときわ強く、異質な魔力。場所の方角を確かめる。慰霊碑のある区域だった。
昨日、兄の名を刻んだ石碑に立ち寄った場所。そこで見つけた、大蛇が這ったような痕跡。
あれも、この魔王と関係しているのだろうか。
あるいは、あの場所に魔王を引き寄せる何かが存在しているのかもしれない。考えても、今は答えが出ない。
シエンは剣の柄に手を添え、慰霊碑の方角へ走り出した。
途中、逃げ遅れた民衆と、魔物を相手に苦戦している兵士たちに遭遇した。
異形の一頭が兵士の剣を弾き、無防備になったところへ牙を向けていた。
シエンはその間へ踏み込み、魔物の頭部を斬り飛ばした。
続けて襲いかかってきた二頭も、剣を振るう間もなく間合いを詰め、一息に斬り伏せる。ほんの数秒の出来事だった。
兵士たちは呆然としていたが、すぐに我に返った。
「あ、ありがとうございます! 助かりま——」
シエンは周囲を一瞥した。逃げ遅れた民衆にも、兵士たちにも、死傷者はいないようだった。
それを確認すると、礼を聞き終える前に、その場を離れた。
目的地は、もう遠くなかった。




