第二話 相部屋は銅貨二枚引き
第二話 相部屋は銅貨二枚引き
二階で水があふれている。
目の前には、同じ部屋を予約した客が二人。
どちらを先に片づけるべきか迷ったが、水は名前を書いてくれない。
「こちらにご記帳をお願いします。お部屋については、少々ご相談が」
黒い外套の客へ宿帳を向け、足元の雑巾を拾った。
客は革鞄を床に置いた。長い指がペンを取り、ためらいなく名前を書く。
ヴァルド。
最後の一画を引き終えたところで、レオンが口を開いた。
「頭巾を取れ」
受付を手伝ってくれる声ではなかった。
俺は雑巾を握ったまま、顔を上げた。
「人違いなら、謝る」
「お前は昔から、謝る前に剣へ手をかける」
黒い外套の客が頭巾を下ろした。
耳の上から後ろへ、黒い角が二本伸びていた。
次の瞬間、レオンの剣が抜けた。
金属の音がした。
俺は身を引いた。腰が椅子にぶつかり、椅子ごと倒れかけて、帳場の端をつかんだ。
剣の先が、ヴァルドの喉元で止まっていた。
角のある客は動いていない。
受け止める手も、盾もない。
レオンの腕に力がこもる。床板がきしんだ。それでも刃は、喉の一寸ほど手前から進まなかった。
「……何をした」
「宿に聞け」
ヴァルドが壁の額へ目を向けた。
俺も見た。
『宿帳に名を記した客同士、朝の鐘まで加害を禁ず』
さっきまで、喧嘩をするなという注意書きだと思っていた。
違ったらしい。
俺は帳場にしがみついたまま、宿帳を見た。
レオン。
ヴァルド。
両方、書いてある。
よかった、と思いかけて、俺の名前は書いていないことに気づいた。
「剣を」
声が裏返った。
二人がこちらを見た。
見なくていい。いや、話は聞いてほしい。
一度、唾を飲み込んだ。
「剣を、しまってください」
「こいつが誰か分かっているのか」
「存じません」
「魔王だ」
俺はヴァルドを見た。
本人は否定しなかった。
粉屋の奥さんが話していた。北では何年も戦争が続いていて、街道を通る荷が減っている、と。魔王という言葉も、その話の中にあった。
もう少し遠くにいるものだと思っていた。
「……お客様は?」
レオンに尋ねた。
答えたのは魔王だった。
「勇者だ。人間はそう呼んでいる」
俺は倒れかけた椅子を起こした。
座りたかったが、二人とも立っているのでやめた。
「事情は分かりました」
何も分からなかった。
「ただ、私が間におりますので。剣だけでも」
レオンが俺を見た。
俺の手元へ視線が落ちる。握り締めた雑巾から、帳場に水が滴っていた。
少しの間を置いて、剣が引かれた。
鞘に収まる音がして、ようやく息を吐けた。
二階から、ぽた、と水が落ちてきた。
帳簿の横に、黒い点ができた。
「申し訳ありません」
俺は帳簿を抱え上げた。
「先に、雨漏りをどうにかしてきます」
*
二階へ上がると、廊下の桶から水があふれていた。
両手で持ち上げる。
重い。
手が震えて、水面が波立つ。半分ほど階段脇の排水窓から捨てて、ようやく運べる重さになった。
勇者と魔王。
台所の鍋は、芋と豆の煮込み。
歓迎の支度として合っているのか、見当もつかない。
桶を置き直していると、階下で足音がした。
まずい。出ていって、そのまま外で斬り合われたらどうする。
急いで階段へ戻ると、魔王が玄関の扉を閉めていた。
「ひどい雨だな」
外を見ただけらしい。
レオンは帳場の前から動いていなかった。ただ、俺が降りるのを待ってから、二階へ目を向けた。
「上は使えるのか」
「二号室だけは。窓も閉まります」
「ほかは」
「窓は閉まります」
「屋根か」
「はい」
魔王が濡れた外套を持ち上げた。
「これを掛けても?」
俺は玄関脇の鉤を示した。
魔王はそこに外套を掛け、下に置いてあった受け皿の位置を直した。
剣を抜く勇者と、水滴を気にする魔王。
受付で見分けるには、事前の説明が足りなすぎた。
「それで、宿主」
魔王が言った。
「部屋の相談とは?」
俺は二枚の予約票を並べた。
「同じお部屋で、ご予約が重複しております」
「別々に取った」
レオンが言う。
「そのようですね。こちらの手違いです。申し訳ありません」
頭を下げた。
バルトさんが帰ったら、留守番代の前に話すことができた。
「使える部屋には寝台が二つございます。相部屋でしたら、お一人銅貨二枚お引きします」
「断る」
レオンが言った。
「俺は構わん」
魔王が言った。
「俺が構う」
「聞こえている」
二人とも、相手を見るのが早い。
俺は予約票を手元へ引き寄せた。
「別々でしたら、お一人は食堂に寝床をご用意します。ただ、朝は私が支度に入りますし、窓には鎧戸しかありません」
「鍵は」
レオンが尋ねた。
「玄関にはあります。食堂の出入り口には、ありません」
レオンは食堂を見た。
大きな窓が二つ。台所へ続く扉と、裏口へ抜ける廊下。
視線が順番に動き、玄関へ戻る。
「二号室の鍵は、内側から掛かるか」
「掛かります」
答えると、レオンは黙った。
魔王が顎に手を当てた。
「では俺が部屋を借りよう。この男は相部屋が嫌だそうだからな」
「勝手に決めるな」
「お前が断った」
俺は二号室の鍵を、二人のちょうど中間に置いた。
「お部屋を見てから決めませんか」
*
階段は、俺、勇者、魔王の順で上がった。
途中でレオンが振り返ったので、俺も振り返った。
ヴァルドが一段下で止まった。
「先に行け」
「お前が先に行け」
俺は踊り場で待った。
もう一度、同じやり取りがあった。
「階段が狭いので、追い越しは二階でお願いします」
言ってから、口調が実家で団体客を案内するときと同じになっていることに気づいた。
二号室の扉を開ける。
左右の壁に寝台が一つずつ。間に小さな机。窓の下には、水差しと洗面鉢。
派手なものはないが、シーツは昼まで竈のそばで乾かしておいた。湿った廊下から入ると、それだけで少しほっとした。
レオンは真っ先に窓の留め金を調べた。
魔王は寝台を見ていた。
正確には、寝台の端を。
「少し短いな」
「足元の板は外せます」
「頼む」
俺は膝をつき、留め具を外した。
レオンが背後で言った。
「本当に、朝まで手を出せないんだな」
「お前がいちばん確かめたはずだが」
「寝ている間もか」
留め具を回す手を止めた。
レオンは魔王を見ていなかった。
机の上の、小さな鐘を見ている。
俺も、掃除のときに動かしたことがあった。下に置かれた札には、朝六つ刻の鐘をもって一泊を終える、と書いてある。
「眠っていても変わらん」
ヴァルドが答えた。
「この宿に泊まったことが?」
俺が聞くと、魔王は短くうなずいた。
「昔にな」
それ以上は続かなかった。
足元の板を外し、壁へ立て掛ける。留め具が一本、床を転がった。
拾おうとして、うまく指でつかめなかった。
まだ震えている。
手を握り直していると、レオンがかがんだ。留め具を拾い、机に置く。
「……帳場では、悪かった」
俺は顔を上げた。
レオンはもう窓のほうを向いていた。
「次からは、抜く前にお願いします」
「ああ」
何をお願いしたのか、自分でも曖昧だったが、うなずいてもらえた。
ヴァルドが扉に近い寝台へ鞄を置いた。
「俺はこちらでいい」
レオンは少し考えてから、窓側の寝台へ腰を下ろした。
革がきしんだ。
座ったとたんに肩が下がったので、相当疲れていたのだと分かった。
「銅貨二枚引きだったな」
「はい」
「湯も頼む」
「すぐにお持ちします」
俺は扉の外で、二人に見えないよう息を吐いた。
二名様、一室。
どうにか、決まった。
*
台所に戻ると、鍋の底が焦げかけていた。
慌てて火からずらす。木べらを浅く入れ、底をこすらないように混ぜた。
最初の営業日から、勇者と魔王に焦げた芋を食わせるところだった。
いや、相手が誰でも駄目だが。
湯を二階へ運び、食卓を拭き、皿を並べる。
やがて、階段がきしんだ。
先に降りてきたのはレオンだった。外套を脱ぐと、左肩をかばっているのがよく分かる。
「夕食は、この席でよろしいですか」
壁を背にできる椅子を引くと、彼は黙って座った。
少し遅れて、ヴァルドが来た。
隣の席へ行こうとしたので、俺は向かいの椅子を引いた。
「こちらへどうぞ」
配膳する身の都合も、多少は聞いてもらいたい。
煮込みをよそい、パンを添える。
湯気が三人の間を上がった。
「芋と豆の煮込みです。熱いので、お気をつけて」
「肉も入っているな」
ヴァルドが匙で薄切りを持ち上げた。
「燻製肉です」
「これはいい」
まだ食べていない。
肉があるだけで褒めてもらえるなら、明日は少し厚く切ってもいいかもしれない。
レオンは匙を取らなかった。
ヴァルドが一口食べる。
噛んで、飲み込む。
それを見届けてから、ようやくレオンの手が動いた。
俺はパン籠を置きながら、その間を見ていた。
相部屋を嫌がった相手が先に食べるまで、自分は口をつけない。
レオンは一口目を飲み込み、すぐに二口目をすくった。
腹は、減っていたらしい。
俺は水差しを取りに戻った。
今度は、彼の顔を見すぎないようにした。




