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第6章: 辿り着けない幻の洞窟

次の日の午前中。


町の郷土資料館の重いガラス扉が開くやいなや、優希はひとりで中へ入っていった。


館内はまだ、開館直後のシンとした冷気に満ちている。


優希は、奥の展示室の暗がりに鎮座している首長竜「フタバスズキリュウ」の巨大な頭部化石の前に来ると、その剥き出しの牙が怖くて、すっと視線を泳がせて素早く通り過ぎた。


優希が足を止めたのは、入り口付近の壁に掛けられた、あのセピア色の大きなパネル――「昭和二十八年の航空写真」の前だった。


優希は小さな背中を丸めるようにして、白黒の不鮮明な海岸線をじっと見つめ続けた。


そのとき、資料館のすぐ隣にある町役場の出口から、一人の少女が出てきた。


白いポロシャツにデニムのミニスカート姿。手形や書類の入った茶封筒を手にした夏帆だった。


実家の神社の「お使い」で役場に来ていたのだろう。


夏帆は資料館の入り口付近に、ぽつんと立っている優希の小さな姿を見つけると、面白そうな笑みを浮かべて近づいてきた。


「おはよう、優希ちゃん。今日は、隆おにいちゃんと一緒じゃないんだ?」


優希は肩をびくっと震わせて振り返り、夏帆の姿を見ると、丁寧にお辞儀をした。


「あっ、おはようございます。……もうじき、みんなで来ると思います。ボク、昨日から頭の中がこの航空写真でいっぱいで、早めに来ました」


「ふーん、熱心だねぇ」


夏帆がからかうように言ったその時、自動ドアが開き、ドタドタと騒がしい足音がロビーに響いた。


「悪い、優希! 待たせたか!」


隆を先頭に、定夫と航が息を切らせて入ってくる。


夏帆はその様子を見て、肩をすくめながら、優希にしか聞こえないような小声で「やっぱり、一緒じゃん」とニヤリと呟いた。


「おはよう。あれ、夏帆さんもいたんだ」


隆が、いつもの屈託のない笑顔で爽やかに挨拶をする。


「役場にお使い。家の仕事。……でも、あんたたち、昨日あんなに神社でパパに質問しといて、今度は揃って郷土資料館って、一体なんの自由研究やってんのよ」


「へへ、郷土の歴史と、伝承の研究ですよ」定夫が調子よく答える。


だが、男の子たちの視線は、どうしても夏帆のすらりと伸びた健康的な生足――デニムのミニスカートに吸い寄せられてしまう。


その無遠慮な視線の動きにいち早く気づいた優希が、冷ややかな視線を隆たちに向け、小さく呟いた。


「最低……」


「あ、いや! ちがっ……!」


隆は慌てて顔を赤くして目を逸らし、誤魔化すように航の肩を叩いた。


「じゃ、じゃあ、始めるか。航、持ってきたか?」


「ああ」


航が静かに頷き、脇に抱えていたカバンから、くるくると丸められた薄いトレーシングペーパーを取り出した。


すかさず定夫が、奥の事務室に向かって声を張り上げる。


「おじさーん、おはようございます! ちょっとこの写真、トレースさせてもらっていいですか?」


「おや、定坊か」


奥から白髪混じりの学芸員のおじさんが、不思議そうな顔で出てきた。


「構わないが……そんなにこの航空写真に興味があるのかね?」


優希が、真剣な眼差しでおじさんを見上げて言った。


「海岸線の変化を調べているんです。昔の写真と、現在の二万五千分の一の地図を重ねて、比べてみたくて」


「なるほど、それで写し取りたいわけか。うん、立派な研究だ」


おじさんは感心したように目を細め、作業を許可してくれた。


航は壁の写真に傷をつけないよう注意しながら、慎重にトレーシングペーパーを重ね、マスキングテープで固定する。


そして、鉛筆の先を尖らせると、驚くほど器用な手つきで、昭和二十八年当時の複雑に入り組んだ海岸線の形をトレースし始めた。


夏帆は腕を組んだまま、壁際でその様子を眺めていた。


彼女には、彼らが何のためにそこまで必死になっているのか、全く分からなかった。


ただ、隆たちの真剣そのものの目や、年下の優希のキラキラとした好奇心に満ちた目を見ていると、

高校生の自分がなんだかひどく退屈で、蚊帳の外に置かれているような気がして、少しおもしろくなかった。


「あんたたちさ……そんなの調べて、一体どうするのさ。ただの昔の地形でしょ」


優希は、航の手元をじっと見つめたまま、静かに答えた。


「海の、不思議を知りたいんです。昔はあって、今は消えちゃったものの理由を」


「ふーん……おりこうさんなんだね、優希ちゃんは」


夏帆は少しだけ皮肉っぽく微笑んだ。


航が完璧に輪郭を写し取り、ペーパーを剥がすと、隆がおじさんに丁寧にお辞儀をした。


「ありがとうございました。また教えてください」


「ああ、いつでも来なさい。気をつけてな」


おじさんが温かく手を振って見送る。


資料館を出ようとしたとき、夏帆が隆のシャツの袖をちょっと引っ張った。


「ねえ、隆ぃ。この間のサーフィンのコーチ代、まだ貸しになったままなんだけどぉ」


隆は「あ、そうでした」と頭をかいた。


「昼、うちの食堂で食べていきますか? 新鮮な地魚ご馳走しますよ。……でも、夏帆さん、神社に戻らなくていいんですか?」


「……また、そういう痛いこと言う。お姉さん、もうちょっと優しくしてほしいな。ほら、そこの優希ちゃんみたいにさ」


夏帆は、隆の肩に少しだけ体重をかけるようにして、耳元で悪戯っぽく囁いた。


隆はきょとんとして、耳を赤くしながら言った。


「いつでも、お腹いっぱいご馳走しますから、食べに来てください。母ちゃんにも言ってありますから」


「ちがうし……」


夏帆は、心底呆れたようにため息をついた。


「隆、そんなんだと、いつまで経っても彼女できないぞ」


「はあ。……それはちょっと嫌だけど」


隆が戸惑っていると、優希がさりげなく、しかし強い力で隆の反対側の腕をぎゅっと掴んだ。


隆を夏帆から引き離すかのように。


夏帆は、優希のその強い視線と、隆の腕を握る小さな手をしっかりと見とめた。


そして、少しだけ寂しそうに肩をすくめると、踵を返した。


「あーあ、祭りなんて大っ嫌い。神社に戻るわ!」


ツカツカと怒ったような足取りで去っていく夏帆の背中を見送りながら、定夫だけが全てを察して、口元をニヤニヤと歪めていた。


「……何だよ、定夫。変な顔して」


隆の言葉に、定夫は「いやぁ? 別にぃ」と肩を揺らす。


「よし、白鴎丸に行って、今の地図と比べてみようぜ!」


隆の号令に、四人は再び走り出した。



白鴎丸の船倉。


今日は船倉への入り口は開け放たれたままで、差し込む真夏の日差しが、いつもより船内を明るく照らし出していた。


中央の古いテーブルの上に、航が持ってきた最新の「二万五千分の一・鴎ヶ埼」の地図が広げられる。


その上に、航は先ほど資料館で丁寧に写し取った、昭和二十八年の海岸線のトレーシングペーパーを、静かに重ね合わせた。


二つの線が重なる。


四人は身を乗り出し、息を詰めてその境界線を見つめた。


「……ここ!」


優希が、小さな指先でペーパーの一点を指し示した。


「ここだけ、海岸の形が全然違う。ほら……今の地図だと一直線なのに、昭和二十八年の線は、もっと海の方にボコッと突き出ているよ」


「崩れたんだ」


航が地図を覗き込みながら、鉛筆の先でその不自然な直線をなぞった。


「神主さんの言う通りだ。昭和三十年代の大型台風で、大きく突き出ていた岩棚が根こそぎ崩落して、

 海に沈んだ。だから今の地図では、ただの崖のように一直線に見えるんだ」


優希の目が、地図の上で輝きを増す。


「神主さんの言う通りだとすると、この崩れた岩棚のあたりに、昔は『龍の首』って呼ばれる突き出た岩

 があって……。洞窟の入り口は、この奥の崖の、ちょうど海面ギリギリのあたりに隠れているはず。

 多分、そうだよ!」


「でも、ここいら辺の海は厄介だぞ」


隆が地図の等高線と、海上の岩礁のマークを見つめながら、表情を硬くした。


「岬の先端から、奥まった西側のこの地域は、潮の流れがぶつかり合う場所だ。満ち潮の時、この辺りに

 は強烈な『渦潮』が発生する。安易に近づけば、ボートごと巻き込まれて海底へ引きずりこまれるぞ」


「うわ……マジかよ」定夫が顔を引きつらせる。


「じゃあ、たどり着くどころか、近づくこともできないじゃんか」


「いや、漁師なら、渦を避けて通れる『潮の道』を知っているはずだ」 隆はテーブルを叩いた。


「とにかく、ここへ近づくための安全なルートを聞き出さないと進めない。

 むやみに近づくのは、自殺行為だ」


「よし、俺、港の顔が広いおっちゃんたちに伝手をたどって聞いてみるよ!どうにかなるさ」 

 

 定夫が親指を立ててウィンクする。


「ボクも、もう一度おじいちゃんに聞いてみる。おじいちゃんなら、あの辺りの隠れた暗礁のことも

 全部知っているはずだから」


優希が力強く頷いた。


「頼んだ。じゃあ、何かわかったら、今日の夕方にでも俺の家の『海風食堂』に集まってくれ。

 そこで作戦を練ろう」


「了解!」


四人はそれぞれの役割を胸に、白鴎丸の扉を開けて、ギラギラと輝く夏の光の中へと飛び出していった。


場所は分かった。しかし、近づけない。


地元の漁師だけが知る"潮の道"


それが最後の手掛かりだった。



定夫はジリジリと照りつける太陽の下、首に巻いた手ぬぐいで汗を拭いながら、鴎ヶ埼漁港の喧騒の中へと飛び込んでいった。


ちょうど朝の漁を終えた船が次々と接岸し、にぎやかな競り声や、網を繕う漁師たちの怒鳴り声のような活気ある会話が港いっぱいに響き渡っている。


潮の匂いとディーゼルエンジンの排気ガス、そして氷の上ではじける新鮮な魚たちの匂いが混ざり合う、生命力に満ちた漁港の風景。


定夫は人混みをかき分け、磯釣り仲間でもある漁協の組合長を訪ねた。


組合長は魚の入ったプラスチックのトロ箱を抱え、忙しそうに指示を飛ばしているところだった。


「おはようございます、組合長!」


組合長は定夫に気づくと、日に焼けた顔の皺を深くして笑った。


「おお、定坊か。宿題やってんか? 遊び惚けてるんじゃないずら」


「その、夏休みの宿題なんですがね……ちょっと教えてもらいたいことがありまして」


「なんずら?」


「三石から半島の根本に向かって、西側に切り立った岸壁が張り出しているところがあるじゃないです

 か。いつも海が渦巻いている、あの岸壁。あそこに近づくことはできないですかね?」


組合長は一瞬にして笑顔を消し、真剣な顔で定夫を睨みつけた。


「馬鹿言うんじゃないずら。あんな渦潮に巻き込まれたら、ひとたまりもなくお陀仏じゃわい」


「漁でも近づきませんか、あの辺りは」


「あんなところで網を張る漁師はいねぇずら。あそこの潮目はよめねぇ。なにせ、あそこらの海は急激に

 深くなっていて底がわからないって、昔から言われとるずらよ」


「やっぱりそうですよね。あそこらへんに船が浮かんでいるの、見たことありませんし」


定夫が肩を落としかけると、組合長は少し懐かしそうな目を海に向けた。


「……だが、昔は違った。あの渦潮を間近で見るために、戦後の一時期、遊覧船が出ていたことがあった

 ずら」


「えっ、遊覧船があったんですか!?」


「ああ、ずいぶん昔の話ずら。鴎ヶ埼道路ができてからは観光客もみんな車で素通りしてしちまうように

 なってな。遊覧船も廃れて廃止になっちまったずら」


「誰がその船を操縦してたんですか?」


「お前も知ってるべ、幸浦の源さん。あの源さんのじい様が、漁師を隠居してから一時期、その遊覧船の

 船長をやっておられたずら」


「えっ、源さんのじい様が……! ずいぶん古い話ですね」


定夫はさらに手がかりを求めて、港にいる顔見知りの漁師たちに片っ端から声をかけて回った。しかし、返ってくる答えはどれも同じだった。


「あそこは地獄の釜の底みてえな場所ずら。近づく漁師はいねぇ。今も昔もな」



じっとりとした暑さに包まれた夕方。


定夫がゼェゼェと息を切らしながら「海風食堂」の暖簾をくぐると、店内は仕込みのいい匂いが漂っていた。


いつもの奥のテーブルでは、隆と航が持ち寄ったガラクタの懐中電灯を囲み、額を突き合わせて熱心に議論している。


「海中洞窟の中は、おそらくほとんど日が差さないと思う。この懐中電灯の点灯時間を延ばして、最低でも十時間以上は連続点灯できるようにしたいんだ。

それから防水は必須。海に潜っても海水が入らないようにはできないかな」


隆が真剣な表情で言えば、航はピンセットで乾電池の端子をいじりながら答える。


「単一電池三本にすれば容量は余裕だけど、それじゃ重くなりすぎる。単二、三本が限界かな。筐体は、

 塩化ビニールパイプの端材を加工して、隙間をコーキング剤で埋めれば、水深数メートルくらいなら

 防水できると思う」


「両手は自由に使えるようにしたいな。首から下げるか?」


「それは危険だ」 航がぴしゃりと言った。


「狭い岩の隙間でひっかけて、首が絞まったら死ぬぞ。普通は頭につけるヘッドライトだけど……

 そうか、太めのゴムチューブを使って、腕にガッチリ固定できる取り付け具を考えてみる」


隆が定夫の気配に気づき、顔を上げた。


「おう、定夫。暑かっただろ、これ飲めよ」


差し出された冷たいサイダーの瓶。定夫は首にかけた手ぬぐいで顔の汗を乱暴に拭うと、それを受け取って一気に喉に流し込んだ。炭酸の刺激が染み渡る。


「ぷはぁ!……どうもこうも、あそこらへんに近づく漁師は誰もいねえってさ。かなりやばい海みたい 

 だ。潮目が読めないって組合長も言ってた」


「やっぱりそうか……あそこに船が浮かんでるの、見たことないもんな」隆が落胆したように呟く。


「でもな、収穫はあったぞ!」


定夫がニヤリと笑った。


「戦後の一時期、あそこを周る『渦潮見物の遊覧船』が出てたんだってさ!」


隆と航が、同時に弾かれたように身を乗り出した。


「何! それなら船が近づけるルートがあるじゃん!」


「なんでも、源さんのおじいさんが漁師を隠居したあとに、その遊覧船の船長をやってたんだって」


「源さんのおじいさんって……いつの時代だよ」


隆が眉をひそめると、定夫が自信満々に答える。


「まだあの崖に鴎ヶ埼道路ができる前だってさ。昭和二十年代じゃないかな」


「昭和二十年代……」隆が地図を見つめて考え込む。


「やっぱり、あの大型台風で岩棚が崩れる前か……」


そこへ、店の引き戸がガラガラと音を立て、優希がトテトテと小走りで入ってきた。


麦わら帽子を胸に抱え、少し頬を赤くしている。


「優希! 源さんなんて言ってた?」


隆が問いかけると、優希は少し誇らしげな表情で微笑んだ。


「明日、朝の漁から戻ったら、おじいちゃんが船を出してくれるって!」


「えっ、源さんが船を!?」


一同の顔が一気に明るくなる。


「どうせ止めてもお前たちは行くんだろうから、それなら孫を危険な目に遭わせるわけにはいかない、

 だって」


「……完全に読まれているな」 航が苦笑いした。


「それで、源さんは何か言ってた? 渦潮をすり抜ける道があるのかな」


「おじいちゃんが子供のころ、そんな話を聞いたことがあるそうなんだけど、今では誰もあの渦潮には近

 づけないんだって。だから、明日はまず海の上から様子を見に行こうって」


「定夫が、源さんのおじいさんが昔、遊覧船の船長をやってた話を聞いてきてくれたんだ」


隆が言うと、優希は驚いて大きな目を見開いた。


「そんな話、ボク初めて聞いた……。でも、遊覧船が出ていたってことは、安全に近づける航路が、

 どこかにあったんだよね」


「まあ、優希。暑い中よく行ってくれたな。ほら、冷たいサイダー飲めよ」


隆が優しく笑って、もう一本の冷えた瓶サイダーを差し出す。


優希は嬉しそうにボトルを受け取り、冷たいガラスを頬に当てて熱を冷ました。


「えへへ、ありがとう、おにいちゃん……」


そう言って見上げた笑顔は、さっきまで宝の話をしていた時とはまるで違っていた。


「明日、海から現地が見られるね」


「ああ、楽しみだ。源さんが船を出してくれるなら百人力だしな」


いよいよ明日、伝説の海へと船が出る。


手作りの道具、重ね合わされた古い地図、そして消えた航路の記憶。


ジリジリと暮れていく夏の空の下、子供たちの胸の高鳴りは、最高潮に達していた。


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