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第四話 お迎えはお断りしています

第四話 お迎えはお断りしています


「迎えが来るかもしれない」


 レオンはそう言って、玄関を見ていた。


 俺は開いたままの帳簿を閉じた。


「来たら、帰ってほしいんですね」


「ああ」


「それは、相手にも伝えてありますか」


 少し間が空いた。


「休ませてくれとは言った」


 俺は帳場の内側から椅子を出した。


「とりあえず、座りませんか。立ったままだと、私まで落ち着かないので」


 レオンは椅子を見た。


 玄関と階段、両方が見える向きへ少し動かしてから、腰を下ろす。


 剣は外さなかった。


 俺は台所へ行き、竈に残しておいた湯を確かめた。まだ温かい。香草茶の缶へ手を伸ばしかけて、やめた。


「白湯でもいいですか」


「ああ」


 杯に注いで持っていく。


 レオンは受け取ったが、飲まずに両手で包んでいた。


 帳場のランプに、濡れた髪の先が光っている。


「どんな方が来るんでしょう」


「王都からの連絡役だ。いつもは、部隊への命令を持ってくる」


「お一人で?」


「護衛を連れていると思う」


 俺は玄関の鍵を見た。


 古いが、丈夫ではある。


 剣に対して丈夫なのかは、知らない。


「宿の決まりは、名前を書いたお客様同士のものですよね」


 レオンが顔を上げた。


「そうだ」


「入ってきた人が、勝手に何かするのも止めてくれますか」


「……分からない」


 俺はうなずいた。


 分からないことを、当てにはできない。


「では、扉を開けずにお話しします」


「俺は、ここにはいないことにしてくれればいい」


「宿帳はお見せしません。泊まっている方の名前も、こちらからは言いません」


 そこまで答えると、レオンの指が少し緩んだ。


 ただ、俺には聞いておきたいことがあった。


「でも、後から困るといけないので、一つだけ」


「何だ」


「追われている理由は、宿に関わることですか。ここに何かを持ち込んだとか、誰かと待ち合わせをしているとか」


「違う」


 返事は早かった。


 続く言葉は、すぐには出てこなかった。


 俺は自分の椅子へ座り、待った。


「前線から戻ったのが、四日前だ」


 やがてレオンが言った。


「左肩をやられた。剣を握ることはできるが、長くは振れない」


 包帯を巻いた手首が、杯の縁に触れていた。


「次の出発が決まっていた。二日後だった」


「休む間がないですね」


「治療を受ければ間に合う、と言われた」


 彼は白湯を見下ろした。


「出発の前の晩、薬湯を飲んだ。そのあとのことを、あまり覚えていない」


 俺は黙っていた。


「気づいたら、馬車の中だった。装備も積まれていた。宿舎で寝たはずなのに」


「薬で眠ってしまったんですか」


「分からない。そう説明された」


 説明された。


 レオンはそこで一度、口を閉じた。


「護衛に聞いても、休んでいてくれとしか言わなかった。戻りたいと言っても、馬車を止めなかった」


「それで、降りたんですね」


「水場で止まったときに」


 彼は外套を着ていなかった。


 それでも、胸元に何かを確かめるように手をやった。


「バルトの手紙を持っていた。前に、この宿で世話になったことがある。ここなら、一晩くらいはと思った」


 俺は食堂を振り返った。


 洗って伏せた皿が、暗がりに並んでいた。


 魔王が食べてから、ようやく動いた匙。


 あの間の理由を、本人に確かめる必要はなかった。


「眠る場所は、もう代金を頂いています」


 俺が言うと、レオンは顔を上げた。


「ただ、同室のお客様については、すみません」


「……あれは、お前のせいではない」


「バルトさんの帳簿には、名前もありませんでした」


「だろうな」


 レオンが、ほんの少し笑った。


 杯を口元へ運ぶ。


 今度は、一口飲んだ。


     *


 馬の音が聞こえたのは、その少しあとだった。


 最初は、雨樋を流れる水かと思った。


 硬い音が重なり、窓の向こうを明かりが横切る。


 レオンが立った。


 椅子が床をこする音が、やけに大きかった。


「裏から出る」


 俺はとっさに手を上げた。


「待ってください。誰かいるかもしれません」


 レオンは裏口へ目を向けた。


 俺も、言ってから怖くなった。


 馬が何頭かも分からない。表に見える人数だけとは限らない。


 玄関が叩かれた。


 強すぎず、弱すぎず、三回。


「夜分、失礼する」


 男の声だった。


「灯りが見えた。少し尋ねたい」


 俺はレオンを見た。


 小さく、うなずいた。


 知っている声らしい。


「お部屋へ」


 口だけで伝えると、レオンは動かなかった。


 もう一度、扉が叩かれた。


「宿の者はいるか」


 俺は帳簿を引き出しへしまった。


 二枚の予約票も、その下に入れた。


 鍵は掛けられない。引き出しを閉じることしかできなかったが、出しっぱなしよりはいい。


 振り向くと、階段の上にヴァルドがいた。


 手には、廊下へ持っていったランプ。


 レオンと目が合っても、何も言わなかった。


 俺は二階を指さした。


 魔王が一歩引いて、階段を空ける。


 レオンは顎を固く結んだまま、上がっていった。


 最後に俺を振り返ったので、小さくうなずいた。


 頼れる裏づけのあるうなずきではなかった。


 足音が遠ざかるのを待って、玄関へ行った。


     *


「はい。どちら様でしょうか」


 扉越しに尋ねると、すぐに返事があった。


「王都軍務局のエルガーという。人を捜している」


「申し訳ありません。本日の受付は終わっております」


「宿泊ではない。灰色の外套を着た若い男を見なかったか。剣を携えている」


 俺は扉の横の、小さな確認窓を開けた。


 鉄格子越しに、濡れた帽子と男の顔が見えた。


 四十歳前後だろうか。短く整えた髭。声と同じく、落ち着いた顔だった。


 背後には、馬の手綱を持った男が二人見えた。


 どちらも腰に剣を下げている。


「橋の番人が、こちらへ向かったと言っている」


 エルガーはそう付け加えた。


「この先にも道は続いておりますが」


「そうだな。だから、尋ねている」


 口調は穏やかだった。


 俺は窓枠の下で、自分の指を握った。


「お客様についてのお尋ねには、お答えしていません」


 男の目が、少しだけ細くなった。


「客として来ているのか」


「泊まっていない方についても、同じようにお答えしています」


 実家で、母親が電話口で使っていた言葉だった。


 俺が言うと、ずいぶん頼りなく聞こえる。


 エルガーは息を吐いた。


「怪我人なんだ。治療の途中で姿を消した。本人は大丈夫だと言うかもしれないが、放っておけない」


「そうですか」


「連れ戻したい。こちらには、彼を保護する役目がある」


 胸元から、筒を取り出した。


 中の紙を広げ、確認窓へ向ける。


 上のほうに紋章があり、下には印と、細かい文字が並んでいた。


 字は読めた。


 けれど、その印が本物なのか、書かれた役職がどれほど偉いのかまでは分からない。


「ここを開けてくれれば、説明できる」


「こちらで聞こえます」


「雨が降っている」


「軒の内側へどうぞ。右は漏れますので、左へ」


 男が一瞬、黙った。


 俺は真面目に言った。


 右へ立たれると、首筋に落ちる。昼、大工に文句を言われたところだった。


 エルガーは左へ半歩移った。


「君は、新しい従業員か」


「留守を預かっています」


「バルト殿はいないのだな」


「はい」


「では、なおさら、君の判断で面倒を抱え込まないほうがいい」


 声は変わらなかった。


 それなのに、先ほどより近く聞こえた。


「彼は国に必要な人間だ。多くの者が待っている」


 俺は男の後ろを見た。


 護衛の一人が、馬の首を撫でていた。


 普通の仕草だった。馬は疲れているらしく、頭を下げている。


 この人たちにも、仕事があるのだろう。


 連れ戻せと言われ、夜の街道を来たのかもしれない。


「ご本人が、戻りたくないと言った場合は?」


 エルガーは紙を巻き直した。


「説得する」


「それでも、嫌だと言ったら」


「まずは、会わせてもらいたい」


 返事になっていなかった。


 俺は額に汗が浮くのを感じた。


 扉一枚向こうは冷たい雨なのに、襟の内側が暑い。


「今夜は、お引き取りいただけませんか」


「彼がいるのだな」


 しまった、と思った。


 エルガーは確認窓の奥をのぞいた。


「レオン殿」


 さっきより、通る声になった。


「お迎えに上がりました。話をしましょう」


 二階で床が鳴った。


 俺は振り返らないようにした。


「ここまで歩かれたのですから、お疲れでしょう。馬も用意してあります」


 エルガーが、また呼びかけた。


「あなたが戻らなければ、明日の隊は誰が率いるのです」


 俺は男の顔を見た。


 怪我の話をしていたはずだった。


     *


 背後で、階段がきしんだ。


 止める間もなく、レオンが降りてきた。


 剣は鞘に収まっている。


 でも、さっき飲んだ白湯の温かさなど、もう残っていなさそうな顔だった。


 俺の隣まで来ると、扉に向かって言った。


「今夜は戻らない」


 外で、気配が動いた。


「レオン殿。まずは落ち着いて」


「休ませてくれと言った」


「ですから、休める場所へお連れします」


「馬車は前線へ向かっていた」


 エルガーは答えなかった。


 レオンの手が、剣の柄へ触れた。


 俺はその手を見た。


 左の肩が、わずかに上がっていた。


 もう、帳場で止まった剣を当てにはできない。外の三人は、宿帳に名前を書いていない。


 レオンは取っ手へ手を伸ばした。


 俺は先に、取っ手を握った。


 彼がこちらを見る。


「開けません」


 声が思ったより小さかったので、もう一度言った。


「今は、開けません」


「お前を巻き込む」


「開けたら、私もここにいます」


 レオンの視線が、俺から扉へ移った。


 エルガーが外で言った。


「こちらは争いに来たのではない」


「でしたら、今のお返事を持ってお帰りください」


 俺は確認窓へ向き直った。


「ご本人が、今夜は戻らないとおっしゃっています」


 男はしばらく、俺を見ていた。


 やがて紙の筒をしまい、帽子の縁から雨を払った。


「朝には、出発するのだろう」


 俺は答えなかった。


「街道で待たせてもらう。邪魔にはなるまい」


 男が一歩下がった。


 手綱を持っていた護衛へ、何かを短く告げる。


 三人は帰らなかった。


 向かいの粉屋の軒先へ馬を寄せ、こちらの玄関が見える位置に立った。


 俺は確認窓を閉じた。


 取っ手から手を離すと、指の跡が汗で残っていた。


 レオンは何も言わなかった。


 二階から、ヴァルドがランプを持って降りてきた。


 その明かりで、ようやく食堂の隅まで見えた。


「何人だ」


「見えたのは、三人です」


 俺が答えると、魔王はうなずいた。


 レオンが玄関を見たまま言った。


「朝になれば、同じだ」


 俺は壁の額へ目を向けた。


 朝の鐘まで。


 そこに書いてあるのは、今夜の終わりだった。


 俺はレオンが座っていた椅子を、もう一度引いた。


「まず、座ってください」


 それから帳場の引き出しを開けた。


 二枚の予約票の下から、宿の周りを歩き回ったときに描いた、買い出し用の地図を取り出す。


 粉屋。井戸。薪置き場。


 街へ向かう道と、森へ入る細道。


 朝食を包むだけでは、済まなくなっていた。

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