第一話 最初のお客様
はじめまして、筆まかせです。
街道沿いの小さな宿と、そこに泊まる少し厄介なお客たちの物語です。
皆さんにも、時々帰ってきたくなる宿になればうれしいです。
それでは、灯り木亭へようこそ。
第一話 最初のお客様
銅貨十二枚を数え終えると、大工の親父は気の毒そうに俺を見た。
「桶なら三つ買える」
「屋根を直してほしいんですが」
「だから、桶なら三つ買える」
もう一度数えても、十三枚にはならなかった。
親父は肩に道具袋を担ぎ直した。
「雨がやんだら板を持ってきてやる。手間賃はそのときでいい」
「二階に泊まれる部屋が一つしかないんです。できれば今日」
「俺にだって雨の中、屋根から落ちない権利がある」
もっともだった。
俺は銅貨をしまい、桶を買いに出た。
*
三か月前まで、俺は日本で暮らしていた。
名前は佐伯航。二十八歳。実家の小さな旅館で、布団を敷いたり、皿を洗ったり、予約サイトの使い方を父親に説明したりしていた。
最後の仕事が、いちばん難しかった。
なぜ、こちらの世界へ来たのかは分からない。
旅館の裏口を出て、洗濯物を取り込もうとした。物干し竿に手を伸ばしたはずが、次の瞬間には知らない森の斜面を転げ落ちていた。
頭上には、月が二つあった。
最初に考えたのは、病院に行かなければ、ということだった。
次に考えたのは、靴を履いてくればよかった、だった。
森の中でサンダルを片方なくした俺を拾ってくれたのが、この宿の主人、バルトさんだった。
食事と寝床を借りた翌朝、せめてものお礼に玄関を掃いていたら、今度はシーツの山を渡された。
昼には芋の皮をむいていた。
三日目には、どの階段がきしむか覚えていた。
「お前、宿屋で働いたことがあるのか」
その頃になって、バルトさんは尋ねた。
確認するのが少し遅いと思ったが、雇ってもらう身なので黙っておいた。
言葉が通じたのは幸いだった。文字もどういうわけか読めた。ただし、値札を読めることと、適正な値段が分かることは別だ。
最初の買い出しで、石鹸を相場の三倍で買った。
それ以来、勘定だけは二度確かめることにしている。
宿の名は、灯り木亭。
街から半日ほど離れた街道沿いに建つ、客室四つの古い宿だ。裏手には森と井戸があり、向かいには粉屋がある。夕方になると、粉屋の鶏がうちの庭まで虫を食べに来る。
それ以外には、これといって何もない。
冬の間は客が少なく、俺の仕事の半分は、春の営業に向けた掃除と修繕だった。
その修繕が終わらないうちに、バルトさんが出かけてしまった。
『七日ほど留守にする。春の予約が入っているから、宿は予定どおり開けろ。仕入れ代は引き出し。困ったら粉屋に聞け』
書き置きの上には、玄関の鍵が載っていた。
今日で十二日目になる。
粉屋に相談したら、「あの爺さんの七日は長い」と言われた。
捜しに行くべきかとも思ったが、行き先も分からない。とりあえず宿を開ける。戻ってきたら、留守番代について話し合う。
順番としては、それが妥当だろう。
桶を抱えて帰ると、玄関の前で足が止まった。
看板の金具が緩んでいる。あとで締めなければならない。台所の薪も足りないし、客用の石鹸は小さく切っておく必要がある。
やることは、いくらでも浮かんだ。
日本に帰る方法は、まだ一つも浮かんでいない。
俺は桶を持ち直して、中に入った。
せめてここでは、働けば夕飯を食べられる。自分の荷物を置いたままにできる部屋もある。
バルトさんが帰るまでに、その場所を潰すわけにはいかなかった。
*
三つの桶を二階に置くと、雨音が少し賑やかになった。
無事な客室は、突き当たりの一室だけ。寝台は二つ。シーツは乾いているし、窓も閉まる。
上等だ。昨日までは窓も閉まらなかった。
台所へ戻って、鍋の蓋を開けた。
芋と豆、それから薄く切った燻製肉。実家で出していた料理とは違うが、こちらの芋にも火の通し方の癖がある。それが少し分かってきたところだった。
一口味を見て、塩を足す。
六人前はある。
食堂に並んだ椅子の数につられて、芋をむきすぎた。
残ったら明日もこれだ。
俺は鍋の蓋を戻し、帳場へ行った。
バルトさんの帳簿には、今夜の欄に「予約あり」としか書かれていない。
人数も名前もない。
実家でこんな記録を残したら、母親に鉛筆で額を小突かれる。
念のため引き出しをもう一度調べたが、見つかったのは古い領収書と、欠けたボタンだけだった。
壁の額に目をやる。
『宿帳に名を記した客同士、朝の鐘まで加害を禁ず』
初日に意味を聞くと、バルトさんは「名前は先に書かせろってことだ」と答えた。
説明を省くところまで、帳簿と同じだった。
喧嘩を起こさせないための決まりなのだろう。実家にも、酔った客に読んでほしい注意書きはいくつかあった。
俺は宿帳を開き、ペンを置いた。
今日の目標は、一組でいい。
温かいものを食べてもらって、乾いた寝床で眠ってもらう。翌朝、代金を受け取って送り出す。
それができれば、屋根の修理に少し近づく。
玄関の鐘が鳴った。
「いらっしゃいませ」
思ったより、声が大きく出た。
客が一瞬、足を止めた。
灰色の外套を着た若い男だった。俺よりいくらか年下だろうか。鼻筋が通っていて、濡れた前髪の下に、眠っていない人間の目があった。
腰には剣を下げている。
街では兵士を見かけるし、旅人も武器を持ち歩く。この世界では珍しくない。それでも、自分の帳場のすぐ前に立たれると、落ち着かなかった。
「予約している」
差し出された紙には、灯り木亭の名と、今日の日付。それから二号室、と書かれていた。
バルトさんの字だった。
俺は少し息をついた。
「お待ちしておりました。お一人ですね」
「ああ」
「一泊、夕食と朝食つきで銀貨一枚です」
男は財布を出しかけ、俺を見た。
「主人が替わったのか」
「留守を預かっています」
「いつ戻る」
「そこは、私もぜひ知りたいところです」
男は笑わなかった。
愛想でどうにかなる相手ではないらしい。
俺は宿帳を差し出した。
「こちらにお名前をお願いします」
男は外套の下を確かめるように肩へ触れてから、手袋を外した。左の手首に、新しい包帯が巻かれていた。
ペン先が一度止まり、それから名前を書いた。
レオン。
「お湯をお持ちしましょうか。手と顔を洗うくらいでしたら、すぐに」
「……頼む」
今度の声は、少しだけ柔らかかった。
「食事は部屋で取れるか」
「運び賃が銅貨一枚になります」
「下でいい」
返事が早かった。
俺はうなずいた。立派な剣を持っているからといって、余裕のある懐とは限らない。これも実家で覚えたことだ。
壁から二号室の鍵を取る。
そのとき、また玄関の鐘が鳴った。
鍋を大きくしておいてよかった、と思った。
あとになって振り返ると、この晩いちばん気楽だったのが、その瞬間だ。
入ってきた客は背が高かった。
黒い外套の頭巾をかぶり、片手に小さな革鞄を提げている。戸口で立ち止まり、靴の泥を丁寧に落とした。
ありがたい。最初の客は忘れていた。
「部屋を頼みたい」
「いらっしゃいませ。あいにく今夜は雨漏りで――」
「予約がある」
紙が一枚、帳場に置かれた。
灯り木亭。
今日の日付。
二号室。
俺は手元の予約票と見比べた。
二枚ともバルトさんの字だった。二枚とも、間違いなく二号室と書いてあった。
「何か不都合でも?」
頭巾の奥から、落ち着いた声がした。
「確認しております」
何を確認すれば解決するのかは、俺にも分からなかった。
レオンという客は、鍵を受け取らずに、入口の男を見ている。
知り合いだろうか。
それなら話が早い。寝台は二つある。連れ同士なら、多少狭くても相談の余地があるはずだ。
俺は二枚の予約票を並べて、尋ねた。
「失礼ですが、お連れ様では?」
「違う」
レオンが答えた。
さっきまでの疲れた声ではなかった。
黒い外套の客が、宿帳に目を落とした。
「……ほう」
笑ったように聞こえた。
二階で、水が桶の縁を越え始めた。
お読みいただき、ありがとうございます。
「また灯り木亭に寄ってみたい」と思っていただけたら、ブックマークやいいねで応援していただけるとうれしいです。
それでは、次のお話でお待ちしております。
筆まかせ




