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第三話 おかわりは別料金です

第三話 おかわりは別料金です


 水差しを持って戻ると、魔王がパンを叩いていた。


 指の関節で、こつ、こつ、と。


「何か問題が?」


「硬い」


「煮込みに浸してお召し上がりください」


「なるほど」


 ヴァルドは素直に従った。


 パンの端が汁を吸い、濃い茶色に変わる。少し待ってからかじり、今度はうなずいた。


「食える」


「食べ物をお出ししておりますので」


 向かいで、小さく息が漏れた。


 レオンが口元を拭いている。


 俺が見ると、すぐに布を膝へ戻した。


「何でもない」


「ごゆっくりどうぞ」


 笑う余裕があるなら、さっきよりはいい。


 俺は二人の杯に水を注ぎ、少し離れた席へ腰を下ろした。自分の夕食も済ませておきたかった。


 鍋から取り分けたのは、煮崩れた芋と豆の多いところだ。


 客には形の残った芋をよそったが、俺はこちらのほうが好きだった。汁がよく絡むし、パンですくいやすい。


 一口食べる。


 燻製肉の塩気が豆まで回っていた。刻んだ玉ねぎはほとんど形をなくし、口の中に甘さだけが残る。


 底を焦がしかけたことは、黙っておこう。


「宿主」


 顔を上げると、ヴァルドが空の皿を持っていた。


「もう一杯もらえるか」


 早い。


「追加は銅貨二枚です」


「夕食つきではなかったか」


「一食つきです。鍋つきではありません」


 魔王は少し考えた。


「肉は増えるか」


「増えません」


「では、同じものを」


 話が早くて助かった。


 皿を受け取って立つと、レオンが鍋のほうを見た。


「まだあるのか」


「ございます」


「……そうか」


 自分の皿へ視線が戻る。芋が一欠片、残っていた。


 財布には手を伸ばさない。


 俺は魔王の皿を満たし、パン籠を二人の間へ寄せた。


「パンは、こちらに出ている分でしたらどうぞ。朝は新しいのが届きますので」


 レオンは俺を見た。


「こちらを片づけていただけると、助かります」


 それも本当だった。


 彼は籠から一つ取った。


 魔王がもう一つ取った。


 籠が空になった。


 食欲については、二人とも申し分ない。


     *


「バルトは、どこへ行った」


 食べる速さが少し落ち着いた頃、ヴァルドが尋ねた。


「行き先は聞いていません。七日ほど留守にするとだけ」


「何日前だ」


「十二日前です」


「なら、まだだな」


 粉屋と同じことを言う。


「以前も、そうだったんですか」


「あの男を三日待ったことがある」


「お約束に遅れた?」


「約束の日に来た。俺のほうが三日前に呼ばれていた」


 意味が分からず、俺は匙を止めた。


「手紙の日付を間違えたそうだ」


 帳場に並べた二枚の予約票を思い出した。


 心当たりがありすぎる。


「今回のご予約も、お手紙で?」


 ヴァルドはうなずいた。


 レオンも、少し遅れてうなずく。


「いつ届きました?」


「六日前だ」とレオン。


「俺は十日前だな」


「それぞれ、二号室と」


「書いてあった」


 レオンが答え、魔王を見た。


「お前がいるとは、一言もなかったが」


「俺もだ」


 俺は椅子の背に体を預けた。


 単純に同じ部屋を二度売ったのか。


 それとも、何か事情があるのか。


 今のところ分かるのは、その事情に俺が含まれていないことだけだった。


「帰ってきたら、確認します」


「頼む」


 レオンの返事には力がこもっていた。


 この件に限っては、意見が合いそうだった。


「お前は長くここにいるのか」


 今度はレオンに聞かれた。


「三か月ほどです。厨房や掃除はしていましたが、一人でお客様を迎えるのは今日が初めてです」


 二人が黙った。


 ヴァルドは匙を皿へ置いた。


 レオンは杯を持ったまま、目を伏せた。


「……初日か」


「はい」


「それは」


 魔王が言葉を探している。


 少し待ってみたが、続かなかった。


「お二人とも、お釣りの要らない払い方をしていただければ、それで」


「いくらだ」


 ヴァルドがすぐに財布を出した。


 そこまで気の毒そうにされると、こちらも少し困る。


     *


 食べ終えた皿を下げる頃には、窓の外は真っ暗になっていた。


 雨脚は弱まっている。代わりに、軒から落ちる滴がはっきり聞こえた。


 ヴァルドは銀貨と銅貨を卓上に並べ、俺の示した額を一枚ずつ寄せた。


 どれも見慣れた硬貨だった。


 ほっとしていると、レオンがその手元を見た。


「人間の金を使うのか」


「ここで使えない金を持ってきて、どうする」


「魔王なら、もっとこう……」


「金塊など出されても、うちではお釣りが出ません」


 俺が言うと、ヴァルドはレオンへ手のひらを向けた。


 ほら見ろ、という顔だった。


 勇者は面白くなさそうに、自分の財布を出した。


 指先で中を探り、銀貨を一枚取り出す。


 俺は銅貨二枚を返した。


 レオンは額を確かめ、すぐにしまった。


「朝食は何時だ」


「六つ刻の鐘が鳴ってからです」


 そう答えた途端、彼の手が止まった。


 宿の決まりを思い出したのだと、俺にも分かった。


 朝の鐘まで。


 それが鳴ったあと、二人を同じ食卓につかせていいのだろうか。


「早く発つようでしたら、パンを包んでおきます」


「……少し考える」


「朝食の前に出るなら、俺が食ってもいいぞ」


 ヴァルドが言った。


「お前に聞いていない」


「残すのかと思ってな」


「食べる」


 レオンは言い切ってから、俺を見た。


「俺が食べる」


「承知しました」


 予約は一名分ずつ。


 そこは、きちんと帳簿に書いておこう。


     *


 二人が二階へ上がったあと、俺は食卓を拭いた。


 レオンの皿には何も残っていなかった。


 ヴァルドの皿も同じだったが、こちらにはパンで汁を拭った跡までついている。


 作ったものがなくなるのは、やはりうれしい。


 鍋の残りを小さな器へ移し、竈の火を落とした。


 皿を洗いながら、レオンが最初の一口を食べるまでの様子を思い返した。


 ヴァルドが口をつけてから、自分も食べた。


 そのあとも何度か、向かいの皿を見ていた。


 熱さを確かめていたのだろうか。


 それとも、もっと別のものを。


 毒、という言葉が浮かび、水の中で手が止まった。


 俺は、すぐに皿洗いを続けた。


 食べ方を見ただけだ。理由まで決めつけることはない。


 ただ、次に料理を出すときは、鍋ごと食卓へ持っていこうと思った。


 何をよそっているか、見えるほうがいい。


 最後の皿を伏せたところで、階段がきしんだ。


 ヴァルドが降りてきた。


 外套は着ていない。片手に空の水差しを持っている。


「水か?」


「はい。そこの樽から汲めます。お持ちしますよ」


「自分でやる」


 彼は樽の蓋を開け、柄杓を取った。


 俺は布で手を拭きながら、長い背中を見ていた。


 食堂に一人でいる魔王。


 頭では警戒しているのに、気になるのは水をこぼさないかどうかだった。


「何だ」


「いえ」


「聞きたいことがある顔だ」


 俺は壁の額を見た。


「この宿の決まりですが」


 ヴァルドの手が止まった。


「お二人が眠っていても、効くんですよね」


「ああ」


「何もしなくても? 私が、火を絶やさないようにするとか、そういうことは」


「バルトからは何も言われていないのか」


「名前を先に書かせろとしか」


 魔王は額を見上げた。


 それから、ゆっくり息を吐いた。


「お前が起きている必要はない。俺が泊まったときも、あの男は先に寝ていた」


「そうですか」


 俺は肩の力を抜いた。


 一晩中、帳場に座っていなければならないのかと思っていた。


 ヴァルドは水差しを持ち上げた。


「それと、明かりを一つ借りたい」


「お部屋にありませんでしたか」


「部屋にはある。廊下だ」


 階段の先を見た。


 二階の廊下は、部屋の扉を閉めると暗い。桶も置いてある。


「足元が危ないですね。すみません」


「いや」


 ヴァルドは少し黙った。


「灯りがついていれば、あいつが扉を開けるたびに俺を起こさずに済む」


「レオンさんが?」


「さっきから、何度も外を確かめている」


 俺は壁際のランプを取った。


 油を足し、火を移す。


「窓ではなく、扉を?」


「ああ」


 ヴァルドがランプを受け取った。


 階段を上がる直前に、彼は振り返った。


「明日のパンは、硬くないのだな」


「今夜のよりは」


「ならいい」


 足音が二階へ消えた。


     *


 玄関に鍵を掛け、食堂の明かりを落とした。


 帳場には、小さなランプだけを残した。


 帳簿を開く。


 宿泊二名。相部屋割引二名分。夕食追加一皿。


 銅貨を数える指は、もう震えていなかった。


 屋根の修理代には、まだ足りない。


 それでも、今日の欄が空白で終わらなかったことに、俺はしばらく満足していた。


 上から足音がした。


 今度は軽い。階段の途中で一度止まり、それから下りてくる。


 レオンだった。


 寝支度にはなっていなかった。腰に剣を下げたままだ。


「眠れませんか」


 彼はうなずかず、玄関の扉を見た。


「鍵は掛けたのか」


「はい」


「裏口も?」


「掛けました」


 少し間が空いた。


 レオンは帳場の前まで来たが、椅子には座らなかった。


「頼みがある」


 俺はペンを置いた。


「誰かが俺を捜しに来ても、泊まっていると言わないでほしい」


 二階では、魔王が寝ている。


 彼が気にしているのは、その部屋ではなかった。


 俺は尋ねた。


「お知り合いですか」


 レオンは、鍵の掛かった玄関を見たまま答えた。


「迎えが来るかもしれない」


 迎え。


 待っている人の言い方ではなかった。

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