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第7章 : 笠島の海へ

翌朝、相模湾はどこまでも突き抜けるような青空に覆われていた。


朝7時。漁港の空気は、まだ朝露の冷たさをわずかに残しながらも、すでにぎらぎらとした真夏の太陽によって急速に熱を帯びつつある。


幸浦漁港のコンクリートの岸壁に、ディーゼルエンジンの力強い鼓動を響かせて白く輝く一隻の漁船が係留されていた。


源三の愛船「大源丸だいげんまる」だ。船体は小ぶりながらも、長年の荒波に鍛え上げられた頑強な木造船で、船首には大漁旗を掲げるための太い竹竿が力強くそびえ立っている。


「おーう、遅かったじゃねえか。ガキども、乗るならさっさと乗るずら!」


舵窓から顔を出した源三が、ねじり鉢巻の奥の鋭い目を細めて怒鳴った。


岸壁には、隆を先頭に、それぞれのリュックを背負った四人が立っていた。航のリュックからは、昨晩遅くまでかかって防水加工を施した手製のライトの頭が、ビニールテープの黒い光を放ちながら覗いている。


「源さん、よろしくお願いします!」


隆が声を張り上げ、揺れる船べりをまたいで甲板へと飛び移った。定夫と航がそれに続き、最後に少し腰が引けている優希の手を、隆がしっかりと握って引き上げた。


「優希、足元に気をつけろよ。ロープを踏むな」


「うん……ありがとう、おにいちゃん」


優希は隆の大きな手にすがりながら、無事に甲板へと着地した。


その足元で、船底から伝わるディーゼルエンジンの重低音の振動が、靴底を通じて全身へと伝わってくる。


「よし、舫い(もやい)を解くずら!」


源三の鋭い号令とともに、隆と定夫が手際よく岸壁のビットから太いロープを外し、甲板へと投げ入れた。


ゴトゴトゴト……と、エンジンの回転数が一気に上がる。大源丸はゆっくりと、しかし確かな力強さで、コンクリートの岸壁を離れていった。



防波堤を回り込み、外洋へと出た瞬間、世界は一変した。


「うおおっ……!」


定夫が船首のブルワーク(手すり)にしがみつきながら、歓声を上げた。


遮るもののない、圧倒的な相模湾の広がりが眼前に押し寄せる。海の色は、港の中の濁った緑色から、息をのむほどに深く、冷たいコバルトブルー――いわゆる「黒潮」の色へと変わっていた。


大源丸は、激しくうねる波頭を鋭い船首で切り裂きながら、猛烈なスピードで突き進む。


ザッパーン! と、船首が波を叩くたびに、白く砕けた大きな波飛沫が霧のように甲板へと降り注いだ。


風が、全員の髪を激しくなびかせる。その風は、どこまでも塩辛く、どこまでも熱く、夏の海のエネルギーに満ちあふれていた。


「すっげえ……! 気持ちいい!」


隆は水飛沫を顔に浴びながら、目を細めて仁王立ちになった。


すぐ隣では、優希が風で飛ばされそうになる麦わら帽子を両手で必死に押さえながら、見たこともないような興奮した表情で海を見つめている。


優希の白い頬には、冷たい海水が小さな粒となっていくつも光っていた。


船の舵取り席では、源三が太い腕で舵輪を握り、真っ直ぐに前方を見つめている。


その背中は、海と戦い、海と共に生きてきた男にしか出せない、絶対的な安心感を漂わせていた。


背後を振り返れば、急峻な崖にへばりつくようにして建ち並ぶ幸浦の家々が、みるみるうちに小さくなっていく。


いつもは上から見下ろしている町が、今は海という巨大な鏡に映された、小さなおもちゃの国のようだった。


「隆! 航! 見てみろよ、初島だ」


定夫がちぎれんばかりに右手を振り、前方を指差した。


やがて進行方向に、白い牙のように波間にそびえ立つ三ツ石の岩礁が見えてきた。


その手前、西側の陸地は、荒々しい地殻変動の歴史を物語るように、ギリギリまで切り立った崖が海へと垂直に落ち込んでいる。


その崖の根元に、複雑に入り組んだ岩礁地帯が見えてきたあたりで、大源丸のディーゼル音が不意に低くなった。


源三がエンジンの回転数を落とし、船はうねりに乗るようにして、ゆっくりと進み始める。


操舵室から身を乗り出した源三が、黙って太い指で前方の一点を指さした。


「……うわ」定夫が息をのんだ。


そこいらの海は、それまで走ってきたコバルトブルーの海とは、明らかに「色」が違っていた。


ただ青いのではない。吸い込まれそうなほどに深く、もはや黒と表現するほかない、おぞましいほどの濃い紺碧。


その不気味な黒い海面の上に、白い泡を噛んだ巨大な渦が、生き物のようにうごめいていた。


渦は一つではなかった。


右で巻いた渦が消えかけたかと思えば、左から新たな渦が生まれ、それらが複雑に絡み合いながら、不規則に形を変えていく。


その光景は、まるで海底に潜む巨大な何かが、海水を激しくかき混ぜて呼吸しているかのようだった。


「ここいらはな、『どんぶか』って言って、急激に深くなってるずら。海の色が他と違うのがわかるずら?」


源三が舵を握り直しながら、低い声で言った。


「確かに、これは底が見えない……」


隆は船べりから黒い海原を覗き込み、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


「鴎ヶ埼漁港の組合長も言っていました。あそこらの海は底がわからないって」


「おじいちゃん!」


優希が、吹き付ける潮風に負けないように小さな声を張り上げた。


「あの渦、すぐに形が変わるんだね。あれが止まることは、絶対にないのかな?」


源三はしばらく渦を見つめていたが、静かに首を振った。


「漁師はな、『潮が止まる』とは言わねぇ。『憩流けいりゅう』って呼ぶずら。海がな、ほんの少しだけ息をつく時間ずらよ」


「けいりゅう……」


隆はその言葉を口の中で繰り返した。


「ここでも、その『憩流』はあるのかな」


「おらぁ見たことはねぇずら」源三の顔に、深い陰影が落ちる。


「もう五十年以上この海に出ているが、あそこらの潮だけはさっぱり読めねぇ。ただ……昔、おらのじっさまが、そんな話をしていたかもしれんずらがな」


すかさず定夫が、身を乗り出すようにして尋ねた。


「あの、源さんのおじいさんが、昔ここで遊覧船の船長をやられていたっていうのは本当ですか?」


「おらがまだ子供の頃の話ずらよ」


源三の目が、一瞬だけ遠い記憶をなぞるように和らいだ。


「何度か乗せてもらったことを覚えてるずら。その頃はな、今よりもっと近くまで船を寄せて、渦潮を見物できたって聞いたことがあるずら」


「これじゃ、海から見てもさっぱり分からないな……」


隆は目を凝らして岸壁を見つめたが、口元を歪めた。


どこまで行っても同じような、剥き出しの黒い岩肌が続く切り立った崖ばかりだ。これでは、正確な目印でもない限り、どこにあの「消えた岩棚」があり、洞窟の入り口が隠されているのか、見当もつかない。


「……多分、あのあたりだと思う」


不意に、優希が細い指先で、崖の一角を指さした。


そこだけ、複雑な岩の凹凸がなく、わずかに直線的な影を作っている崖の壁面があった。昭和二十八年の地図が示す、岩棚が根こそぎ崩落した跡地。


しかし、その直前では、狂ったように渦巻く白波が不気味に吠え続けている。


今の大源丸の大きさであっても、一歩近づけばたちまち渦に引きずり込まれ、深海深く沈むことになることは火を見るより明らかだった。


近づくことなど、不可能に近かった。


四人は、言葉を失ったまま、漆黒の海底から湧き上がるような渦と白波をただ見つめていた。


ぎらぎらとした真夏の太陽がこれほど頭上で輝いているというのに、その海域だけは、まるで光を拒絶しているかのように、重苦しく黒い空気が沈み込んでいる。


源三はゆっくりと船首を巡らせると、操舵室から隆に向かって、ドスの利いた声で言った。


「隆。気が済んだずらか? ……くれぐれも、優希を連れてこんな場所に近づいたりするんじゃねえぞ。ここは、人間の来ちゃならねえ場所ずら」


「……分かってます。源さん、ありがとうございました」


隆が硬い表情で頷くと、源三は満足したように一つ鼻を鳴らし、エンジンの回転数を上げた。


大源丸は力強く波を蹴り、黒い海域を離れていく。


遠ざかる渦潮を見つめながら、隆はポケットの中の「ダカット金貨」をそっと握りしめた。


近づく術のない、龍の眠る入江。


だが、源三の言った言葉が、隆の頭の中で何度も何度もリフレインしていた。


海が息をつく時間。本当にそんな時間があるなら……


その時だけ、龍は眠るのかもしれない。海が、ほんの少しだけ息をつく時間。


子供たちの熱い冒険心は、その圧倒的な自然の脅威を前にしてもなお、決して消え去ることはなかった。



夜。


鴎ヶ埼の駅前から伸びる商店街から、ひとつ奥に入った路地裏に、古物商「汐見堂」はひっそりと佇んでいた。


折しも、御船神社の例大祭が近い。


遠くの公民館からだろうか、夜の湿った空気を震わせて、古い歴史を持つ独特の鴎ヶ埼囃子を練習する太鼓と笛の音が微かに聞こえてくる。


だが、そのどこか浮き足立った町の賑やかさとは裏腹に、閉ざされた店の中は不気味なほど静まり返っていた。


薄暗い居間の奥。壁一面にピン留めされた、色褪せた相模湾の古地図の前で、店主の松崎修一は一人、食い入るように紙面を見つめていた。


老眼鏡の奥の瞳が、狂おしい光を放っている。


あの日、早川隆が店に持ち込んできたあの薄い金属片。それを一目見た瞬間から、修一の心臓は激しく鐘を打ち鳴らし続けていた。


三十年の歳月――自分の若さも、情熱も、すべてを注ぎ込んで探し求めてきたあの宝が、とうとう歴史の砂底から姿を現したのだと確信した。


あれは間違いない。江戸時代の密貿易の代金として支払われた、純度の高いオランダの「ダカット金貨」だ。


隠し場所を探し続けて三十年近く。修一はついに、御船神社に秘匿されていた昭和二十年代の古い写真へと辿り着いた。


あの白黒の印画紙には、今や崩落して消え去った天然の岩棚と、その奥に口を開ける洞窟がはっきりと映り込んでいた。


遠景に見える三ツ石との位置関係を古地図と照らし合わせれば、所在地は完全に特定できた。


鴎ヶ埼半島の先端付近、西側の切り立った岸壁の根元だ。


修一はこれまで、何度も自分の小さなボートを出してその場所へ近づこうと試みた。


しかし、あの周辺の「どん深」の海底から沸き返るように湧き出る強烈な渦潮が、文字通り鉄壁の防壁となって船を拒み続けた。


あの荒れ狂う渦潮こそが、古の伝承にある「龍」の正体なのだ。


昔の漁師たちが神罰と恐れ、近づかなかったのも無理はない。


「だが……あのガキどもは、一体どこまでこの事実に近づいている?」


修一は低く呟き、煙草に火をつけた。


早川隆を筆頭とする、白鴎丸の悪ガキども。特に修一の胸をざわつかせたのは、あの一ノ瀬の小柄な子ども――優希だった。


あの、かつて「鴎ヶ埼町始まって以来の秀才」と謳われた一ノ瀬恒一の血を引く子ども。


修一の脳裏に、遠い昔の記憶が蘇る。自分が高校生だった頃、恒一はちょうど今の優希くらいの年齢だった。


漁師の源三の息子とは思えないほど頭の切れる痩せっぽちの少年で、恒一は当時、修一の話を少し聞いただけで、瞬時に宝が海中洞窟に隠されていることを見抜いてみせたのだ。


だが、恒一は古の宝を追うことをしなかった。


彼は自分自身の未来を「宝」にすべく、東京の名門医大へと進学し、この狭い漁師町を捨てて堂々たるエリートの人生を歩んでいった。


優希を一目見たとき、修一は一瞬、子供の頃の恒一が時間を超えて戻ってきたのかと錯覚したほどだ。


優希のほうがさらに小柄で、華奢ではあったが、あの射抜くような鋭い眼差しは父親の生き写しだった。


隆の父親の達也は、海の申し子のような少年だった。何度も、海に潜って洞窟を探してくれた。大柄で逞しかった。


隆が大柄なのは、父親似なのだろう。


恒一も、世界に広がる海を目指して、この町から巣立っていった。かつて町を去っていった父親達と同じ「未来へ進む力」を、あの子供達からも感じないわけにはいかなかった。


「……俺だって」


修一の指先が、古地図の長崎と相模湾を結ぶ航路の線をなぞった。


自分だって、かつてはこの町きっての秀才と呼ばれた時期があったのだ。


もしあの時、父親が急死しなければ。家庭の事情で大学を中退せざるを得なくならなければ。


あのまま海洋考古学の勉強を続けていたら、今頃はどこかの大学の教授にでもなって、歴史の発見者として喝采を浴びていたはずなのだ。


修一は激しく頭を振り、その惨めな妄想を打ち消した。


今さら過去を悔やんでも始まらない。あの海に眠る黄金こそが、今の自分の人生そのものだ。


他人に左右され、へつらうことのない、自分だけの価値ある人生を証明するための最後の切り札なのだ。


いつの間にか、遠くのお囃子は止んでいた。


室内に忍び込んでくる微かな虫の音を聞くともなしに聞きながら、修一は、錆びついた声を絞り出すようにして、古いわらべ歌を低く口ずさんだ。


りゅうが ねむるよ かさしまに


きんを ひろえば かえれない


ひが しずむころは ふりむくな


りゅうが めをあけ なをよぶぞ


そこから先は、この町で修一だけが知っている「後半の唄」だった。


かつて古物商だった父親から、死に際に密かに聞かされた歌詞だ。


つきのひかりの そのよるに


りゅうはくちあけ ねむりおつ


きんのみちが ひらくとき


きんをひろうは そのときぞ


「龍」とは渦潮のことだ。この歌は、江戸時代の密貿易商たちが宝の隠し場所と、そこへ至る条件を書き

 残した「暗号」に他ならない。


だが、修一には、肝心な後半の意味が完全には理解できていなかった。


龍が口を開けて眠り落ちる? 金の道が開く?


渦潮が消え去り、洞窟への航路が現れる瞬間が、本当にあるというのか。


それがいつなのかが、どうしても分からない。


修一は古地図から目を離し、闇の深い窓の外を見つめた。


「あいつら……一体、どこまで知っている……」


その呟きは、夜の静寂の中にぽつりと落ちて、そのまま消えた。


子供たちへの焦燥感と、三十年越しの執念が、暗い部屋の中で渦潮より淀んで、どろりと渦巻いていた。


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