第X話 焔に抱かれたい女
帝都で過ごす夕刻。シエンは、宿酒場で食事を摂っていた。
窓の外では、陽が傾き始めている。通りを行き交う人々の姿も少なくなり、店内には穏やかな時間が流れていた。
机の上には、なぜか猫がいた。灰色の毛並みに、白い靴下を履いたような短い脚。
二又に分かれた尻尾を揺らしながら、茹でた鶏肉をぺちゃぺちゃと音を立て、美味しそうに食べている。その猫は、食事に夢中だった。
並んだ料理を挟んだ向こう側には、少女が座っていた。
自分の手よりも大きなパンを両手で持ち、小さな口で頬張っている。噛みしめるたびに頬が僅かに膨らみ、いかにも美味しそうだった。
シエンは時折、キアの様子を確かめながら、自分の食事を進めていた。
この宿酒場は、特別評判の良い店というわけではなかった。
だが、料理の味は申し分なく、個人的には気に入っていた。
どちらかといえば落ち着いた雰囲気の店で、客もそれほど多くない。ゆっくり食事を摂るには最適だった。
店主も寡黙な人物で、必要以上に客へ話しかけてくることはない。こういう店の方が、性に合っていた。
ところが、その静けさは唐突に破られた。
勢いよく扉が開かれ、壁にぶつかって大きな音を立てた。
「会いに来てやったぞ、裁定者ー!!」
女の声だった。店内にいた者たちが、一斉に入口へ顔を向けた。
店主と、一人の店員。それに、ほかの客が六名ほど。いずれも、突然の闖入者に驚いたようだった。
シエンも視線を向けた。そして、思わず手を止めた。
……どうして、あの人外が、この場所に。
入口に立っていたのは、若い女だった。
……いや。女を着た異形、とでも呼ぶべきか。
長い黒髪を揺らしながら、誰かを探すように店内を見回している。落ち着きなく首を動かすその姿は、外見だけなら普通の女性と大差ない。
だが、シエンはその正体を知っていた。こちらに気づくのも、時間の問題だろう。
立て掛けていた剣を手に取り、席を立った。
「……シエン?」
少女が顔を上げた。
「ここで待っていろ」
そう告げると、少女は小さく頷いた。猫は、まだ茹でた鶏肉に夢中だった。
入口では、店員が恐る恐る女へ近づいていた。
「あの……ご注文は?」
「邪魔をするでない! 邪魔立てするなら、貴様も殺すぞっ!」
なにやら物騒なことを言っている。
店員が怯えたように後ずさった。
シエンは剣を携えたまま、女へ声を掛けた。
「おい……やめろ」
その声に反応して、女が振り向いた。赤い瞳が、こちらを捉える。
「裁定者!!」
嬉しそうな声だった。先ほどまで店員を脅していた人物とは思えないほど、表情が明るくなっていた。
どういうつもりなのだろうか。もっとも、ここで問い詰めても、ろくなことにはならないだろう。
店内には、少女を含めて多くの人間がいる。少なくとも、場所を変えた方がいい。
シエンは女を一瞥し、そのまま店を出た。
女は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに後を追ってきた。
◇
宿酒場から少し離れた通りで、シエンは足を止めた。女を着た異形と、距離を取って向かい合う。
すでに陽は沈みかけ、道沿いには街灯が灯り始めていた。通行人の姿はまばらで、ときおり荷物を抱えた者や、仕事帰りらしい人々が通り過ぎていく。
あまり人目につく場所では話したくなかったが、宿酒場から遠く離れるわけにもいかなかった。
破滅者の正体は、まだ明らかになっていない。
少女を一人にしておく時間は、できるだけ短くしたい。それに、目の前の異形が何を企んでいるのかも分からなかった。
女は、こちらをちらちらと見ていた。
漆黒の長い髪が、夕風に揺れている。街灯に照らされた肌は白く、衣服から露出した肩や腕には、滑らかな艶があった。
長めの前髪の隙間から、赤い瞳が覗いている。先ほどまで騒がしくしていたというのに、今は妙に大人しい。
殺気は感じられなかった。だが、それも作戦のうちなのかもしれない。シエンは警戒を解かなかった。
すると、女が不意に宿酒場の方へ目を向けた。
「……先ほど近くにおった娘は、何者じゃ?」
「お前には関係ない」
「ふぅん……。ずいぶんと大事そうにしておったのう」
女の赤い瞳が、再びこちらへ向けられた。口元には薄い笑みが浮かんでいる。
だが、その目は笑っていなかった。
ほんの僅かな間、何かを考え込むように黙っていたが、やがて何事もなかったかのように表情を戻した。
何が気になるのだろうか。シエンには理解できなかった。
「用件を、早く言え」
短く促した。
すると、女は少しだけ視線を逸らした。
「貴様は、その……炎の魔術が扱えるのか」
随分と意外な質問だった。その意図が分からない。
「……それは、もう既に知っているはずだ」
「な、なぬ!」
女は目を見開いた。
「この世界に身を落としたのが、ついこの間だというのに、そんな……。知らぬ間に……」
何やら、ひどく動揺している。話が噛み合っていないようだった。
だが、これで一つの可能性が浮かんだ。転生者側も、時間が巻き戻る前の記憶を保持していないのかもしれない。
少なくとも、目の前の異形は以前の戦いを覚えていないように見える。
そうでなければ、炎の魔術を扱えるかどうかなど、今さら尋ねるはずがない。
シエンは少し考え、別の質問をすることにした。
「お前が認識している、転生者としてのルールを話せ」
「……?」
女は首を傾げた。
「ああ、そうじゃなぁ……」
考え込むように顎へ手を添え、しばらく唸っていた。
「……まずは、裁定者を配下にして……。——この世界を……支配すること、じゃ! 確か! 確かそうじゃった!」
「…………」
案内役の説明と、まったく一致していない。
「それは、お前の願望であり、おそらくルールではない……」
「そうかぁ? 違いがよくわからんが」
女は不思議そうな顔をしている。
いや。初めから少し違和感は覚えていた。会話が成立しているようで、どこか成立していない。
こちらの質問にも、的外れな答えが返ってくる。……おそらく、この異形は、阿呆だ。
「質問には答えたぞ。次は我の番じゃな」
女は何かを期待するように、こちらを見上げた。シエンは黙って続きを待った。
すると、女は僅かに頬を染め、口を開いた。
「——我に、炎の魔術を打ち込んでくれ」
「…………」
今度は、自殺願望か?
人外の考えることは、よく分からない。理解したいとも思わないが。
シエンは周囲へ視線を巡らせた。今も通りには、幾人かの通行人がいる。
相手が人外だと分かっていても、人間の姿をしたものに向かって、街中で攻撃魔術を放つわけにはいかなかった。
どのような騒ぎになるか、容易に想像できる。
「……今は、できない」
「なに!」
女が身を乗り出した。
「今が駄目だというなら、いつならできると言うのだ! 明日か!」
頼むから、もう帰ってほしい——。
こいつが少女の命を脅かす破滅者でないというのなら、時間を掛ける必要もない。
いずれにせよ、まともに相手をしていては話が終わらない。
「氷の竜にでも化けて、道すがらの冒険者に打ち込んでもらうといい」
そう言ってみた。
女は、一瞬だけ動きを止めた。そして、勢いよく首を振った。
「違う!」
赤い瞳が、真っ直ぐこちらへ向けられた。
「……貴様の焔が、欲しいのじゃ」
「…………」
理解できない。炎の魔術を浴びたいというのなら、別に自分である必要はないだろう。
火属性の魔術を使える人間など、探せばいくらでもいる。どうしてそこまで、こちらにこだわるのか。
シエンが黙っていると、女は何かを思いついたように手を打った。
「それならば、これでどうじゃ?」
突然、くるりと踵を返した。向かった先は、先ほどまで食事をしていた宿酒場だった。
女は店の前で足を止めると、胸元へ片手を翳した。
「待て。何をするつもり——」
言い終えるより早く、周囲の空気が変わった。
女の手元から、氷の魔素が弾けた。青白い光が瞬き、肌を刺すような冷気が広がっていく。
次の瞬間には、女の身体が氷に包まれ始めていた。
足元の石畳に霜が走り、白い結晶が次々と生まれる。氷は急速に厚みを増し、女の身体を覆いながら、宿酒場の入口へ向かって広がっていった。
このまま放置すれば、建物まで巻き込まれる。中にはキアもいる。
シエンは剣から手を離し、片腕を前へ伸ばした。
生半可な魔術では、あの氷を打ち消せない。かといって、《終焉炎核》のような大技を使えば、店の中にまで被害が及んでしまう。
必要なのは、氷を消し去るだけの熱量と、周囲へ影響を及ぼさない精密な制御だった。
シエンは魔力を集中させ、短縮した詠唱を口にした。
「相克の理に従い、凍てつく力を虚無へと還せ——《 氷 蝕 焔 》」
青白い焔が放たれた。
焔は地面を這うように進み、広がり始めた氷へ触れた。その瞬間、氷が消えた。砕ける音も、溶け落ちる水滴もない。
青白い焔に触れた部分から、まるで最初から存在しなかったかのように、氷が消失していく。
焔はそのまま女の身体へ伸び、全身を覆っていた氷を次々と打ち消した。
ほどなくして、石畳を覆っていた霜も、宿酒場へ迫っていた氷も、すべて消え去った。
標的を失った焔は、静かに揺らめいたあと、空気の中へ溶けるように消えた。
建物に被害はない。通行人たちも、驚いて立ち止まってはいたものの、負傷した様子はなかった。
何とか、間に合ったらしい。
シエンが息を吐くと、女がこちらを振り返った。その表情は、驚くほど恍惚としていた。
「……足りぬ」
何を言い出すのだろうか。
「もっとじゃ! 手を抜くでない! もっと激しく——」
女が両腕を広げ、こちらへ駆け寄ってきた。どうやら、しがみつくつもりらしい。
「それ以上、近寄るな」
シエンは片手を伸ばした。身長差を利用して、女の頭を掴む。
そのまま腕を伸ばして距離を保つと、女の手は空を掻いた。
「いたたたた! こんなに欲しているというのに、厳しい奴じゃな! 貴様は!」
女は不満そうに声を上げながら、なおもこちらへ手を伸ばそうとした。
随分としつこい。シエンは頭を掴んだまま、ため息をついた。
多少、疲れていた。先ほどの《氷蝕焔》は、魔力効率の悪い高度な術式だった。
しかも、詠唱を省略して強引に発動したため、通常よりも多くの魔力を消費している。
息を整えようとすると、女の動きが止まり、声を漏らした。
「……む?」
赤い瞳が、こちらの顔をじっと見つめていた。女は何かに気づいたように、瞬きをした。
それから、掴まれていた頭を引き、ようやく距離を取った。
「……ふむ」
先ほどまでの勢いは、どこへ行ったのだろう。少しだけ考え込んだあと、女は突然、胸を張った。
「そういうことなら、今日のところは諦めてやろうではないか!」
……どういうことなのか。
だが、帰ってくれるというのなら、それで構わない。
シエンが何も言わずにいると、女は得意げに続けた。
「明日じゃ! 明日もまた来るからな!」
……いや、もう来なくていい。
厄介なことに、この異形も魔力探知ができるらしい。仮に姿を隠しても、魔力を辿って探し出される可能性がある。
それに、こちらの都合など考慮するつもりは、最初からなさそうだった。
さて、どう対処すべきか——。
女は満足そうに頷くと、踵を返した。そして、数歩進んだところで不意に立ち止まった。
「ああ!」
何かを思い出したらしい。振り返り、赤い瞳を輝かせた。
「我の名はティアじゃ! 魔王のティア! よろしく頼むぞ!」




