第五話 今度は、本当に目を覚ます
ゆっくりと瞼を開くと、目の前に少女が居た。
こちらを覗き込むように傍らへ座り、じっと顔を見つめている。その少女と目が合った。
瞳は紫色。珍しい色だった。
風に靡いている髪も白銀色で、朝の日差しを受けて淡く輝いていた。これもまた珍しい。
年の頃は十三歳ほどだろうか。整った顔立ちに、どこか見覚えがあった。
そう、誰かによく似ている。……ああ、そうか。幼くして亡くなった妹と、重なった。
髪も瞳の色もまるで違う。それなのに、顔立ちのどこかに、かつての面影が感じられた。
少し喉が渇いていた。掠れた声で尋ねた。
「君は……?」
「…………」
少女は答えなかった。ただ、なぜかニコっと笑った。警戒する様子もなく、こちらの顔を見つめている。
すると、少女よりも少し高いところから声が響いた。
「やっと起きたか~」
聞いたことのある声だった。軽快な、少年のような声。
シエンは肘をついて身を起こし、声のした方へ顔を向けた。すると、居た。
先ほど夢で見た、猫型の魔物だった。ただし、大きさはまるで違う。
夢の中ではこちらを見下ろすほどの巨体だったが、今は普通の猫と大差ない。灰色の毛並みに紫色の瞳、白い靴下を履いたような足先。二又に分かれた尻尾をゆらゆらと揺らしながら、木の枝の上に座っていた。
短い脚で器用に身体を支え、いかにも偉そうな表情でこちらを見下ろしている。
シエンは額を押さえ、目を閉じた。
「ちょっと、待って欲しい……」
困惑していた。まだ夢の中なのだろうか。
寝起きは悪くない方だ。意識もはっきりしているし、寝ぼけているとも思えない。
指の隙間から、もう一度少女を見た。こちらを見ている。
何かを言う様子はなく、ただ静かに座っていた。
「おいおい。受け入れられないっていう反応だなぁ。これだから人間は面倒だぜ」
また、上から声が響いた。すると少女が口を開いた。
「しづ、そういうこと、言っちゃだめだよ」
猫は不満そうに尻尾を揺らしたものの、少女に言い返すことはなかった。
シエンは額から手を離し、周囲を見回した。
昨夜の野営地に間違いない。傍らには燃え尽きた焚火の跡があり、地面には自分が敷いた外套も残されていた。草木の匂いや朝の涼しい空気も、普段と変わらない。
どうやら、今度こそ現実らしい。少しだけ、頭の中が落ち着いてきた。
「……裁定者だったか」
そう尋ねると、猫は嬉しそうに前脚を持ち上げた。
「おっ! 覚えているじゃないか! じゃあ、少しだけ説明を足しておくか!」
どうやら、あの奇妙な夢は夢ではなかったらしい。
猫は木の枝の上で姿勢を正し、得意げに話し始めた。
天叢雲紫月丸。それが、この猫又の正式な名前らしい。長いので、普段は「しづ」と呼ばれているという。
天からの使いなのだと、またしても誇らしげに説明していた。……また、その話か。
「ちなみに、ボクはただの使い魔じゃないからな。そこは間違えるなよ!」
「……分かった」
「本当に分かってるのか?」
答える必要はないだろう。
しづは不服そうだったが、それ以上は追及せず、少女へ視線を移した。
「それで、こっちがキア。オマエがこれから守ることになる子だ」
名前を呼ばれた少女は、小さく頷いた。彼女はこの世界で生まれ育ったが、ある日、目覚めると自分の過去に関する記憶を失っていたらしい。
自分がどこで生まれ、どのように暮らしていたのか。それどころか、自分の名前すら思い出せなかったという。
ただ、身につけていたブレスレットには「キア」と名前が彫られていた。
文字を読むことはできたため、それが自分の名前なのだろうと考えたらしい。
しづが説明している間、キアは静かに耳を傾けていた。自分のことを話されているというのに、特に悲しそうな様子も見せない。
時折、シエンと目が合うと、控えめに微笑んだ。妙に落ち着いた少女だった。
それから、しづは裁定者の役割について説明を始めた。
もっとも、今はすべてを丁寧に説明しきる余裕がないらしい。
この世界には、異なる世界から転生してくる者たちがいる。その数は、全部で十三人。
そして、十三人の中には、世界を破滅へ導く者が一人だけ存在するという。
裁定者の役割は、その破滅者を探し出し、抹消すること。あるいは、キアを守り抜くことだった。
「この子は、世界の破滅を防ぐ秘術を使える可能性があるんだ。ただし、習得には時間がかかってしまう」
キアは現在、十三歳。十六歳になるまでの三年間に、その秘術を習得しなければならないらしい。
「つまり、破滅者を始末するか、キアが秘術を使えるようになるまで守るか。大きく分ければ、その二つだな」
ずいぶん物騒な話だった。それに、疑問も湧いた。
「破滅者を放置すると、どうなる?」
しづは尻尾の動きを止めた。
「破滅者は、運命に引き寄せられるみたいにキアへ近づいてくる。そして、この子の命を奪おうとするんだ」
それまでの軽い口調が、少しだけ落ち着いたものに変わっていた。
「その先に待っているのは、混沌へと繋がる扉の解放だ。それが開かれれば、世界は終わる」
シエンは隣に座る少女へ目を向けた。
キアは二人の会話を聞いていたが、特に口を挟むことはなかった。
世界の破滅。それほど重大な話を聞かされても、実感は湧かない。
そもそも、裁定者に選ばれた理由すら分かっていないのだ。
「その転生者とやらは、もう現れているのか?」
「ボクが把握している限り、今は三人だな。残りの者たちも、時間が経てば現れるはずだ」
「その三人の中に、破滅者がいると?」
「そういうことだ」
現時点で候補は三人。だが、そのうち誰が破滅者なのかは分からないらしい。十三人全員が揃うのを待つ必要はないということだろうか。
そんなことを考えていると、しづが不意に顔を上げた。
先ほどまで揺れていた尻尾が止まり、紫色の瞳が遠くを見据えている。
「……まずいな。あいつの仕業か」
シエンはその視線を追った。遠くの空に、黒い煙が立ち上っていた。
幾筋もの煙が上空へ伸び、風に流されながら広がっている。朝の澄んだ空の中で、その黒さだけが不自然に際立っていた。
帝都の方角だった。昨日まで自分が暮らしていた場所で、何かが起きているらしい。
「あれは?」
「……分からない。だが、嫌な予感がする」
しづは珍しく、言葉を濁した。シエンは目を細め、煙の様子を観察した。
距離があるため、地上で何が起きているのかまでは見えない。ただ、あれほどの煙が立ち上るということは、相応の規模で何かが燃えているのだろう。
昨日、帝都を出る前に聞いた魔物の目撃情報が脳裏をよぎった。巨大な蜥蜴。大蛇。あるいは竜。
証言は一致していなかったが、慰霊碑の周囲には確かに何かが這ったような痕跡が残されていた。
あれと関係があるのだろうか。あるいは、しづが言う破滅者の仕業なのか。今のところ、確証はない。
選択肢は二つ。このまま帝都から遠ざかるか、引き返して異変を確かめるか。
前者を選べば、予定どおり故郷へ向かうことができる。だが、裁定者としての役割を引き受ける以上、いずれは破滅者と向き合うことになるのだろう。
シエンは立ち上がった。
「俺は、どうするべきだ」
呟くように言った。誰かに尋ねたというより、自分自身への問いかけだった。
しづが答えた。
「それは、オマエが決めることだ」
キアも立ち上がった。こちらを見て、小さく頷いた。
何を考えているのかは分からないが、少なくとも、シエンの判断に従うつもりらしい。
改めて、帝都の方角を見た。黒煙は、今も立ち上り続けている。
もし、破滅者が自ら存在を誇示しているというのなら、これは好機かもしれない。
無論、実際に何が起きているのかを確かめる必要はある。
だが、場合によっては、この一回で裁定者とやらの責務を終えられるかもしれない。
そうすれば、予定どおり故郷へ帰ることができる。シエンは荷物を手に取り、腰に剣を差した。
ひとまず帝都へ戻ろう。そう決めて歩き出そうとしたとき、頭上から声がした。
「……なあ、シエン。行く前に、ボクを下ろしてくれないか」
足を止めた。見上げると、しづが木の枝にしがみついていた。
短い脚を精一杯伸ばしていた。二又の尻尾だけが、頼りなく揺れている。
先ほどまでの偉そうな態度は、どこへ行ったのだろう。
シエンはため息をついた。




