第一話 退役し、銀行に寄る
シエン・オルフェが帝国軍を退役したのは、二十五歳の暖季のことだった。
帝国軍には七年を一区切りとする軍役制度があり、彼はその年限を勤め上げたことになる。
軍に残り、司令官や総帥を目指すという道もあったが、興味が持てなかった。
軍内部の政治模様、複雑な人間関係や身分、権力の差による駆け引きも、どうにも苦手だった。
それに、田舎に残してきた母親が気がかりだったこともあり、一旦帰郷することにした。
五十を少し過ぎた母は基本的に元気だが、最近は腰が痛いと手紙でよく零していた。
農作業をはじめとする力仕事も、さすがにしんどくなってきているらしい。
農業を手伝うか、それとも村を守る衛兵になるか。具体的なことは母と一度話をしてから決めるつもりだった。
残留する予定の同期にその話をすると、「もったいない」と言われた。軍人としての出世を望む者からすれば、理解しがたい選択なのだろう。
かつては父と兄、それに妹もいたが、今はすでに亡くなっている。
故郷の村は決して豊かではなく、そこに住む民の栄養状態も良くなかった。もともと身体の弱かった父と妹は相次いで病死し、兄は軍役中に死亡した。
帝都の片隅には戦死者を弔う慰霊碑があり、その一角に兄の名前も刻まれている。『アシル・オルフェ』。
遺骨にはそれぞれの居場所などなく、同時期に亡くなった者たちと共に埋葬された。
地中を深く掘り、煉瓦で囲った大きな空間へ、戦死者の遺骨をまとめて収める。
戦争ともなれば大量の死者が出るため、開戦のたびに職人たちが集められ、埋葬場所の準備が始まる。シエンにとって、それは見慣れた光景だった。今は、その光景も途絶えている。
帝国は近隣の小国を抑えたばかりで、当面の国境情勢は落ち着いていた。向こう三年は安泰だろうというのが、元上官であり恩師でもある人物の見立てだった。
退役しても、三十二歳までなら復役制度を利用して軍に戻ることができる。試験を受ける必要はあるが、「お前なら余裕だろう」と恩師は言った。それならば、しばらく故郷で過ごすのも悪くない。
戦果に対する報酬金と退役金。それなりの額になった金を抱え、シエンは帝都内の銀行へ向かっていた。
暖季の日差しが石畳を照らし、行き交う馬車の車輪が乾いた音を立てている。
通り沿いには商店が軒を連ね、荷を運ぶ人足や買い物帰りの民衆が、思い思いの方向へ歩いていた。
田舎に銀行は無い。まとまった金を持ち歩くのは、さすがに不安だった。
大半を預け、ひと月を暮らすには充分な金額だけを手元に残すつもりでいる。
行商から薬や食物が購入できれば、それでいい。これからは軍用の装備を整える必要もないのだから、それほど金は掛からないだろう。
月が替わるたびに帝都へ立ち寄り、必要な分だけ下ろせばいい。そう考えていた。
銀行の入り口は、表通りに面した民衆用と、裏手に設けられた軍人用とに分かれている。シエンは建物の裏手へと通じる道を歩いていた。
そして今、少しばかり、頭が重い。寝不足だった。
昨日は送別会で夜明けまで付き合わされ、同僚たちとともに朝日を拝んだ。作戦中には連日寝ずの番をすることも珍しくなかったので、それに比べれば随分と状態は良い。ゆえに、平気ではあった。
そんな折、珍妙な人影が二つ目に入った。
銀行へ向かう途中の通りに、旅人用の外套を羽織った二人組がいる。体格からして、両方とも女だろう。
何が珍妙かというと、そのうちの一人が終始挙動不審で、周囲をやたらとキョロキョロ見回している。落ち着きなく頭と視線を動かし、通りを歩く人々や建物を忙しそうに観察していた。外套の首元からは、金色の髪が覗いていた。
……目が合った。
すると、その女はこちらにまっしぐらに歩いてきた。外套の隙間から、鎧が見える。
帝国式の角張った武骨な造りとは違い、曲線を多用した洗練された形状だった。鎧の下から覗く布も、帝国の象徴である赤と黒ではなく、青と金を基調としている。
少なくとも、帝国軍の装備ではない。——帝都に侵入した間者か?
シエンは金の入った硬い小箱を持ったまま、身構えた。
女は三歩ほど手前で立ち止まった。意志の強そうな青い目がこちらを見ていたが、その表情には、どこか余裕のなさが窺える。
そして、女が小声で言った。
「——を、見かけなかったか」
小声すぎて、最初の方がよく聞き取れなかった。どうやら人探しのようだが、聞き取れた言葉には凛とした響きがあった。
「見かけていない」
短く言った。
民間人を守る立場の人間が取るべき行動ではないとは思ったが、面倒事は好きじゃない。自分は善人ではない。それに、すでにその職務からは解放されていた。
「人探しなら表通りに出て、制服を着たやつに頼むと良い」
助言のつもりだった。
すると、その女は一瞬面食らった顔になった。表情に出やすい人なのだろう。何かを言いたげに口を開いたものの、言葉は出てこなかった。
シエンはその様子を見ながら、先ほど垣間見えた鎧を思い返した。
帝国軍のものではない装備。それに、周囲を警戒するというより、何かを探しているような落ち着きのなさ。旅人にしては、少々、妙だった。
「……ところで、身分証は?」
「えっ?」
帝都に居を構える人間なら身分証明書があり、一時的に滞在する者なら入都の許可証を持っているはずだった。
女は明らかに動揺した様子で、外套の内側へ視線を落とす。短い沈黙が流れた。
そこへ、ゆっくりと歩いてきたもう一人の女が口を開いた。
「ここに、あります。この証明の通り、私たちは旅の者です」
その女も金髪だった。
姉妹なのだろうか。穏やかな雰囲気を纏い、碧い目がこちらを見ている。先ほどの女とは対照的に、落ち着いた物腰をしていた。
差し出された二枚の許可証に目を通した。
手には取らない。ぱっと見ではあるが、書式や印章に不審な点はなく、たしかに本物らしい。
少なくとも、この場で問い詰めるほどの理由は見当たらなかった。
「……この先を歩いていけば、表通りに出る。そこで軍服を着た人間を探せ」
それだけ言った。
碧い目の女が、穏やかな声で答えた。
「そうですね。そうします」
そう言うと、二人の女は教えられた方向へ歩いて行った。
そして、落ち着きの足らない青い目の女が、小さく呟いた。
「いつの間に……」
聞こえなかったことにした。
……いや。いわゆる「意思疎通のすれ違い」というやつだろう。
片方が認識できていなかっただけ。よくあるやつだ。
二人の背中を見送ると、シエンは予定通り、銀行に金を預けた。




