第五話 朝食はお持ち帰りで
第五話 朝食はお持ち帰りで
地図を広げると、ヴァルドが指を置いた。
「この丸は何だ」
「粉屋です」
「こちらは」
「石鹸を高く売る店です」
魔王の指が止まった。
「道以外の情報が多いな」
「買い出し用ですので」
レオンは笑わなかった。
街道から分かれ、宿の裏を通って森へ入る線を見ていた。
「この道は、どこへ出る」
「炭焼き小屋を通って、川へ出ます。歩いて半刻ほどです。その先に、人が一人ずつ渡れる橋があります」
「馬は?」
「無理です。途中に階段もあります」
薪が届かなかった日に、俺は一度、その道を歩いた。
空の背負い籠を持って行き、帰りには半分だけ薪を入れてもらった。それでも二度休んだので、距離より坂のことをよく覚えている。
ヴァルドが地図を回した。
「橋を渡れば、西へ抜けられるのか」
「そこまでは行っていません。炭焼きの方は、街へ出る道につながると」
「西か」
レオンがつぶやいた。
俺は彼を見た。
「行きたい場所はありますか」
返事は、少し考えてからだった。
「西の街に、知っている医者がいる。前は、俺たちの部隊にいた」
「診てもらえそうですか」
「ああ。あの人なら、駄目なときは駄目だと言う」
レオンは包帯の巻かれた手首を見た。
「そのせいで、軍を辞めた人だ」
俺は地図の端に、西の街、と書いた。
ようやく行き先ができた。
「ここを出て、その人のところへ行くんですね」
「ああ」
「では、迎えの方にも、そう伝えましょう」
レオンが顔を上げた。
「道を教えるのか」
「道順ではなく、行き先と、ご自分で決めたということを。いなくなっただけだと、あの方たちは、ずっと捜すでしょうから」
「伝えたところで、追ってくる」
「来るかもしれません」
俺は答えた。
あの三人を、言葉だけで帰せるとは思っていなかった。
「でも、今夜は戻らないとしか伝えていません。明日、どうしたいのかは、まだ聞いてもらっていません」
ペンと紙を出した。
レオンはしばらく、紙を見ていた。
やがてペンを取った。
*
手紙は短かった。
負傷の診察を受けるため、西の街へ向かうこと。
次の出発には加われないこと。
誰かに連れ去られたのではなく、自分の意思で宿を出ること。
医者の名を書いたあと、レオンの手が止まった。
「隊にも、伝わるだろうか」
「もう一通、書きますか」
俺が紙を出すと、彼は受け取った。
今度の手紙は、最初より時間がかかった。
途中で一度、顔を上げた。
「俺がいなければ、別の誰かが前に出る」
何と答えればいいのか分からなかった。
俺は戦場を知らない。
休めばいいと簡単に言えるのは、代わりに出る人の顔を知らないからかもしれなかった。
ヴァルドが地図から目を上げた。
「今のお前は、どのくらい剣を持てる」
レオンは答えなかった。
「帳場で俺を斬ろうとしたあと、その手を隠していたな」
「見ていたのか」
「目の前にいた」
レオンは左手を開いた。
閉じる。
親指だけが、少し遅れた。
「……長くは持たない」
「それも書け。来ると思って待たせるよりはいい」
レオンは魔王を見た。
何か言い返しかけて、やめた。
紙へ向き直る。
俺はランプの芯を少し上げた。
二通を書き終え、名前を記した頃には、外の雨がやんでいた。
「これを預かります」
紙を乾かしながら、俺は言った。
「出発までは、寝てください」
レオンが玄関を見た。
「見張りなら、俺も――」
「階段の灯りはつけておきます。何かあれば呼びます」
「お前は」
「朝食の支度があります」
普段より、だいぶ早い支度になる。
それでも、やることが決まっているのはありがたかった。
ヴァルドが地図を持って立った。
「俺もこの道を使う」
レオンが眉を寄せる。
「ついてくる気か」
「街道に出れば、俺も見つかる」
角に触れて、魔王は言った。
「説明するのが面倒だ」
あの三人が勇者を迎えに来て、魔王を見つける。
面倒という言葉で足りるのかは、分からなかった。
「俺を追ってくるかもしれないぞ」
「そのときは、そのときだ。少なくとも、お前は今、走れん」
レオンの顔が険しくなった。
俺は二人の間から地図を取り、折り目をつけた。
「渡る橋は細いそうです。一人ずつでお願いします」
*
夜明け前に、パンが届いた。
裏口を叩いたのは、いつものパン屋の娘だった。
籠を受け取ると、まだ布越しに温かかった。
「表に馬がいるよ」
「ええ」
「粉屋のおばさん、怒ってた。戸を開けるところに繋ぐなって」
俺は思わず、表のほうを見た。
こちらは一晩、鍵を握ったり地図を広げたりしていた。
粉屋はもう、いつもの朝を始めていた。
「お客さん?」
「お迎えだそうです」
「朝から大変だね」
娘は空の籠を受け取り、次の家へ向かった。
俺は戸口から外を確かめた。
裏庭には誰も見えなかった。井戸と薪置き場の向こうで、森へ続く道が白く明るみ始めている。
見えないところまでは、分からない。
部屋へ二人を起こしに行くと、レオンは眠っていた。
窓側の寝台で、横向きになっていた。剣は手の届くところにあったが、握ってはいなかった。
ヴァルドは先に起きて、靴を履いていた。
俺が声をかけようとすると、彼は片手を上げた。
「湯を使う。そちらが済んでからでいい」
俺はうなずき、扉をそっと閉めた。
台所へ戻ってパンを割る。
薄く削った硬いチーズと、温めた燻製肉を挟んだ。煮込みと違って、歩きながらでも食べられる。
芋も添えたかったが、包みが崩れそうだったのでやめた。
食事を用意して戻る頃には、レオンは起きていた。
寝台の端に座り、片手で髪を押さえている。
「……寝ていた」
「はい」
「誰か来たか」
「パン屋さんが」
レオンはしばらく俺を見て、それから長く息を吐いた。
眠る前より、声が低くなっていた。
*
二人の荷物は少なかった。
ヴァルドは革鞄一つ。
レオンは外套と剣、それから宿へ来たときから胸元に入れていたものだけだった。
俺は台所の卓上に、朝食の包みを二つ置いた。
「紐が二重のほうが、ヴァルドさんです。そちらは肉が少し多めです」
「なぜだ」
レオンが尋ねた。
「追加でご注文いただきました」
ヴァルドが包みを取った。
「頼めば増えるのだ」
「今、増やせますかと言われても、もうありませんよ」
レオンは自分の包みを持ち、重さを確かめるように手のひらへ載せた。
「十分だ」
俺は地図をヴァルドに渡した。
「炭焼き小屋の先で二つに分かれます。右は薪を運び出す場所ですから、左へ」
「橋までは、お前が歩いた道だな」
「はい。その先は、炭焼きの方に聞いただけです」
「分かった」
レオンが地図をのぞき込んだ。
「西へ出たら、道は分かる」
「では、そこから頼む」
そのやり取りは、驚くほど普通だった。
俺は裏口の鍵を外した。
途端に、冷えた空気が足元を流れた。
薪置き場まで出たヴァルドが、左右を確かめた。
レオンも続こうとして、立ち止まる。
二階から、鐘の音がした。
一つ。
間を置いて、もう一つ。
小さな音なのに、台所まではっきり届いた。
朝六つ刻。
レオンの目が、ヴァルドへ動いた。
魔王も、その音を聞いていた。
最後の一つが鳴り終わった。
レオンの右手が、剣の近くにあった。
俺は何も言えなかった。
ヴァルドが、地図を差し出した。
「橋を渡ったら、お前に返す。先にしまっておけ」
レオンは地図を受け取らなかった。
「……西の道に出るまでだ」
「ああ」
「その先は、別々に行く」
「好きにしろ」
レオンの手が、剣から離れた。
地図を受け取り、外套の内側へしまう。
俺はようやく息をした。
「手紙は、出てから少し置いて渡します」
レオンがうなずいた。
「宿に迷惑がかかったら」
「そのときは、次に来たときに聞いてください」
解決しているとは限らない。
でも、玄関の前で続きを心配していても、道は空かない。
「忘れ物を確かめますので、部屋もそのままにしておきます」
「忘れるほど持っていない」
「そういう方も、忘れます」
レオンは自分の包みを持ち直した。
ヴァルドは一足先に、森の入り口へ向かっていた。
その背中を見てから、レオンが尋ねた。
「朝食を部屋へ運ぶと、銅貨一枚だったな」
「はい」
「包むのは?」
「今回は、宿泊代に含めます」
「今回は、か」
「包むばかりになると、布が足りなくなりますので」
レオンが少し笑った。
「返しに来る」
そう言って、裏庭へ下りた。
少し先で、魔王が振り返った。
「宿主。パンは、昨夜よりよかった」
「まだ食べないでください。歩き始めたばかりでしょう」
ヴァルドは半分になったパンを包みへ戻した。
レオンが何か言った。
魔王が肩をすくめる。
二人は並ばず、少し間を空けて森へ入っていった。
枝が揺れなくなるまで、俺は裏口に立っていた。
*
表へ出ると、粉屋の前でエルガーが馬具を直していた。
粉屋の戸口は、空いていた。
俺を見て、男が歩いてくる。
「出発の支度はできたか」
俺は二通の手紙を差し出した。
「お預かりしました」
エルガーは俺の手元を見た。
封を開け、読み始める。
二通目まで読み終えたとき、顔が上がった。
「どこから出した」
「もう、宿は発たれました」
男の後ろで、護衛が馬へ向かった。
「いつだ」
俺は答えなかった。
エルガーは宿の脇へ目をやり、森を見た。
「西へ抜けたのか」
その言葉にも、答えられなかった。
嘘をうまくつく自信はなかった。
「怪我をしていると言ったはずだ」
「はい。お医者さんに診てもらうと、ご本人が決めました」
「我々が運ぶこともできた」
「昨夜、そう言っていただければ、ご本人に確認できました」
言い終えてから、腹の底が冷えた。
男の手の中で、紙がわずかに曲がった。
俺は両手を前で重ねた。
エルガーはもう一度、レオンの手紙を見た。
最後にある名前を、しばらく見ていた。
「軍務局には、経緯を報告する」
「はい」
「改めて、話を聞かれるかもしれん」
「そのときは、お話しします」
声が震えなかったのは、そこまでだった。
「こちらの手紙は、部隊の方へお願いできますか」
エルガーが二通目を持ち上げた。
俺はうなずいた。
男は二通を重ね、筒へ収めた。
「届ける」
短い返事だった。
護衛が何か尋ね、エルガーは西を指した。
三人が馬に乗る。
俺は見送った。
馬の姿が街道の曲がり角へ消えても、すぐには動けなかった。
追いつかれるかもしれない。
別の道を回って、待たれるかもしれない。
地図一枚で、全部が片づいたわけではなかった。
それでも、二人は今、自分で選んだ道を歩いている。
「飯、食ったのかい」
向かいから声がした。
粉屋のおばさんが、戸口に立っていた。
「まだです」
「じゃあ、食べな。爺さんがいないんだから、あんたまで倒れたら店が閉まるよ」
「はい」
俺は宿へ戻った。
*
二号室には、忘れ物はなかった。
ヴァルドが使った寝台には、外した足元の板が立て掛けてあった。
レオンの寝台は、掛布が半分だけ畳まれていた。きちんと直そうとして、途中でやめたような形だった。
俺はシーツを外した。
両方とも、使った跡がある。
それを見てから、窓を開けた。
雨上がりの空気が入ってくる。
廊下の桶を空にして、布巾を干す。
帳場へ戻り、帳簿の昨日の欄に線を引いた。
宿泊二名。
朝食二名分、持ち帰り。
自分の朝食は、残しておいた煮込みだった。
冷めた芋は汁を吸いすぎていたが、温め直す気力がなかった。パンに載せて食べる。
ようやく腹が減っていたことに気づいた。
玄関の鐘が鳴った。
俺は匙を置いて、立ち上がった。
「いらっしゃいませ」
戸口には、大工の親父が立っていた。
肩に、屋根へ使う板を担いでいる。
「雨、やんだぞ」
俺は帳場の引き出しを開けた。
昨日受け取った硬貨を出す。
「まず、これだけ」
親父は数え、俺の顔を見た。
「残りは?」
「次のお客さんに、頑張っていただきます」
「頑張るのはお前だろうが」
そのとおりだった。
俺は袖をまくり、板の片側を持った。




