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36.絶望という名の永遠

 挿絵(By みてみん)



 崖《がけ》から転落《てんらく》したその後《ご》、ロジオンは屋敷《やしき》の捜索隊《そうさくたい》に発見《はっけん》された。



 無事《ぶじ》に保護《ほご》された彼は絶望《ぜつぼう》も癒《い》えないままに、絶対安静《ぜったいあんせい》の身《み》として寝台《しんだい》に横《よこ》たわっていた。



 気がかりなのは、兄《あに》のその後の消息《しょうそく》だった。

 しかしあっけなく彼《かれ》は発見《はっけん》された。



 廃墟《はいきょ》の祭壇《さいだん》の上で心臓《しんぞう》をえぐられ、むごたらしい姿《すがた》で放置《ほうち》されていた。



 あの妖《あや》しげな黒装束《くろしょうぞく》の集団《しゅうだん》……。おそらく異端《いたん》の宗教組織《しゅうきょうそしき》とおぼしき連中《れんちゅう》は、いっさいの痕跡《こんせき》を残《のこ》さずそっくり姿《すがた》を消《け》していた。



 使者《ししゃ》から息子《むすこ》の死《し》を告《つ》げられたマティルデは、色《いろ》をなくした顔《かお》のまま泣《な》き崩《くず》れた。



 しばらく精《せい》も根《こん》も尽《つ》き果《は》てるほどに泣《な》いて、もはや涙《なみだ》も枯《か》れたといった風情《ふぜい》で悄然《しょうぜん》とマティルデがつぶやく。



「ああ、神《かみ》よ……。どうして私《わたし》の息子《むすこ》が殺《ころ》されなければならなかったのですか……?」


 

 ロジオンは見舞《みま》いに訪《おとず》れた義母《ぎぼ》マティルデに、どう顔向《かおむ》けしてよいのかわからず、言葉《ことば》をうしなったように押《お》し黙《だま》っていた。



 さっきから思うように声《こえ》が出ない。



 骨《ほね》も何本《なんぼん》か折《お》れているのか、激痛《げきつう》で上半身《じょうはんしん》の動《うご》きもままならず、力なく寝台《しんだい》の上にいた。



 マティルデは悲嘆《ひたん》に暮《く》れながらも、まだ息子《むすこ》が死《し》んだという事実《じじつ》を信《しん》じきれていないようだった。



 涙《なみだ》の乾《かわ》ききっていない頬《ほお》、うつろな瞳孔《どうこう》が息子《むすこ》の不在《ふざい》を拒絶《きょぜつ》して、無言《むごん》の悲鳴《ひめい》をあげているように見えた。



 その苦《くる》しみにせめて寄《よ》り添《そ》いたい……。



「……か、義母《かあ》さん……」



 ロジオンはようやく声《こえ》を喉《のど》の奥《おく》からしぼりだし、懸命《けんめい》に震《ふる》える手を伸《の》ばして義母《ぎぼ》をなぐさめようとした。



 だが、彼《かれ》の弱弱(よわよわ)しい細腕《ほそうで》は、恐《おそ》ろしいほどの速《はや》さで払《はら》いのけられた。



「――触《さわ》るな!汚《けが》らわしいっ!」



 鼓膜《こまく》をつんざくような、ぞっとする声でマティルデが叫《さけ》んだ。



 彼女《かのじょ》の尖《とが》った爪《つめ》が、肌《はだ》を引《ひ》っ掻《か》いたのだろう。

 一筋《ひとすじ》の赤《あか》い血《ち》の雫《しずく》がしたたって、手の甲《こう》をつたい落《お》ちていった。



「あんたを息子《むすこ》だと思《おも》ったことなど一度《いちど》もないわ!この汚《けが》れた血《ち》が……!」



 愛《あい》する息子《むすこ》を亡《な》くし、平常心《へいじょうしん》をうしなった彼女はいちじるしく心《こころ》の均衡《きんこう》を崩《くず》していた。



 感情《かんじょう》が乱《みだ》れ荒《すさ》み切《き》ったその凄惨《せいさん》なまなざしには、長《なが》い間押《あいだお》しこめていた彼女《かのじょ》の怒《いか》りが。母親《ははおや》と息子《むすこ》、皮肉《ひにく》にも二代《にだい》にわたって引《ひ》き継《つ》がれた恨《うら》み。



 その強《つよ》い憎《にく》しみがこめられていた。



「……あなたといい、あなたの母親《ははおや》といい、いつもいつも私《わたし》の大切《たいせつ》なものを奪《うば》ってゆく……」



 あわれな母親《ははおや》は激《はげ》しい怒《いか》りのなかにあって、心《こころ》の奥底《おくそこ》になにかひどく静《しず》かな……おそろしく空虚《くうきょ》な場所《ばしょ》をみつけた。



「なぜ、私《わたし》の息子《むすこ》が死《し》んで、あなたが生《い》きているのかしら……?」



 運命《うんめい》という残酷《ざんこく》な歯車《はぐるま》。

 死者《ししゃ》と生者《せいじゃ》をわけたその境界線《きょうかいせん》は、果《は》たしてなんだったのだろうか。



 理不尽《りふじん》ともいえる運命《うんめい》の筋書《すじが》きは、ときに正常《せいじょう》な人《ひと》をも狂《くる》わせ、周囲《しゅうい》を道連《みちづ》れにして狂気《きょうき》の沼《ぬま》に沈《しず》み込《こ》んでゆく。



「あなたがフォルトナの末裔《まつえい》なのでしょう?だったら今《いま》すぐあなたが死《し》になさいよ……」



 もはや目《め》の前《まえ》にいるのは、ロジオンの知《し》っていたマティルデではなかった。

 変《か》わり果《は》てた怨念《おんねん》の塊《かたまり》がそこにあるだけだった。



「運命《うんめい》は正《ただ》されなくてはいけない……。神《かみ》よ!この男《おとこ》を生贄《いけにえ》にささげます……」



 いつしか彼女《かのじょ》は懐《ふところ》に潜《ひそ》ませた短刀《たんとう》をかざし、義理《ぎり》の息子《むすこ》ににじり寄《よ》っていった。標的《ひょうてき》をみつけた狂《くる》ったけものは、もう容赦《ようしゃ》などしなかった。



「マティルデ!やめなさい!!」



 騒動《そうどう》を聞《き》きいち早く駆《か》けつけた夫《おっと》、クレメンスが決死《けっし》の形相《ぎょうそう》で二人の間《あいだ》に割《わ》って入《はい》った。



 その姿《すがた》をどこか醒《さ》めたようすで眺《なが》めると、あきれたように彼女はうめいた。



「……貴方《あなた》はまだあの女《おんな》の幻想《げんそう》にまどわされているのね。かわいそうな男《おとこ》……」



 最後《さいご》に悲哀《ひあい》のこもったまなざしで夫《おっと》を一瞥《いちべつ》すると、マティルデは再《ふたた》びロジオンに向き直《なお》った。



「お願《ねが》いだからやめてくれ……!この子《こ》に罪《つみ》はない……」



 クレメンスが身《み》を呈《てい》してロジオンをかばうと、彼女の形相《ぎょうそう》がにわかに険《けわ》しくなった。



「……罪《つみ》はない、ですって?私《わたし》にとっては罪悪《ざいあく》そのものだわ」



 瞬間《しゅんかん》、悪魔《あくま》が降《お》りてくるのがわかった。



 それはあっという間にマティルデの体内《たいない》に根付《ねつ》き、確実《かくじつ》に心《こころ》を蝕《むしば》み、口汚《くちぎたな》くののしる言葉《ことば》をくちびるからほとばしらせた。



「死《し》ね!地獄《じごく》に堕《お》ちろ!この罪人《つみびと》がっ!!」



 断頭台《だんとうだい》を思わせる刃《やいば》の切《き》っ先《さき》が、ロジオン目《め》がけて振《ふ》り下ろされた。間一髪《かんいっぱつ》、駆《か》けつけた警護《けいご》の兵士《へいし》たちに彼女は取《と》り押《お》さえられた。



 マティルデはその後自室《ごじしつ》に軟禁《なんきん》されたが、真夜中《まよなか》に一人で屋敷《やしき》を抜《ぬ》け出《だ》した。



 そして朽《く》ち果《は》てた祭壇《さいだん》で我《わ》が子《こ》の変《か》わり果《は》てた姿《すがた》と対面《たいめん》し、心底《しんそこ》から絶望《ぜつぼう》したのだろう。義母《ぎぼ》は生《い》きる気力《きりょく》をうしない廃墟《はいきょ》のあった断崖《だんがい》から身《み》を投《な》げた。



 ロジオンは身近《みじか》な二人《ふたり》の親族《しんぞく》に先立《さきだ》たれ、しばらく茫然自失《ぼうぜんじしつ》の日々(ひび)を過《す》ごした。



 彼には翠玉《すいぎょく》の首飾《くびかざ》り……。



 兄《あに》が最期《さいご》にその命《いのち》を投《な》げ打《う》って守《まも》り抜《ぬ》いた『継承者《けいしょうしゃ》の証《あかし》』だけが残《のこ》された――




        ──✩₊⁺⋆☾⋆⁺₊✧──

                      



「……ううぅああああっ!!」



 夜中《よなか》に自分《じぶん》の悲鳴《ひめい》で目《め》を覚《さ》ました。



 悪夢《あくむ》にうなされて飛《と》び起《お》きると、寝着《ねぎ》が異常《いじょう》なほど汗《あせ》でびっしょりと濡《ぬ》れていた。



 最悪《さいあく》の目覚《めざ》めだ。



 まったくもって自分《じぶん》にふさわしい……。

 呪《のろ》われたこの身《み》には。



 呼吸《こきゅう》があらく鼓動《こどう》がまだ波打《なみう》っている。

 いつまで経《た》っても覚《さ》めない夢《ゆめ》。



 絶望《ぜつぼう》という名《な》の永遠《えいえん》の檻《おり》に閉《と》じこめられているような気分《きぶん》だ。



(どうして生《い》きてるんだろう。兄《にい》さんが犠牲《ぎせい》を支払《しはら》う価値《かち》など僕《ぼく》にはないのに……)



 闇《やみ》が時刻《じこく》を支配《しはい》していた。

 自分《じぶん》が嫌《いや》になる瞬間《しゅんかん》。



 投《な》げ捨《す》てたくなる。

 なにもかも。



(僕《ぼく》はあれから二年近《にねんちか》くも逃《に》げ回《まわ》っていたのか。現実《げんじつ》から目《め》をそむけて、兄《にい》さんや義母《かあ》さんの無念《むねん》を晴《は》らすこともできずに……)



 むなしい想《おも》いがこみあげてきて、彼《かれ》は唇《くちびる》をきつく噛《か》みしめた。



(ただ、やみくもに時間《じかん》だけを消費《しょうひ》して……)



 後悔《こうかい》とともに残《のこ》る深《ふか》く刻《きざ》まれた傷跡《きずあと》。手のひらを広げて見つめるたびに、その傷痕《しょうこん》が彼をさらに打《う》ちのめす。



(今度《こんど》こそっ、兄《にい》さんの仇《かたき》は……ぜったいに僕《ぼく》が討《う》つ!)



 途方《とほう》のない暗闇《くらやみ》の中《なか》、ロジオンは震《ふる》える手《て》で拳《こぶし》をにぎり締《し》めた。




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