第二話 追憶する
銀行に金を預けたあと、シエンは帝都の片隅にある慰霊碑へ向かっていた。
帝都の賑やかな街路から少し離れた場所に、戦死者を弔うための広い区域が設けられている。整然と並ぶ慰霊碑には、これまで帝国のために命を落とした軍人たちの名が刻まれていた。その中に、兄の名前もある。
シエンが軍令に従い、十八歳で軍役に就いたのは七年前のことだった。
三つ年上の兄アシルも、同じく十八歳で軍に入っている。シエンは、三年遅れて兄の背中を追いかけるように軍役に服した。
よくできた兄だった。自分とは違い、社交的で愛想がよく、誰とでもすぐに打ち解けられる。
見た目もあまり似ておらず、兄は、髪も瞳も焦げ茶色で、人懐っこい顔をしていると周囲から評されていた。母に似たのだろう。
それに対して、シエンは黒髪に、あまり感情を映さない黒い瞳。早くに亡くなった父にそっくりだと、母だけは喜んでいた。それだけが救いだった。
シエンが二十歳、アシルが二十三歳になった頃、兄は異例の昇進を果たした。軍役五年目での抜擢だったという。
兄は剣術に長けていた。ある戦場で窮地に陥った、上級兵を統括するワーグナー司令官を救出したらしい。
加えて、戦況に応じて兄が進言した作戦が採用され、当初見込まれていた戦死者の数を大幅に減らすことにも成功した。武術だけでなく、戦術にも優れていたのだ。
部下からも慕われ、数か月後には婚約を控えていた。
相手は、上官であるレナド・ハーティスの娘。リリアという名の少女だった。婚約の日に十八歳の誕生日を迎える予定だった。この国では十八歳から結婚が認められている。
兄と雰囲気がよく似ており、おしゃべりが好きな明るい娘だった。二人が並んで話していると、どちらも楽しそうに笑っていて、周囲の人々は口をそろえて「お似合いだ」と言った。
シエンも同じくそう思った。幸せになってほしい。ただ、それだけを願っていた。
——だが、その願いが叶うことはなかった。
当時、中立関係にあった隣国が、突如として帝国に反旗を翻した。
国境付近の村々が襲撃され、帝国軍は直ちに防衛と鎮圧の準備を始めた。
相手は小国で、兵数は二千あまり。おそらく、それが動員できる最大兵力だったのだろう。
対して、帝国の最大兵力は一万を超える。全軍を投入する必要はなく、国境周辺の防衛と、敵国へ向かう鎮圧部隊とに兵を分けることになった。
シエンは直属のリンデマン司令官から指令を受け取った。経験の浅い自分たちは、防衛に回されるらしい。その方針に安堵した。
戦功を挙げたがっていた同期の中には、残念がっている者もいた。血の気が多い連中だと思った。戦場に立つということを本当に理解しているのか、少し疑問を抱いた。
そして、人を殺すということ——。実のところ、シエンはまだ慣れていなかった。
国のためだと言い聞かせた。家族や仲間を守るためなのだと、何度も言い聞かせてきた。だが、それでも敵兵の最期の表情が脳裏に焼き付いて離れないことがあった。
兄は鎮圧側に選ばれた。ほとんど、当然そうなるような気がしていた。優秀な人間が重要な任務に就くことは、軍において不思議なことではない。
別れ際、自分は不安な表情をしていたのだろう。兄はシエンの額を軽く小突くと、いつもの明るい声で言った。
「これが最期みたいな顔すんなって」
そして、笑いながら続けた。
「俺がお前や母さんを残して、死ぬわけないだろ?」
人をよく見ている。兄は昔からそうだった。
だが、その言葉は覚悟でもあり、一番の願いでもあったのだろう。
「そうだよな」
シエンはそう答えることしかできなかった。それ以上、なにも言うことはできなかった。
そして、兄から母に宛てた手紙を預かった。部隊はその日のうちに、シエンたちより一足先に帝都を発つことになっていた。
手紙の外側を確認すると、封筒には村の名前が書かれていなかった。出立の準備に追われ、書き入れる余裕もなかったのだろう。
シエンは余白に村名を加え、郵送屋に預けた。母は、自分が書き加えたと一目で分かるだろう。
字はあまり上手くない。読める字ではあるが、兄のように洗練されてはいなかった。
母曰く、味がある字なのだという。恩師であるハーティス上官にも似たようなことを言われた。
字として読めることが一番大切であり、芸術点などは重視されていない。……そういう気休めを言うのは、やめてほしかった。
それから数か月が過ぎた。周囲の国々に目立った動きはなく、やがて鎮圧完了の一報が帝都に届いた。小国は完全に敗北を認め、帝国の傘下に下った。事実上の占領だった。
帝都の民衆は吉報に沸き、街の至るところで勝利を祝う声が上がった。国境や要所に張られていた防衛網も、順次解除されていった。
そして、シエンは帝都で待った。兄の帰りを。ひと月が過ぎた頃、兄から手紙が届いた。
ワーグナー上官とともに現地に残り、統治のための政策を進めているらしい。戦争によって荒れた土地を立て直すには、まだ時間が必要なのだろう。
それでも、ひと月後には一旦戻れそうだと記されていた。
シエンはその言葉を信じて待った。だが、約束のひと月が過ぎても、兄は帰ってこなかった。
いや、戻っている最中なのかもしれない。現地から帝都までの道のりを考えれば、多少遅れることもあるだろう。
そう考えて、さらに一週間が過ぎた頃だった。伝令の兵士から、一枚の紙を手渡された。
二つ折りの訃報の様式だった。嫌な予感しかなかった。
心当たりは、一人しかいない。震える手で紙を開いた。
やはり、そこには兄の名が記されていた。
『アシル・オルフェ』
その文字を見た瞬間、周囲の空気が硬くなったように感じた。息が上手く吸えない。胸の内側が締めつけられ、足元から感覚が遠のいていく。
気が遠くなるような感覚の中、近くにいた同僚が駆け寄ってきた。何かを言っていた。だが、その言葉もよく聞こえなかった。
その後、何が起きたのか、シエンはよく覚えていない。記憶しているのは、兄が死んだという事実だけだった。
数日後、シエンはレナド・ハーティス上官に呼ばれた。すでにアシルの死を知らされていたレナドは、娘のリリアにその事実を告げるつもりでいた。
シエンには、ただ同行してほしいと言った。その場に居合わせたのは、そういう理由だった。
リリアは、父の口から婚約者の死を知らされた。初めは言葉を理解できていないようだったが、やがて表情が崩れ、その場に膝をついた。
子供が泣きじゃくるかのようだった。父親が肩を抱いても、彼女は何度も首を振り、涙を流し続けていた。
シエンは、その様子を黙って見ていた。自分はまだ、涙を一つも零していない。
薄情なのかもしれない。悲しいという気持ちは確かにあるのだが、それが涙となって表れることはなかった。リリアの姿を見ていると、申し訳ない気持ちになった。何故なのだろうか。
自分が代われたらよかったのかもしれない。生まれた順番が違っただけで、軍に入った時期も、任された役割も違っていた。
もしくは、兄を守ることができれば。
いや、手紙を受け取った時点で、無理やりにでも会いに行けばよかったのかもしれない。考えたところで、結果が変わるわけではない。それでも、シエンは深く後悔した。
後日、兄と同じ部隊に所属していた兵士と面会する機会があった。その兵士は、兄が殺害された場面をすべて見ていたらしい。
戦争が終わったあとも、アシルはワーグナー上官とともに現地に残り、統治に関する仕事を続けていた。その一環として、部下を連れて街を巡回することもあったという。
争い事や異変が起きていないか、住民たちが困っていることはないか。そうした事情を把握するため、兄は自ら声を掛けて回っていたらしい。事件が起きたのも、そんな巡回の最中だった。
一人の妊婦が、兄に近づいた。兄は、足を止め、話を聞こうとしたという。
女が隠し持っていた短剣を抜き、兄の胸を突き刺した。心臓を一突きだった。
周囲の兵士が駆け寄ったときには、すでに手遅れだったらしい。
その妊婦は、戦争中に夫を帝国兵によって殺害されていた。夫を奪った帝国への恨みから、一兵卒とは異なる制服を着ていた兄を重要人物だと判断し、殺害に及んだという。
アシル個人に恨みがあったわけではない。帝国軍の人間であり、相応の地位にあると判断された。それだけだった。
事件は表沙汰にしない方針とのことだった。軍の公式記録では、兄は戦死として扱われ、他の戦死者と同じように慰霊碑へ名を刻まれることになった。
面会に同席した上官の話によれば、シエンが望むなら、その妊婦への処罰を求めることもできるらしい。
少し考えた。人を亡くした悲しみは、時が経てばやがて薄れる。
だが、想いが完全になくなることはない。父のときも、妹のときもそうだった。
かつて母が言っていた言葉を思い出した。
『故人に囚われず、今を生きることが、彼らに対する何よりの弔いになる』
もちろん、完全に忘れることなどできない。
『ときどき、ともに過ごしたことを思い出せば充分なのよ』、母はそうも言っていた。
そして、何より一時の感情で人を傷つけるのは、嫌いだった。
妊婦が夫を失ったことも、兄が殺されたことも、変わらない事実ではあった。ここで報復を望んだところで、兄が帰ってくるわけではない。
「……処罰は、望みません」
シエンは、そう答えた。その選択に、後悔を覚えたことはない。
それは、五年経った今でも。




