第三話 そこにあった異変
シエンは、目の前の慰霊碑を見つめていた。石面には、兄の名前が刻まれている。
『アシル・オルフェ』。その文字を指でなぞった。指先に伝わるのは、石の冷たさだけだった。
兄のようになることはできなかった。だが、その事実をそこまで深刻に捉えてはいない。兄は兄であり、自分は自分なのだから、同じように生きる必要もないのだろう。
それに、いつまでも引きずっていると怒られそうな気がする。母に対してなのか、兄に対してなのかは、よく分からなかった。——おそらく、両方だろう。
いつの間にか、兄の年齢を越していたことに気づいた。職務に追われ、そんなことすら今まで分からないでいた。
幾つもの戦場があった。命を落としかけたこともある。それでも、まだ生きていた。
兵法も勉強したが、実戦に役に立つほどの技量は持てなかった。代わりに剣術を一心に磨いた。魔法も適性があった。これは特に、役に立った。
軍を退役した以上、これからは帝都に来る機会も減るだろう。ここに立ち寄る頻度も、自然と少なくなりそうだった。
他の慰霊碑に特別な用はなかったが、なんとなく、周囲を見て回ることにした。
この区域には、時折、戦死者の遺族と見受けられる人々が訪れている。花を供える者もいれば、石碑の前に長く佇む者もいる。
だが、今はシエン以外に人影がなかった。
敷地内の木々や芝、花壇はよく手入れされており、暖季らしい緑が広がっている。石畳の隙間に雑草が生えることもなく、花壇には季節の花が整然と植えられていた。
街中の喧騒も届かない静かな場所だった。普段なら、木々の間から小鳥のさえずりが聞こえている。この時期なら、羽音を鳴らす虫もいるはずだった。
だが、そのときは違っていた。小鳥の声も、虫の羽音も全くしない。静かというより、無音に近かった。
シエンは足を止めた。何かがおかしい。
周囲を見回すと、ある慰霊碑の脇で、不自然に乱れた芝が目に入った。
どの慰霊碑の周りにも、短く刈り揃えられた芝が植わっている。その一角だけが押し潰されたようになっており、地面には何かを引きずったような跡が残されていた。
さらに近づいて確かめる。大蛇が身体を擦りつけながら這ったような跡だった。
だが、普通の蛇にしては幅が広すぎる。芝の倒れ方も一様ではなく、重いものが通過したように土が押し固められていた。
周囲には人の姿も、魔物の気配もない。シエンはしばらく痕跡を観察したあと、念のため、軍に残る知り合いの同僚へ報告することにした。
話を聞いた同僚は、何かを思い出したような顔をした。
昨日、帝都の外周を大きな魔物が這っていたという目撃証言が、複数寄せられていたらしい。
ただし、その証言には一貫性がなかった。
ある者は大きな蜥蜴だったと言い、別の者は大蛇だったと証言している。中には竜を見たという者までいた。
いずれも確証はなく、目撃者たちが混乱していた可能性もあるという。幸い、今のところ死傷者は確認されていなかった。
帝都の富裕層が飼っていた珍しい魔物が逃げ出したのではないか、という話もあった。そういうことも、時折ある。
大きな魔物を愛玩用として飼育する者は決して多くないが、金と権力を持つ人間の道楽には、理解しがたいものがある。
死傷者がいないのであれば、ひとまず一大事ではない。それに、軍がすでに把握しているのなら、調査も進められるだろう。シエンは同僚に礼を告げ、その場をあとにした。
異変についての話に付き合っているうちに、結局、帝都を出立する時間が遅くなってしまった。すでに住んでいた部屋は解約してある。
慰霊碑で見つけた痕跡は気になったが、それを理由に帝都へ留まるつもりもなかった。なぜなら、すでに軍の者ではないからだ。
昼を少し過ぎた頃、シエンは帝都の門を出た。荷物は必要最低限だった。
銀色の柄に鉄の刃を備えた片手剣と、水の入った瓶、数日分の携帯食。それに、旅に必要な小物をいくつか。
革製の防具を中心とした軽装で、金属の胸当てなど、急所を守る部分にだけ硬い防具を用いている。
長い道のりを歩くには、動きやすさを優先した方がいい。
出立前、気を利かせた同僚が馬車を手配すると申し出てくれたが、シエンは断った。七日も歩けば、村に着く。
「お前は相変わらず、ストイックだな」
同僚は呆れたように笑っていた。
——そんなつもりはなかった。
食物が尽きれば、狩りをすればいい。飲み水も河川などで確保できるし、最悪の場合は水魔法でなんとかできる。
ただし、魔法で生み出した水は、自然の水とは少し性質が異なっているらしい。
見た目は透明な真水だが、人間の身体との相性があまり良くないという。正確には組成が違うらしく、大量に摂取すると腹を下すことがある。以前、それを試した同期が言っていた。もっとも、喉を潤す程度なら充分に使える。
街道を進むにつれ、背後の帝都は少しずつ小さくなっていった。
石造りの建物が遠ざかり、周囲には畑や草原が広がり始める。暖かな日差しを受けた草木が風に揺れ、土と若草の匂いが漂っていた。
久しぶりの長旅だったが、足取りは軽かった。
道中、何度か旅人や行商人とすれ違ったものの、特に変わった出来事はなく、日が傾く頃には野営に適した場所を見つけることができた。
街道から少し外れた場所で枯れ枝を集め、魔法で火を起こす。小さな炎が枝を舐めるように広がり、やがて安定した焚火となった。
携帯食で簡単な夕食を済ませると、シエンは火の近くに腰を下ろした。夜の空気は昼間よりも少し冷えていたが、焚火の熱が心地よかった。
耳に届くのは、薪の爆ぜる音と、遠くから聞こえる虫の声くらいだった。帝都の喧騒から離れた、久しぶりの静けさ。
シエンは炎を眺めながら、明日進む道のりを大まかに思い浮かべた。故郷までは、あと六日ほど。母は元気にしているだろうか。
そんなことを考えながら、やがて眠りについた。




