第2章 : 白鴎丸
学校が既に遠い過去のものとなった、夏休み最初の午前中。
鷗ヶ埼の先にある、幸浦の漁港へと下る坂道は、頭上から降り注ぐ容赦ない陽光にじりじりと灼かれていた。
アスファルトからはかすかな陽炎が立ち上り、鼻腔をつくのは、生い茂る夏草の青臭い匂いと、坂の底から這い上がってくる色濃い潮の香。
その坂道の歪んだ視界の先に、まるで切り取られた絵画のように、夏の光を乱反射してきらきらと輝く小さな漁港と、どこまでも深い青を湛えた相模湾が広がっていた。
坂の途中に、煤けた木造の、古い駄菓子屋がぽつんと佇んでいる。その軒先に置かれた、木肌の擦り切れた縁台に、一人の華奢な少年が腰掛けていた。
少年は、夏の光を跳ね返すような、真っ白なコットンのTシャツを着ていた。
下は真新しいデニムのカットオフパンツ、足元には汚れひとつない白い布製のデッキシューズ。
細い足を縁台からぶらぶらと揺らしながら、ガラス瓶の中でカランと涼しい音を立てるラムネを、小さな口で吸い込んでいる。
その姿は、潮風に錆びついたトタン屋根や、軒下に転がる色あせたプラスチックの籠といった、鄙びた漁村の景色からは、あまりに鮮明に浮き上がっていた。
一ノ瀬優希。どう見ても、どこか育ちの良い、都会のお坊ちゃんだ。
これでは、一昨日のように、浜裏の薄暗い防波堤の陰で中学生たちに目を付けられるのも無理はない。
「やあ、また会ったな。優希!」
坂を下ってきた隆が、まぶしそうに目を細めながら、にこやかに声をかけた。
「あっ、おにいちゃん!」
優希はラムネの瓶を口から離し、弾かれたように顔を上げた。その端正な顔立ちに、あからさまな喜びの色が広がる。
隆は、自分の後ろから付いてきていた定夫と航を振り返り、顎で優希を示した。
「こいつは、一ノ瀬優希。おととい鳴浜で、例の中学生の三人組にカツアゲされそうになってたんだ」
「へえ、お前が助けたのか?」
定夫が興味深そうに首を突っ込み、どんぐりのような目を丸くして優希の格好を値踏みする。
「いや、俺は横から加勢しただけだ。こいつ、体はちびだけど、すげえ投げ技使ってさ。結構強いんだぜ」
隆がそう言うと、優希は少しだけ肩をすぼめ、持っていた瓶の結露を細い指先でなぞりながら、ふっと目を伏せた。
「……でも、本当は、すごく怖かったんだ。ボク」
蚊の鳴くような、細い声だった。本当に強がっていただけで、中学生たちのあの大柄な体躯に囲まれた恐怖は、まだその小さな胸に残っているのだろう。
隆は少し気の毒になり、縁台の端に腰を掛けながら、優希の白いシャツに落ちる木漏れ日を見つめた。
「まあ、中坊三人に凄まれりゃな。お前、この辺のやつじゃないだろ。普段、見かけない顔だし」
「家は、小田原」
「学校は?」
「大船」
定夫が、「大船って、遠っ!毎日電車?」
優希「うん」
定夫、「俺、一人で電車乗るの、横浜までしか行ったことない」
優希が、「ボクは毎日乗ってる」
「……私立か。本当にお坊ちゃんなんだな」
隆が素直な感嘆の声を漏らすと、優希は「お坊ちゃん」という響きが気に入らなかったのか、端正な眉をわずかにひそめて、少しむっとしたような顔をした。
だが、すぐに言い返すように声を張る。
「でも、おじいちゃんがこの幸浦に住んでるんだ。今だって、漁師をやってる。一ノ瀬源三って言うんだけど……」
「源さんの孫かよ!」
三人の声が、完全に重なって田舎の静かな坂道に響き渡った。
源さんといえば、この辺りの海を知り尽くした、気難しいが腕は確かな大ベテランの漁師だ。
隆たちにとっても、海の恐ろしさと豊かさを教えてくれる、畏怖すべきおじさんの一人だった。
「なんだ、源さんの孫なら、もう地元の仲間じゃん」
隆が破顔し、航も静かに口元を緩める。地元の漁師の血が流れていると分かっただけで、優希を包んでいた都会の空気の壁が、すっと消えていくようだった。
「これから、幸浦の裏の磯へ泳ぎに行くところなんだ」
隆は立ち上がり、水平線の彼方に沸き立つ入道雲を指差した。
「お前も、一緒に来ないか?」
「行きたい……!」
優希は目を輝かせたが、すぐに自分の白いシャツと靴を見下ろし、困ったように口ごもった。
「けど、ボク、水着を持ってきてないし……」
「お前、今何年生だ? 三年くらいか?」
隆が身を乗り出す。
「俺たちが三年生の頃なんてさ、みんなパンツ一丁でその辺の海に飛び込んでたぜ?」
「…………」
優希は一瞬、耳の裏まで真っ赤にして、言葉を失ったようにラムネの瓶を握りしめた。
「おい隆、さすがにそれは……」定夫が呆れたように隆の肩を小突く。
いくらなんでも、この絵に描いたようなお坊ちゃんに、パンツ一丁で磯を駆け回れというのは酷な話だ。
隆は苦笑しながら、優希の緊張を解くように言った。
「じゃあさ、泳ぐのはナシにして、蟹かウニでも捕ろうぜ。ここの磯のウニはな、小ぶりだけど、身が詰まっててすげえ美味いんだ」
「うん、一緒に行く!」
優希の顔に、さっと明るい光が戻った。
「磯で生きているウニ、食べてみたい」
優希は、最後の一滴まで飲み干したラムネの空き瓶を大事そうに抱え、駄菓子屋の店先へ返しに行くと、すぐに弾むような足取りで隆の後ろを付いてきた。
四人の影が、夏の濃い影を引きずりながら、きらきらと輝く幸浦の海へと下っていった。
幸浦の漁港の脇には、ごつごつとした岩肌が複雑に突き出た、格好の磯場が広がっていた。
満潮時には波に洗われるその岩場も、今はすっかり潮が引き、岩の窪みごとに透明な海水が取り残されて、大小無数の潮だまりを形作っている。
浅い水底を覗き込めば、岩の隙間を素早く横這いするイソガニ、他人の殻を背負ってせわしなく歩くヤドカリ、透き通った身体をくねらせる小エビがひしめく。
藻の陰にはアゴハゼや、ぬめり気のあるギィンポが潜み、鮮やかなヒトデや小さなイソギンチャク、そして紫黒色の丸い塊がいくつもへばりついている。
それはまさに、海が残していった天然の水族館だった。
「いるいる。今日は大漁だぞ」
隆が膝まで水に浸かりながら声を上げると、三人は一斉に岩場へ散った。
今日の標的は、岩の裂け目にびっしりと棘を尖らせているムラサキウニだ。
隆は手慣れた手つきで、岩肌から大きなムラサキウニを一つ引き剥がした。
手元のマイナスドライバーの先を殻の口へ差し込み、パカリと二つに割る。中から現れたのは、黄金色に輝く五つの生殖腺だ。
海水できれいに内臓を洗い流すと、隆はその一片を指ですくい、隣で目を丸くしている優希の前へ差し出した。
「ほら、今が一番美味い時期なんだ。食べてみな」
その声は、いつもとは違い、どこか年の離れた弟を気遣うような優しさに満ちていた。
優希は一瞬躊躇したが、隆の指先からその黄金色の塊をそっと口に含んだ。
「……!」
次の瞬間、優希の端正な顔が、見たこともない恍惚とした表情に変わる。
潮の香りをほのかに纏った、上品な甘みとバターのように濃厚なコクが、一瞬にして口の中に広がったのだ。
「おいしい……!」
「だろ? あ、でもな、あっちの棘がやたらと長くて細いやつ。あれは『ガンガゼ』って言って、棘に毒があるから絶対に触るなよ」
隆が注意を促す間にも、定夫が漁港の片隅から借りてきたプラスチックのバケツには、航が器用に火ばさみで掴み上げた黒いウニが、みるみるうちに山盛りになっていく。
「これだけ捕れれば十分だな。よし、白鴎丸へ行って、ウニご飯にしようぜ」
バケツを覗き込んでいた優希が、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、おじいちゃんがよく『白鴎丸組の連中がまた悪さをしている』って言ってたけど……お兄ちゃんたちのことだったんだね」
「おうよ!『白鴎丸海賊団』とは、俺たちのことだ!」
定夫がここぞとばかりに貧弱な胸を張ると、すかさず隆が首を振った。
「だから、海賊じゃねぇっての」
「そうそう」と航も口を挟む。「海賊じゃなくて、ただのゴミ拾いだろ」
二人のやり取りを見ていた優希が、少しはにかみながら、しかし真剣な目で隆を見上げた。
「……ボクも、その海賊団の見習いにしてくれると、嬉しいな」
その健気な言葉に、定夫が嬉しそうに声を張り上げる。
「見習いなんて水臭いこと言うなよ! 優希は今日から、我が白鴎丸の『副船長』な!」
「えっ、副船長?」
「おう、異議なし!」
隆が笑って手を挙げると、航も静かに頷いた。
「ボク、副船長……!」
優希は少し面食らったようだったが、すぐにその白い頬を少し上気させ、嬉しさを噛みしめるように何度も小さく呟いた。
◇
海を見下ろす丘の斜面に、その船は静かに横たわっていた。
「白鴎丸」。とうに海へ戻ることを諦め、陸に打ち捨てられた古い木造の漁船だ。
船底には青々とした苔がびっしりと付き、赤茶けた船腹には、何十年分もの烈しい潮風と陽光が刻みつけた深いひび割れが走っている。
それでも、朽ちかけたつなぎ目を晒しながらも、船首だけは今なお相模湾の水平線を見据えて真っ直ぐに突き出ていた。
船尾のあたりには、ずっと昔から桜の木が何本も植えられていた。
ここが、隆たちの秘密基地だった。
横付けされた古い木製の梯子を、優希の足元を支えながら一段ずつ登っていく。
「わあ──!」
甲板に出た瞬間、優希の口から小さな歓声が漏れた。
遮るもののない高台の上、目の前には、夏の午後の光をいっぱいに浴びた青い相模湾が一望のもとに広がっていた。
船倉の薄暗い内部に一歩足を踏み入れると、そこには彼らの「宝物」が整然と並んでいた。
海岸から拾ってきた流木や板切れを組み合わせて作った頑丈な机。日の光を吸い込んで緑色に透き通る大きなガラスの浮き球。
どこかの国の海岸から流れ着いた奇妙な形の貝殻。そして、街の古物商、汐見堂の修一さんから貰ったという、鈍い真鍮製の古いランタン。
隆は船倉の奥にある手製の食品庫から、一升瓶に入った白米を取り出してきた。
船の脇のわずかな平地に腰を落ち着けると、使い込まれた真鍮製のポータブルバーナーを地面に据える。
真鍮の古いキャンプ用バーナーバーナー「123R スベア」だ。
隆が手慣れた動作でプレヒートを行い、マッチの火を近づけると、ゴォーッという、力強い燃焼音が静かな斜面に響き渡った。
アルミの鍋を火にかけると、やがて芳しい米の焼ける匂いが立ち上り始める。
優希はそのバーナーの青い炎と隆の手元を、すぐ隣にちょこんとしゃがみ込んで、食い入るように見つめていた。
隆は一人っ子だったから、こうして自分の後ろを一生懸命に付いてくる優希を見ていると、本当に小さな弟ができたような、くすぐったい、
しかし心地よい誇らしさが胸に湧いてくるのを感じていた。
その傍らでは、定夫と航がスプーンを使ってウニの殻から丁寧に身を掻き出し、目の細かいざるに並べて余分な水分を切っていた。
「よし、炊けたぞ」
隆が鍋の蓋を開けると、真っ白な湯気と共に、ふっくらと炊き上がった米の香りが弾けた。
キャンプ用のアルミの平皿に、惜しげもなくご飯を盛り付ける。
その熱々の白米の上に、今しがた潮だまりから引き揚げたばかりの、眩しいほど濃厚なムラサキウニを、これでもかと敷き詰めていった。
「待たせました! 副船長の就任祝いだ!」
定夫が船倉の冷暗所に隠しておいた、ガラス瓶のサイダーを人数分、誇らしげに抱えて戻ってきた。
プラスチックのコップに注がれた炭酸が、パチパチと音を立てる。
「「「「乾杯!!」」」」
すっきりと冷えたサイダーを喉に流し込み、すぐさまスプーンでウニご飯を口に運ぶ。
「うめぇ……! やっぱりこの時期のムラサキウニは絶品だな!」
隆が思わず唸り声を上げる。自家製の醤油をほんの少し垂らしたウニは、口の中の体温で甘くとろけ、温かいご飯と完璧に絡み合っていた。
「……美味しい。ボク、今まで食べたどんなご飯より、一番美味しいかも」
優希は、大切な宝物を扱うようにスプーンを動かしながら、心底幸せそうに目を細めていた。
贅沢な昼食を終えた四人は、満腹の身体をそのまま白鴎丸の甲板へと投げ出した。
七月の、まだ始まったばかりの夏休みの夕暮れ。空の端が、ゆっくりと黄金色から淡い茜色へと移り変わっていく。
このままずっと、永遠にこの夏が続くのではないかという、根拠のない、しかし確かな予感が彼らの体を包み込んでいた。
目の前には、どこまでも平らで、どこまでも深い相模湾が凪いでいる。
時折、丘の下から吹き上がってくる生温かい海風が、古い木造船の隙間を吹き抜けるたび、
ゴォォ……、ゴォォ……
という重苦しい音が船体から響いた。
「なあ……今の音、なんか龍の鳴き声っぽくねぇ?」
定夫がわざとらしく首をすくめて、おどけた声を出す。
「アホか」と、航が横たわったまま笑った。
「風。長年ここに放置されてるから、風の通り道になっているだけだよ」
二人の会話を聴きながら、優希だけは寝転がらず、じっと船首の向こうの海を見つめていた。その横顔に、夕陽の赤い光が哀愁を帯びて落ちる。
「……この船、海に帰りたいのかな」
ぽつりと溢れた、小さな、しかし澄んだ声だった。
隆は何も答えず、ただ優希が見つめるその先の、どこまでも青く、そして夜の闇を迎え入れようとしている広大な海を、静かに見つめ返していた。
そこで隆が立ち上がった。
ふと、ジーンズのポケットの奥深くへと押し込んでいた、あの奇妙な金属の輪郭が太ももを突いたのを思い出したからだ。
「そういえばさ」
隆はポケットに手を入れ、昨日鳴浜の波打ち際で拾い上げた黄土色のメダルを取り出した。
夕陽の光を浴びて、擦り落とされた泥の奥から、くすんだ黄色の輝きが男の子たちの視線を集める。
「何それ? メダルか?」
定夫が真っ先に身を乗り出し、どんぐり眼をさらに丸くして覗き込んできた。
航も寝転がったまま顔を上げ、隆の手元を凝視する。「外国のお金……? 真鍮製か?」
だが、優希だけは違っていた。
甲板の上に膝をつき、隆の手のひらの上にある500円玉くらいのメダルを、まるで吸い寄せられるようにじっと見つめている。
その大きな瞳が、刻まれた甲冑の騎士や、周囲を囲む精密な文字列を克明に捉えていた。
「……これ。ラテン語みたい」
優希の小さな指先が、円盤の縁をそっとなぞる。
「ボク、どこかで見たことがある」
「ラテン語?」隆が聞き返す。
「うん。学校の図書室に、こんな文字が載ってる本があった気がする。でも……思い出せない」
優希は首を傾げた。
四人はもう一度、その外国のコインを覗き込んだ。
夕陽を受けた黄色の光だけが、静かな甲板で小さく揺れていた。
どこから流れ着いたのだろう。
四人はしばらく黙ったまま、その小さな金貨を見つめ続けていた。
相模湾の向こうで、夕陽がゆっくりと海へ沈んでいく。
古い船体が、また一度だけ、
ごぉおお・・・・
と、また小さく吠えた。




