第3章 : 古物商「汐見堂」
鷗ヶ埼駅前の賑やかな表通りから一本外れた、入り組んだ裏路地に、その店はひっそりと佇んでいた。
古物商「汐見堂」。
真夏のぎらついた陽光がアスファルトを白く灼く昼下がり、その建物の周囲だけは、執拗に響き渡る蝉時雨さえもどこか遠く、控えめに聞こえるような、妙な静けさが漂っている。
軒先に掛けられた煤けた板看板は、長年の潮風に晒されて文字が半分かすれており、通りかかる者たちの足を遠ざけるような、独特の近づきがたさがあった。
一歩店内に足を踏み入れると、外のうだるような熱気は嘘のように消え去り、ひんやりとした古い木と埃の混じった独特の空気が肌を包み込む。
薄暗い空間には、所狭しと雑多な品々が溢れかえっていた。壁に掛けられた無数の古びた絵画や書画、埃をかぶった彫刻や仏像、歪な形の工芸品。
ガラスケースの中には、色あせた茶道具や年代物の柱時計、真鍮の輝きを失ったオルゴール、古いコンパスや夜光貝の置物が、まるで時の流れを止められたかのように並んでいる。
その店の最奥、かすかな電球の光が落とされた帳場で、店主の松崎修一は一人、古い真鍮の羅針盤を磨いていた。指先に染み付いた金属磨きの匂い。
修一は古物を見る目だけは町一番だった。漁師たちも、古い漂着物があればまず彼の店へ持ち込む。
普段の彼は、店を訪れる隆たちに港の昔話を語って聞かせる、穏やかで優しいおじさんだった。
秘密基地の白鴎丸に、古いランタンを融通してくれたのも彼である。
「こんにちは、修一さん」
静まり返った店内に、隆たちの声が響いた。
隆を先頭に、定夫、航、そして優希の四人が、重い木製の引き戸を開けて入ってきたのだ。
優希は、まるで異世界に迷い込んだかのように、店内に並ぶ奇怪で美しい骨董品の数々に大きな目を丸くしていた。
修一は手元のクロスを置くと、眼鏡の奥の目を細めて白い歯を見せた。
「お、隆か。それに定夫に航も。……そっちの小さなお客さんは初めて見る顔だな」
「あ、こいつは優希。白鴎丸の仲間なんだ」
隆が紹介すると、修一は「そうか」と優しく微笑み、帳場から腰を上げた。
「それで、今日はどうしたんだい? また浜で何か面白いものでも拾ってきたか?」
「うん。ちょっと、修一さんに見てもらいたいものがあって」
隆はジーンズのポケットに手を差し入れ、あの五百円玉ほどの大きさをした、くすんだ黄土色の円盤を取り出した。
そして、カウンターの使い込まれた木肌の上に、静かに置いた。
その瞬間だった。
修一の視線が円盤に落ちた直後、彼の端正な眉が、ほんのわずかに、ぴくりと跳ねた。
いつも穏やかなその瞳の奥に、凍りつくような鋭い光が宿り、顔の筋肉が微かに硬直する。
だが、その変化は、一瞬の瞬きほどの長さでしかなかった。
修一はすぐにいつもの柔和な笑みを顔に貼り付け、円盤を指先で拾い上げた。
「ああ、なるほどね。これは外国の古いコインを模した、よくある土産物だよ。真鍮製だね」
「昔、外国の貿易船の乗組員なんかが出入りのついでに落としたか、観光客が失くしたものだろう」
修一は何でもないことのように言い、円盤を隆の手へとあっさり返した。
「それにしても、外はうだるような暑さだろう。今、奥から冷たい麦茶でも持ってきてあげるから、少し涼んでいきなさい」
修一はそう言い残すと、暖簾をくぐって店の奥へと引っ込んでいった。
しかし、薄暗い居間の奥へ足を踏み入れた瞬間、修一の表情から優しさは完全に消え失せていた。
壁には、彼が三十年間、夜な夜な眺め続けてきた相模湾の古地図がピンで留められている。
修一はその地図の前に立ち、激しく波打つ呼吸を殺しながら、自分の手のひらを凝視した。
コインを触った指先が、歓喜と狂気でかすかに震えていた。
指先はまだ震えていた。「……あれだったのか」
誰に聞かせるでもなく呟く。三十年。その歳月が胸の奥でゆっくりと軋む。
「まだ終わっていなかった」
「ニセモノであるはずがない、あの特有の薄さと、わずかな摩耗の狂い……」
修一の目が、血走ったように見開かれる。声は不気味なほど低く、震えていた。
しばらくして、修一は元の穏やかなおじさんの顔に戻り、大きな盆に4つのガラスコップに注がれた麦茶を載せて店へと戻ってきた。
店の中では、航が棚の隅にあった芯の潰れた古い真鍮製ランタンを興味深そうに眺めており、定夫は年代物の釣りのリールをいじり、優希は小さな仕掛けオルゴールの前に佇んでいた。
「ほら、みんな、お飲み」
修一はコップを配りながら、ランタンを見つめていた航の前に歩み寄った。
「航、そのランタン、中の部品が少し錆びててね。工作の得意なお前なら、直せるかい? もし直せたら、お前にあげるよ」
「本当ですか? ……やってみます」
航は嬉しそうに、壊れたランタンを両手で受け取った。
「ありがとう、修一さん!」
隆と定夫が冷たい麦茶を一気に飲み干し、笑い声を上げる。
しかし、その賑やかな輪の中で、優希だけは違っていた。
優希は手元のオルゴールから視線を上げ、麦茶を勧める修一の横顔を、じっと見つめていた。
大人の繕った笑顔の裏側にある、何かが剥き出しになったような尋常ならざる気配─
優希の鋭い直感だけが、修一の顔つきが一瞬にして一変したその不気味な違和感を、正確に捉えていた。
◇
汐見堂のひんやりとした薄暗がりを抜け出した四人は、ふたたび容赦なく照りつける真夏の陽光の下へと戻った。
アスファルトの熱に炙られながら坂を下り、鷗ヶ埼漁港のすぐ傍にある隆の実家、海風食堂へと向かう。
ガラリと木製の引き戸を開けると、店内には潮の匂いに混じって、醤油の焦げた香ばしい匂いと、出汁の濃い香りが立ち込めていた。
昼の小忙しいピークを過ぎた店内は、いくぶん客足も落ち着き、店内の大きな生簀の中では、数匹の地魚がのんびりと尾鰭を揺らしている。
水底の砂地には、立派なイセエビやサザエなどの貝類が放し飼いにされており、優希はその光景を珍しそうに覗き込んだ。
「よお、隆!」
「夏休みずら。白鴎丸組、早速つるんでやがるか」
遅い昼食を取りながら冷たいビールを煽っていた地元の漁師たちが、日焼けした顔を綻ばせて気さくに声をかけてくる。
「ただいま。母ちゃん、こいつらに何か食わせてくれない? まかない、もう残ってないかな」
隆が厨房の奥に向かって声を張ると、手伝いの漁港のおかみさん方と談笑していた母の裕子が、手をエプロンで拭きながら出てきた。
「あら、いらっしゃい」
裕子はいつもの見慣れた三人の顔ぶれの中に、一人、見慣れない新顔が加わっているのに気が付き、優希に目を留めると、その柔らかな物腰にふっと微笑んだ。
「あっ、母ちゃん。こいつは一ノ瀬優希。幸浦の源さんの孫なんだ」
「こんにちは、一ノ瀬優希です。隆さんにはお世話になっています」
優希が姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。その上品で大人びた挨拶に、裕子は感心したように目を細める。
「まあ、礼儀正しい子ね。一ノ瀬さんって……もしかして、小田原市民病院の一ノ瀬先生のご関係かしら」
「あ、はい。ボクの父です」
優希の言葉に、隆、定夫、航の三人が「えっ」と声を揃えて驚いた。
「優希のお父さん、お医者さんだったのかよ」
裕子はふふっと笑いながら頷いた。
「あら、一ノ瀬先生のお子さんなの。漁師さんたち、本当にお世話になってる先生なのよ。……でも、まぁ」
裕子は楽しそうに噴き出しながら、少し気の毒そうに優希の顔を見つめた。
「隆ったら、変なところでお父さんに似て、鈍いんだから。みんな、お昼がまだなんでしょ。残り物だけど、たくさん食べていきなさい」
裕子が厨房へ引き揚げると、四人は店の一番奥にある、テーブル席に腰を下ろした。
冷たい麦茶が喉を潤すのを待たずに、航が身を乗り出し、声を潜めて切り出した。
「隆、さっきのメダルだけど……俺、なんかやばい気がするんだ」
「やばいって、何がだよ」
航「なんか変だ。真鍮じゃこんな重くない」
「えっ、金なのか!?」
定夫が思わず大声を上げると、隆が慌ててその口を手で塞いだ。
「声がでかい! まだ決まったわけじゃないだろ」
優希は、テーブルに置かれた冷たいコップの結露を見つめながら、静かに口を開いた。
「ボク、あのラテン語の文字が気になるんだ。お父さんの本か、学校の図鑑で見た記憶がある。今日、家に帰ったら、ちょっと調べてみるね」
「頼む」と隆は頷いた。「明日の午前中、俺は鳴浜にいるから」
すかさず定夫がニヤニヤしながら、隆の脇腹を肘で小突いた。
「どうせ夏帆さんとサーフィンデートだろ? ゴミ拾いはお休みしてさ」
「ち、違うって。少し乗り方をコーチしてもらうだけだ」
隆が耳の頭まで赤くして言い返すと、優希はその様子をじっと見つめ、小さな声で、しかしはっきりと呟いた。
「……最低…」
「え、なんか言ったか?」隆が首を傾げると、優希はぷいと横を向いてしまった。
そこへ、裕子が「お待たせ」と、大皿に山盛りにされた黄金色のアジフライと、初々しく透き通ったマダイの刺身を運んできた。
「今日は夏休みのサービスだよ。あ、隆の分だけは後でバイト代から引いとくからね」
「うわぁ、美味そう! ここのアジフライは最高なんだ!」定夫が歓声を上げ、どんぶり飯にかぶりつく。
育ち盛りの三人の勢いに負けじと、優希も小さな口を一生懸命に動かし、新鮮な地魚の味を噛みしめた。
海風食堂の温かい空気が、優希の緊張を少しずつ解きほぐしていくようだった。
「明日、郷土資料館に行ってしらべようぜ。あそこの館長、俺の釣り仲間なんだ。この町の生き字引みたいな人だから、昔の古い話を聞いてみようぜ」定夫が拳を握る。
隆は一同を見回し、低く力強い声で告げた。
「明日、昼めし食ったら郷土資料館に集合な」
「了解!」
定夫と航が、厨房の裕子に「ごちそうさまでした!」と元気に挨拶をして店を出ていく中、隆は優希を呼び止めた。
「優希、このコインの模様を写してやるから、ちょっと待ってろ」
「写すの? どうやって?」
「二階の俺の部屋に、柔らかい鉛筆があるんだ。一緒に来いよ」
「……うん、行く」
店の奥にある勝手口から二階へと続く狭い階段を上がると、そこが隆の部屋だった。
漁港側に面した窓からは、夕暮れに染まり始めた鷗ヶ埼の港が一望でき、その先の広大な相模湾まで真っ直ぐに見渡すことができた。
「お邪魔します……」
優希が遠慮がちに足を踏み入れると、男の子の部屋にしては意外なほどシンプルに片付けられていた。
漂着物の類はすべて白鴎丸に置いてあるのだろう。
棚には、海に関する本と、厚紙やプラスチックを組み合わせて作られた、精緻な船の模型がいくつも並んでいた。
「わぁ、お船がたくさんある……。本当、海が好きなんだね」
優希が目を輝かせると、隆は少し照れくさそうに胸を張った。
「俺の父ちゃん、船乗りなんだ。世界中の海を航海しててさ、最近、船長になったんだ。世界中を回ったけど、一番綺麗な海はこの港だって、いつも言うんだ」
その誇らしげな隆の横顔を見つめながら、優希の胸の奥が小さく温かくなる。
隆は学習机の引き出しから、一枚の白い紙と柔らかい4Bの鉛筆を取り出した。
机の上にコインを置き、その上に紙をあてがうと、鉛筆の芯を寝かせて優しく、何度も擦りつける。
シャカ、シャカ、と静かな部屋に小気味よい音が響くたび、白紙の上に、あの甲冑の騎士と、緻密なラテン語の文字列が鮮明に浮き上がっていった。
「よし、これで文字が調べられるだろ」隆は紙を丁寧に折り畳み、優希の小さな手のひらに握らせた。
「なんかさ、これ、やばそうなブツっぽいから、現物は白鴎丸の床下にでも隠しておこうと思う。
……なぁ、優希」
「え?」
「こんなコインのこともだけどさ、俺、お前の方が心配なんだよ。またあの変な中学生たちに、
目を付けられたりしたら危ないだろ」
隆が真っ直ぐに自分を見つめて放ったその言葉に、優希は一瞬、言葉を失った。
自分を「弟分」として、しかし本気で守ろうとしてくれている隆の無骨な優しさが、じわりと染み渡っていく。
「……ありがとう、おにいちゃん」
優希ははにかむように、嬉しそうに微笑んだ。
「よし、駅まで送っていくよ。明日、また調べて何かわかったら、教えてくれよな」
夕陽の赤い光が窓から差し込み、二人の影を畳の上に長く引き延ばしていた。
彼らの冒険の歯車が、確実に、そして大きな音を立てて回り始めていた。




