第四話 目を覚ますと、珍妙な魔物がいた
目を覚ました。視界に広がっていたのは、見渡す限り真っ白な空間だった。
壁も天井も見当たらず、どこまで続いているのかも分からない。光源らしきものは存在しないというのに、不思議と明るい。足元に視線を落としても、自分の身体が落とすはずの影さえなかった。
どうやら、まだ夢の中らしい。
昨夜は帝都を出て初めての野営だった。焚火の傍らで眠りについたことは覚えているが、そのあとに何かがあった記憶はない。
それにしても、妙に現実味のある夢だった。
足元には確かな感触があり、身体も普段と変わらず動かせる。試しに片足を踏み出してみたが、靴底から伝わる感覚まで、いやにはっきりとしていた。
そんなことを考えていると、背後から何者かの気配を感じた。
夢の中だというのに、その感覚は妙に生々しい。
シエンは振り返った。すると、そこには大きな猫型の魔物が仁王立ちし、こちらを見下ろしていた。
灰色の毛並みに、紫色の瞳。足先は白い毛に覆われ、背後では二又に分かれた尻尾がゆっくりと揺れている。胴体の大きさに比べて脚は妙に短く、ずんぐりとした体格だった。
その顔は、にやにやと笑っているように見えた。どうにも腹立たしい表情である。
見覚えのある種族ではなかったが、似たようなものなら、知っている。
「ケット・シーか」
実際に遭遇したことはないが、人をからかうのが好きな猫型の魔物がいると聞いたことがあった。知能が高く、厄介なことに人語まで喋るらしい。
すると、猫の表情が変わった。
「失礼な! あんな低俗な魔物と一緒にするな!」
どうやら違ったらしい。
猫は短い前脚を胸の前で組み、ふんぞり返るように顎を上げた。
「よく聞くがいい。猫というものは、飼い主から深い愛情を受け、長い年月を生き、幾多の経験を積んで大成すると——、やがて猫又という高位の存在へと昇華するのだ!」
得意げに語りながら、二又の尻尾を大きく広げた。
「つまり、ボクはそこらの魔物とは格が違う! 天から遣わされた、由緒正しき使いなのだよ!」
……だから、何だというのだ。
そもそも、猫がどうすれば大成したことになるのか、よく分からなかった。長生きした猫が偉いという話なら、多少は理解できなくもないが。
その様子を気にすることもなく、猫はさらに胸を張った。
「そして、ボクの名は——|天叢雲紫月丸《~~~~~~~~~~~》!」
ずいぶん長い名前だった。よく聞き取れなかったが、異国の言葉なのだろうか。もう一度聞き返すつもりはない。
猫は満足そうに頷き、こちらを見下ろしていた。どうやら、何かしらの反応を期待しているらしい。
シエンが黙っていると、やがて痺れを切らしたように口を開いた。
「……おい、何か言うことはないのか?」
「特には……」
「なんだ、その反応は!!」
そう言われても、夢の中に現れた猫の名前に、どのような感想を述べればいいのか分からない。
猫は不満げに尻尾を揺らしていたが、やがて思い出したように前脚を打ち合わせた。
「そうだった! こんなことをしている場合ではないのだった!」
どうやら、まだ話があるらしい。
「シエン・オルフェ!」
自分の名前が呼ばれた。
なぜ、この猫が名前を知っているのだろう。
もっとも、ここは夢の中だ。自分の名前を知っている猫が現れたところで、不思議ではないのかもしれない。ずいぶん都合のいい夢だった。
「オマエは、この世界の運命を左右する『裁定者』に選ばれたのだ!」
「……裁定者?」
「そうだ! 聞いて驚け! オマエが担う裁定者とは、これから起こる世界の危機に立ち向かう、極めて重要な役目なのだよ!」
猫は興奮した様子で言葉を続けた。
世界の情勢はすでに緊迫しており、未曾有の危機が迫っているらしい。放置すれば取り返しのつかない事態になるのだと、短い二本の前脚を身振り手振りを交えながら説明していた。ずいぶん大袈裟な話だった。
しかも、どういうわけか、その原因の一端は自分にもあるらしい。
「まったく、こうなったのもオマエのせいなんだからな!」
理不尽な話である。
昨日まで帝国軍に所属し、退役したばかりの人間が、どうして世界の危機に関わっているというのだろう。そのことを尋ねようとしたが、猫は構わず話し続けた。
「本来なら、一日早く裁定者を選出するはずだったんだ! それがこんなに遅れてしまって……!」
一日早く——。そういえば、昨日は一度も眠っていなかった。
送別会で夜明けまで付き合わされ、そのまま銀行へ向かい、慰霊碑に立ち寄ってから帝都を出た。結局、まともに眠ったのは昨夜が初めてだった。
もし、この妙な夢を見ることが選出の条件なのだとしたら、確かに一日遅れたことになる。
だが、それならば——。
「他の人間を選べばよかったんじゃないか?」
ごく自然な疑問だった。
何も、自分である必要はないだろう。世界の危機に対処できる人物なら、帝国にはいくらでもいるはずだ。
すると、猫は目を大きく見開いた。
「そういう問題じゃあない!!」
なぜか怒り始めた。
二又の尻尾を激しく振り回し、短い脚で地面を踏み鳴らしている。身体が大きい割に、その動作はあまり威圧的ではなかった。
「オマエでなければ駄目なんだ! そもそも、裁定者というのは誰でもなれるものじゃあ、ないんだよ!」
「そ、そうか……」
「そうか、じゃない! まったく、もう!!」
なかなか騒がしい猫だった。
その後も何か説明していたが、話があちらこちらへ飛ぶため、要領を得ない。世界の危機だとか、運命だとか、聞き慣れない言葉ばかりを並べていた。
どうにも、現実味がない。
そもそも、こんなよく分からない空間で巨大な猫と会話している。その時点で、真面目に考える方がどうかしていると思った。
やがて、猫はひとしきり喋り終えると、こちらをじっと見つめた。
その表情から、先ほどまでのふざけた様子が消えていた。
「……とにかく、時間がないんだ」
声の調子まで変わっている。
先ほどまでの甲高く賑やかな声とは違い、妙に落ち着いた響きがあった。
「早く目を覚ませ、シエン」
——夢の中で、それを言うのか。そう思った瞬間、周囲の景色が動き始めた。
白い空間が遠ざかっていく。
いや、自分がどこかへ引き戻されているのだろうか。足元の感触が薄れ、身体が宙に浮いているような、不思議な感覚に包まれた。
目の前の猫も、少しずつ小さくなっていく。何かを言っているようだったが、もう声は届かなかった。
やがて、大きな猫と白い空間は、視界の彼方へ消えていった。
目の前が真っ暗になる。これまた、ずいぶんメルヘンチックな夢だった。
しばらくすると、瞼の裏に柔らかな日の光を感じた。小鳥のさえずりが聞こえる。
風に草木がそよぎ、葉の擦れ合う音が、静かな朝の空気に溶け込んでいた。遠くからは、かすかに虫の鳴き声も聞こえてくる。
昨夜、焚火を起こした場所の近くだろうか。身体の下には、草と土の感触があった。
……どうやら、今度は本当に目が覚めるらしい。
シエンはゆっくりと意識を浮上させ、重たい瞼を開こうとしていた。




