第8章 : 潮騒の祭りと、忍び寄る影
祭りの朝、優希は胸の奥がずっと甘く、くすぐったいような、言葉にできない高揚感に包まれていた。
幸浦の祖父の家の縁側に座り、小さな足をパタパタと揺らしながら、今か今かとその時を待っている。
昨夜のうちに、漁港に停泊している大小さまざまな漁船には、色鮮やかな万国旗や、赤や黄色の華やかな大漁旗が隙間なく飾り付けられていた。
いつもは潮の匂いとディーゼル油の匂いが漂うだけの鄙びた幸浦漁港が、まるで魔法にかけられたかのように一変し、町全体がそわそわとした熱気に浮き足立っている。
祖父の源三は、昨夜からすでに漁師仲間たちと鴎ヶ埼港の祭りの本部へ出かけていた。
例大祭において、一番の花形である「海上渡御」――神輿を船に乗せて海を渡らせる儀式――の神輿船を、源三は何十年もの間、舵取りとして担い続けているからだ。
幼い頃、優希は小田原の自宅から、父の恒一に連れられて何度かこの祭りを見物に来たことがあった。
しかし今年、あいにく急な患者の受け入れと大手術が入ってしまい、恒一は楽しみにしていた祭りに参加できなくなってしまった。
電話口で恒一は「本当にすまない、何より残念だ」と、ひどく落ち込んだ声をしていたが、優希は自分でも不思議なほど、父親の不在を残念がってはいなかった。
むしろ、心のどこかでホッとしている自分さえいた。
(だって、今年は……)
優希は、自分の着ている小さな白いシャツをギュッと握りしめる。
今年は、世界で一番かっこいいおにいちゃんが、優希を「見物人」ではなく、祭りの「当事者」として連れていってくれるのだ。
電話の向こうで恒一が少し寂しそうな気配を漂わせていたことなど、今の優希の頭からはすっかり吹き飛んでいた。
午前八時前。
「おーい、優希! 迎えにきたぞ!」
路地裏から、低く逞しい声が響いた。
ハッとして優希が立ち上がると、そこには、真新しい紺色の祭り法被に身を包み、白いねじり鉢巻をきりりと締めた隆が立っていた。
小学生とは思えない大柄な体躯に法被がよく似合っていて、優希の心臓がトクン、と小さく跳ねる。
隆は縁側に近づくと、持ってきた子供用の小さな法被を優希の肩にふわりとかけ、手際よく前を合わせてくれた。
「よし、ぴったりだな。行こうぜ、優希」
そう言って、隆が大きな、節くれだった手のひらを差し出してくる。
優希は一瞬、気恥ずかしさから遠慮がちに細い指先を差し出したが、隆はそれを待つことなく、優希の手を大きな手のひらで包み込み、グイッと力強く引っ張っていった。
「気をつけていくんだよ、二人とも」
縁側から、祖母の幸恵が目を細め、本当にほほえましそうに二人を見送っていた。
隆の背中に引かれて歩く優希の足取りは、まるで雲の上を歩いているかのように軽やかだった。
子供神輿が繰り出す、地区の子供会の詰め所へ到着すると、あたりはすでに同じ法被を着た大勢の子供たちと、忙しそうに立ち働く親たちでごった返していた。
隆は集まった子供たちの中心へ進み出ると、優希の手を引いたまま、大きな声で言った。
「みんな、ちょっと聞いてくれ! こいつは一ノ瀬優希君。幸浦の源さんの孫だ。今年の祭りは俺たちと一緒に回るから、よろしくな!」
その瞬間、集まっていた高学年の女子たちの間から、一斉に黄色い歓声が上がった。
「わぁっ、カワイイー!」
「ねえ、本当に男の子? お人形さんみたい!」
優希の都会育ちの白い肌と、端正で大きな瞳は、荒々しい漁師町の子供たちの中でひときわ目を引いた。
隆は子供会でも誰もが認める圧倒的なリーダーだった。彼が「俺たちの仲間だ」と宣言したことで、優希をよそ者扱いしたり、からかったりする子供は誰一人としていなかった。
「ほら、優希。ここ持って、一緒に担ぐぞ!」
「うん!」
太鼓のドンドンという重低音と、ピーヒャララと響く高音の笛の音。子供神輿が動き出すと、優希は隆のすぐ隣にぴったりとくっついて歩いた。
「ワッショイ! ワッショイ!」
勇壮に声を張り上げ、汗を輝かせながら神輿を担ぐ隆の姿を間近で見つめながら、優希はバケツの水を神輿にかけたり、一緒に声を張り上げたりした。
ただの「見物客」だった自分が、今、この熱気あふれる漁師町の真ん中で、隆と同じ空気を吸って生きている。その事実だけで、優希は頭がクラクラするほど幸せだった。
神輿が巡行を終え、飾り船が接岸された岸壁の近くへと差し掛かると、一段と激しいお囃子の音が聞こえてきた。この地域に古くから伝わる独特の「鴎ヶ埼囃子」だ。
優希が音のする方へ目をやると、汗だくになりながらバチを振るう航の姿があった。
ドドン! カッカッ、ドドン!
腹の底までズンと響く、重厚で乱れのない太鼓の音。いつもの静かな語り口とは打って変わって、真剣そのものの鋭い眼差しで大太鼓を叩き伏せる航の姿は、息をのむほど格好良かった。
そこへ、路地の向こうから「おい! 定坊ーっ!」と自治会長の大声が響いた。
「はいっ、ただいま!」
叫ぶやいなや、定夫が脱兎の如く人混みを押し分けて走っていく。冷やしキュウリの氷を運んだり、大人たちの酒の補給に駆け回ったりと、八面六臂の活躍だ。
「よし、冷えたジュース持ってきたぞー!」「おうっ、さすが定坊! 頼りになるなぁ!」
大人たちから頭をぐしゃぐしゃと撫でられ、定夫は照れくさそうにニシシと笑っている。定夫のこのフットワークの軽さと愛嬌もまた、この町には欠かせない名物なのだった。
昼時になると、彼らは「海風食堂」へと戻った。
子供会で配られた仕出しの弁当を、食堂の片隅のテーブルで隆と並んで食べる。
店には休憩中の中学生や若者たちも次々と入ってきたが、誰もが隆の姿を見ると「おう、隆、お疲れ!」「午後も頼むぞ」と、一目置いた様子で挨拶をしていく。
そのたびに、優希はまるで自分が褒められたかのように、誇らしい気持ちで胸を張った。
ガラガラと戸が開き、役目を終えた法被姿の定夫と航が、入ってきた。
「よう、お疲れ」隆が声をかける。
「いやぁ、毎年のことだけどさ、走り回って足がパンパンだよ」
定夫はそう言いながらも、手にした二つの弁当袋をテーブルにドンと置いた。
「地区のおばちゃんたちに気に入られちゃってさ、弁当二つももらったんだ。隆、少し食べる?」
航も、背中のリュックから二つの弁当を取り出して見せた。大太鼓を叩き切った腕が少し震えている。
「俺も二つもらってきた。祭り太鼓の後継者だって褒められた。お囃子の櫓の準備を手伝ったお礼だって」
隆はガハハと豪快に笑った。
「なんだよそれ! 贅沢だな。よし、午後へのエネルギー補給だ、腹いっぱい食おうぜ!」
賑やかで、気取らない仲間たちの会話。優希は隆たちの旺盛な食欲に驚きながらも、分けてもらったおかずを、本当に美味しいと感じながら口に運んだ。
◇
午後の漁師町は、照り返す太陽の熱と、大人たちの熱気でさらに温度を上げていた。
午後からは隆が、優希のために祭りの境内や屋台が並ぶ通りを案内してくれた。
もの凄い人混みの中、隆は「優希、はぐれるなよ」と言って、大きな手で優希の手をずっと引き続けてくれた。
向こうから、酒の匂いをプンプンとさせた大人たちの猛烈な大人神輿が「ソイヤ! ソイヤ!」と地鳴りのような声をあげて迫ってくると、
隆は咄嗟に「危ない!」と言って、優希の華奢な肩をその大きな腕で抱き寄せ、路地裏の壁際へと庇ってくれた。
隆の胸に顔が押し付けられ、優希の鼻腔に、夏の汗の匂いと、法被の糊の匂いが飛び込んでくる。
心臓がうるさいほどに脈打って、優希は息をすることさえ忘れてしまいそうだった。
歩き疲れて優希が足を止めると、隆はすぐに気づいて、冷たいラムネ瓶を買ってくれた。
トントン、とビー玉を押し下げ、シュワァと弾ける炭酸の泡。
「ほら、あれ食べるか? チョコバナナとか、綿菓子とか」
隆にとっては、ただ年下の可愛い弟分の面倒を見ているつもりなのだろう。
しかし、優希にとっては、まるでおとぎ話の中に迷い込んだかのような、最高に特別で、最高に幸せな時間だった。
そして夕方。祭りのクライマックスである「海上渡御」の時間がやってきた。
海岸沿いの船揚場には、何千人もの見物客が押し寄せ、黒山の人だかりができていた。
海の上では、色とりどりの幕や提灯で華やかに飾られた「小早船」や、神輿を載せた「神輿船」が、何十人もの若者が漕ぐ「櫂伝馬」に曳かれて、夏の夕日を浴びてキラキラと輝く海原を滑るように渡っていく。
「うわぁ……凄い。でも、人が多すぎて何も見えない……」
優希が背伸びをしても、大人の背中の壁に阻まれて、海の様子は全く見えなかった。
その時だった。
「よし、じゃあ特等席だ。掴まれ!」
隆が優希の前にしゃがみ込み、その細い両足を自分の両肩へと担ぎ上げた。
「えっ……!? わっ!」
グン、と視界が跳ね上がる。
隆がその強靭な足腰で軽々と立ち上がると、優希の身体は一気に大人の頭一つ分、高いところへと持ち上げられた。
優希は驚いて、隆の短い黒髪を両手でギュッと掴んだ。隆の首筋の逞しい筋肉の動きが、優希の太ももを通じてダイレクトに伝わってくる。
今まで、優希にとっての隆は、いつも「下から見上げる」大きな存在だった。
しかし今、隆の肩の上から見渡した世界は、全く違うものだった。
遮るもののない、黄金色に染まる相模湾の広がり。
海原を勇壮に進む飾り船の群れと、激しく飛び散る白い水飛沫。
大漁旗が一斉に風を受ける。
そして、自分を見上げて歓声をあげる、無数の人々の波。
世界が、一瞬で変わった。
小田原の大きな家でも、いつも忙しい父親にこんな風に肩車などされたことは一度もなかった。
「おにいちゃん……! すごい! 海が、船が、全部見えるよ!」
優希は、これまでに一度も出したことのないような、高くて黄色い声をあげて歓声を響かせた。
夏の夕陽に照らされた海。祭り囃子。黄金色の波。そのすべてよりも、優希の心に焼き付いたのは、自分を肩車して笑っている隆の横顔だった。
◇
歴史ある船祭りも、盆踊りを残すばかりとなり、夜の帳と共にどこか物悲しい空気へと移り変わりつつあった。
「海風食堂」の奥のテーブル。優希は隆の隣で、店の賄いである新鮮な海鮮丼を小鉢で食べていた。
そこへ、ガラガラと引き戸を開けて浴衣姿の夏帆が入ってきた。
紺地に大輪の向日葵が描かれた浴衣は、およそ清楚とは言い難い着こなしだったが、彼女の抜群のプロポーションを際立たせており、店内にいた地元の男の子たちの視線を一瞬で釘付けにした。
「ああ、やっと解放されたぁ!」
夏帆は額の汗を拭うように、手でパタパタと顔を仰いだ。
「祭りの主役が、神社にいなくていいんですか?」
隆があきれたように言うと、夏帆はパイプ椅子を引いてどっかりと座った。
「今年はバイトの綺麗どころの女子大生もいるし、うちはもうお役御免。神輿も無事に収まったしね」
「俺たちも祝詞を聞いていましたよ」と隆が微笑む。
「境内でも優希ちゃんを肩車までしてさ、おにいちゃん大活躍だったよね」
夏帆が少し皮肉っぽく言うと、隆は照れくさそうに頭をかいた。
「えっ、見てました? こいつちっちゃいから、人混みで見えないだろうと思って」
「でも、夏帆さんの奉納の舞、相変わらず綺麗でしたよ。見惚れました」
隆が何気なく放ったその言葉に、夏帆は「そういうこと、サラッと言うし……」と、少し顔を赤くして視線を逸らした。
そして、すがるように隆の腕を取った。
「ねえ、みんなで盆踊り行こうよ。お姉さん一人じゃ嫌だしさぁ」
「あ、俺、漁協の組合長から誘われてるんで」と定夫が立ち上がる。
「俺も、同級生と約束しているんで」と航も続いた。
「夏帆さんと行きたい人なんていくらでもいるじゃないですか」と隆が言うが、夏帆は引かなかった。
「隆ぃ、行こうよ。優希ちゃんもついてきていいからさぁ」
夏帆は隆の手を引き、しっかりと自分の豊かな胸元に押し付けるようにして甘えた。
その瞬間、優希の目が険しくなった。胸の奥が、冷たい氷で締め付けられるように痛む。
「じゃあ、優希、行くか」
隆が立ち上がったが、優希は首を縦に振らなかった。先ほどまで隆の肩の上で感じていた最高の幸せが、一瞬でどこかへ吹き飛んでいく。
夜店の灯りが並ぶ通り。
前を歩く浴衣姿の夏帆と隆は、肩を寄せ合い、笑い合って本当に楽しそうに見えた。
もう人混みの中でも、隆は優希の手を引いてはくれなかった。
二人の背中を見つめているうちに、優希の視界は涙で激しく滲み始めた。
胸の痛みに耐えかね、優希はそのまま後ろを向くと、雑踏の中をがむしゃらに駆け出していった。
隆は夏帆とリンゴ飴を食べながら夜店を歩いていた。
ハッカパイプの屋台の前に差し掛かったとき、隆は自分が小さい頃、父親の達也にこれを買ってもらった記憶を思い出した。
「優希、ハッカパイプ買ってやろうか?」
笑顔で振り返った隆だったが、そこに優希の姿はなかった。
「え……?」
「眠くなって帰ったんじゃないの? 幸浦の家に」と夏帆が不思議そうに言う。
「いや、あいつはそんな奴じゃない。……ちょっと心配だから、探してきます!」
「ちょっとぉ! 女の子を一人残して探しに行くわけ!? 普通!」
夏帆の抗議の声も耳に入らず、隆は祭りの法被をなびかせて、夜の雑踏へと駆け出していった。
◇
その頃、定夫は静まり返った岸壁の上にいた。
漁業組合のおじさんたちと並び、今年も無事に祭りを終えられた感謝を込めて、真っ暗な夜の海に向かって「パン、パン」と静かに柏手を打つ。
その一瞬だった。遙か笠島の沖合の海が、ぼうっと青白く光った。
祭りが終わる夜、笠島沖の海が妖しく光る――それはこの町でずっと続いている、当たり前の自然現象として片付けられていることだった。
「ああ、これで来年も竜神様が守ってくれるずら」
漁師たちは安心したように、再び暗い海に向かって深く頭を下げた。
しかし、定夫だけは見ていた。光が奔ったその瞬間、波間から黒い一本の柱のようなものが、ニョキリと突き出したのを、確かに見ていた。
◇
一方、大急ぎで幸浦の一ノ瀬の実家へ駆けつけたのは、小田原市民病院で手術を終えたばかりの恒一だった。
愛車のBMWから降りた恒一に、母親の幸恵が声をかける。
「ちょうどよかった。そろそろお父さん、出来上がっている頃だから、港の祭り本部まで迎えに行ってきて。優希も一緒にいると思うから」
恒一はせめて盆踊りくらいは優希と見ようと、再び車を走らせた。
港の祭り本部では、祭りを終えた漁師たちがすっかり出来上がって大騒ぎしていた。
恒一の姿を認めると、「これはこれは、一ノ瀬先生」と、誰もが敬意を込めて道をあける。
車座の中心には、いつも通り源三がドスンと座っていた。
恒一が子供の頃から何一つ変わらない光景に、恒一は今も昔も、父が誇らしかった。
「よう、恒一、やっと来たか。こっちへ来て飲め」
「ごめん、父さん。どうしても外せない急患の手術があって……」
恒一が一礼すると、源三は上機嫌に笑った。
「できた息子を持って、おらは嬉しいずらよ。漁師はおらの代で終わっても、後悔などないずら」
「父さん、そんなこと言わないで……。で、優希は?」
「優希なら、隆と一緒だから安心ずらよ」
「隆って、あの食堂の……」
恒一の脳裏に、同年代である早川達也の長身の精悍な姿が浮かぶ。
最近船長になったという彼を思い、源三は本当はああいう、海を継ぐ息子が欲しかったのかもしれないな、と恒一は少し寂しく思った。
だが、「まあ、隆君なら大丈夫か」と納得し、優希の姿を探しに盆踊り会場へと向かった。
◇
優希は夜店の賑やかな光から遠く離れ、一人でべそをかきながら、暗い夜道をどこへ行くともなく歩いていた。
なぜこんなに悲しくて、涙が止まらないのか、自分でもよく分からなかった。ただ、隆の隣に別の誰かがいることが、耐え難かった。
気がつくと、足はいつもの白鴎丸がある高台の丘へと向かっていた。
(おにいちゃんは……そのうち、きっとボクを探しに来てくれるよね……)
そう信じたかった。
優希は知らなかった。
祭りの中、町中が浮かれているその闇の中で、古物商の松崎修一だけが、昏い、濁った目で自分の後ろ姿をじっと見つめていたことを。
◇
祭りの喧騒から完全に切り離されたように、白鴎丸は静まり返っていた。
見上げる夜空には、満天の夏の星々が澄んだ光を放っている。
優希は誰もいない暗い船倉に降りると、古いランタンに火を点け、袖でゴシゴシと涙を拭った。
白鴎丸で待っていれば、おにいちゃんは絶対にここに来てくれる。なぜか確信があった。
今日のお神輿、肩車から見下ろした広い世界、甘いラムネ、繋いだ手の温もり。そのすべてが嬉しくて、愛おしかった。
「今日のお祭りのお礼、ちゃんとまだ言ってないもん……」
優希が小さく呟いた、その時だった。
白鴎丸のすぐ外の草むらを、ザッ……ザッ……と、重くゆっくりと踏みしめるような足音が近づいてきた。
船体の木目の隙間から、外の光を遮るように「黒い人影」が立ち塞がる。
トントン、と乾いた音が木扉を叩いた。
「おにいちゃん!」
優希の顔がぱぁっと明るくなり、甲板への木扉を勢いよく開けた。
しかし、そこにいたのは隆ではなかった。
「……誰か、いるかい?」
穏やかで、聞き覚えのある、しかし今の優希にとっては心臓が凍りつくほど恐ろしい声――忘れもしない、古物商・松崎修一の声だった。
ランタンの淡いオレンジ色の光の中に、痩せた修一のシルエットが浮かび上がっている。
その手には、なぜか冷たいジュースの缶が入ったビニール袋が下げられていた。
その顔には、いつも近所の子供たちに向けるような、優しげな笑顔が不気味に張り付いている。
「やっぱりここにいたね。こんな祭りの夜に、君一人なのかい? 隆君は」
修一の目は笑っているようで、その奥は全く笑っていなかった。
獲物を狙う猛禽類のような鋭い光が一瞬、優希の顔を射抜く。
「これ、差し入れにと思ってね」
手渡されたビニール袋を持つ修一の指先が、わずかに震えているのを優希は見逃さなかった。背中に冷たい汗が伝う。
「ありがとうございます……」
「いいんだよ。それにしても、ずいぶん古い船なんだな……」
修一は品定めをするような目で、ゆっくりと船倉へ降りてきた。
「……ああ、そうそう。笠島の海の伝承について、色々と調べているんだって? 神主さんから聞いたよ」
部屋の空気が一気に張り詰める。
「あそこの海はね、本当に危険なんだ。昔から多くの人間が、あそこで命を落としたりしてきた。……子供たちが遊び半分で近づいていい場所じゃない。分かったね?」
「はい。ただの夏休みの自由研究ですから」
優希は逃げずに、真っ直ぐに修一の目を凝視して答えた。
修一はしばらく無言で優希の目を見つめ返していたが、やがてフッと、笑みを浮かべた。
「そうかい。ならいいんだ」
修一が一歩、距離を詰める。優希は思わず後ずさりした。背中が船壁に当たる。
ここには誰もいない。大声をあげても、祭りの喧騒にかき消されて誰にも届かない。
「なにもひどいことはしないよ。ちょっと、教えてくれるだけでいいんだ……」
修一が、ひどく掠れた優しい声で問いかけてきた、その瞬間だった。
「優希――っ!! いるのか!?」
甲板の扉を叩き割るような勢いで、大声が響いた。隆だった。
「おにいちゃん……!」
隆は息を激しく切らし、飛び込むように船倉へ入ってきた。
そして、修一の姿を認めると、瞬時に優希を背中に庇うようにして修一との間に立ちはだかった。
揺れるランタンの光が、三人の影を不気味に揺らす。
「修一さん……」隆の目が鋭く細まる。
「隆君か。ちょうどいい、君と話がしたかった。……もう、笠島の宝のことは知っているな?」
修一は隠そうともせず、本性を剥き出しにして言った。
「調べました。ある程度は、わかっています」
「「洞窟は見つかったのかい?」
優希「……。」
「なるほど。まだ見つけてはいないようだ。」
「どうだ、私と組んで宝を探さないか?」
修一の誘いに、隆は一秒の躊躇もなく言い放った。
「断る」
「どうして? 悪い話じゃないはずだ」
隆は修一を真っ直ぐに見据え、毅然とした声で答えた。
「あんたと組んだら、この海が泣く」
修一は一瞬呆気にとられたようだったが、やがて、くくくと低く笑った。
「……子供らしい、青臭い答えだ」
修一はそれ以上追及せず、ゆっくりと踵を返して階段を上り始めた。
「今夜は、もう遅い。近いうちに、店に来ないか。お互い、公平に分かっていることを教え合おうじゃないか」
それだけを言い残し、暗闇の中へと消えていった。
優希は、修一の背中を見送りながら確信していた。これは、彼からの明確な「宣戦布告」なのだと。
修一の足音が完全に消えると、隆はすぐに優希に向き直り、その小さく冷え切った両手をぎゅっと包み込んだ。
「探したぞ……! すごく心配したんだからな」
その温もりに触れた瞬間、優希の目から一気に涙がこぼれ落ちた。
「ごめんなさい……おにいちゃん」
「無事ならそれでいい。さあ、幸浦まで送っていく。みんな心配してるぞ」
◇
隆が源三の家に優希を送り届けたときには、夜の十時を回っていた。
「まあまあ優希、随分遅かったじゃないの!」
玄関から心配そうに幸恵が出てくる。
奥では源三の高いびきが聞こえていたが、そこへ、いかにも知的な雰囲気を纏った立派な男性が、血相を変えて飛び出してきた。
「優希!」
「パパ……!」
「えっ、お父さん……!?」隆が驚いて目を丸くする。
「こんな時間まで優希君をお返しできず、申し訳ありませんでした」
隆は一歩下がり、素直に深く頭を下げた。
「ボクがはぐれちゃったのが悪いんだ。おにいちゃんは一生懸命探してくれたんだよ」
恒一は一瞬、厳格な父親の表情を見せたが、隆の誠実な態度と優希の無事な姿を見て、すぐに表情を和らげた。
「君が隆君だね。優希が随分世話になったようだ、ありがとう。今日は僕も休みを取るつもりだったんだ
が、急な手術が入ってしまってね。君が代わりに面倒を見てくれて、本当に助かったよ」
優希は隆のシャツの裾をそっと握り、甘えるような上目遣いで隆を見つめた。
「とっても、とっても楽しかった。おにいちゃん、ありがとう」
「じゃあ、またな、優希」
隆もいつもの屈託のない笑顔を見せ、「おやすみなさい」と一礼して夜道を帰っていった。
その様子を後ろから見ていた恒一は、どこか複雑な、少し寂しい感情を抱いていた。
優希が、あんな風に誰かに甘え、感情を露わにするような顔をするようになったのか、と。
夜の潮風が、祭りの終わりの静寂を運んでくる中、一ノ瀬家の玄関には、新しい季節の訪れを予感させる小さな変化が静かに満ちていた。




