第1章 : 謎のはじまり
7月の朝五時、鷗ヶ埼の町はまだ、深い群青の底に沈んでいる。梅雨は大方開けたのだろう。
低く垂れ込めた朝靄の向こうから、繰り返し、繰り返し、満ちてくる潮の音が響いていた。
ごう、と腹に響くような地鳴りにも似たその音は、岩場に砕けては白い泡となり、夜の残滓を削り取っていく。
ひんやりとした湿り気を含んだ風が路地を吹き抜けるたび、濃厚な潮の匂いと、微かな磯の腐植土の香りが鼻腔をくすぐった。
トントン、と小気味よい包丁の音が、一階の厨房から階段を伝って上がってくる。
早川隆は、薄い夏布団を跳ね除けて身を起こした。まだ十二歳の、しかし同級生よりも一回り大きな身体が、古びた畳をわずかに軋ませる。
寝巻きのTシャツの襟元を正しながら階下へ降りると、すでに勝手口のガラス戸は白く曇り、出汁の芳醇な香りが狭い階段にまで満ちていた。
大ぶりの鍋から立ち上る湯気の向こうで、母の裕子が立ち働いている。
漁師たちが海へ出る前の、あるいは明け方の漁を終えて戻ってきた彼らの胃袋を満たすための、海風食堂の朝は早い。
「お前、もう行くのかい」
裕子は振り返りもせず、馴染みの漁師が昨晩届けてくれた立派なアジの鱗を、手際よく落としながら声をかけてきた。
その手元の確かさと、どんなに忙しくとも崩れない柔らかな物腰が、隆には誇らしかった。
「うん。潮が引いてるうちに、ちょっと見ておきたい場所があるんだ」
水を一杯飲み干し、隆は勝手口から外へ出た。
◇
家を出てすぐの路地には、まだ夜の冷気が居座っている。
民家の軒下に身を潜めていた野良猫が、隆の足音に気づいて細い目を向けたが、すぐにまた丸い背中に頭を埋めた。
隆は胸ポケットに入れた軍手を引き出し、引き締まった拳を握りしめる。
坂を下り、港のコンクリートを抜けると、眼前に鈍色の相模湾が広がった。
隆の目指す海岸は、寄せては返す波に洗われ、無数の「ゴミ」を打ち上げているはずだった。
他の誰もが見向きもしない、価値を失った漂着物たち。
だが、隆にとってそれは、海が運んできた秘密の欠片そのものだった。
まだ誰もいない砂浜に、隆の足跡が深く刻まれていく。
朝の光が、水平線の彼方からゆっくりと、しかし確実に、東の空を紫から茜色へと染め変えようとしていた。
朝六時少し前。朝陽を受けた鳴浜の海は、まぶしいほど青かった。
寄せては返す波が砂礫を転がし、からころと涼しい音を立てている。
沖には、朝一番のうねりを待つサーファーたちの姿が、小さな黒い点になって浮かんでいた。
早川隆は、大きな軍手をはめ、火ばさみと透明なゴミ袋を手に波打ち際を歩いていた。
砂浜には、千切れたアマモに混じって、色あせたプラスチック片や外国の文字が書かれたペットボトルが流れ着いている。
誰も見向きもしないゴミ。でも、隆には違って見えた。
「どこから流れてきたんだ、お前」火ばさみで拾い上げながら、小さく笑う。
ゴミには、まだ価値がある。
どうすればもう一度使えるのか。
それを考えるのが好きだった。「世界一のゴミやになる」というのが隆の志だったのだ。
その時だった。
「財布出せよ」
低い怒鳴り声が、防波堤の陰から聞こえた。
隆が顔を上げる。
近所でも評判の悪い中学生三人組だった。
制服をだらしなく着崩した三人が、小柄な少年を壁際へ追い詰めている。
少年は逃げない。まっすぐ相手を見返していた。
「やめろ!」
気がつくと、隆はゴミ袋を砂の上へ放り出し、走り出していた。
中学生の一人が少年の胸ぐらをつかもうと手を伸ばす。
その瞬間。少年が一歩踏み込んだ。
相手の腕を引き込み、自分の身体を軸にくるりと回る。
大柄な中学生の身体が、きれいな放物線を描いて砂浜へ転がった。
「うわっ!」砂煙が舞う。
隆は思わず目を見開いた。
(すごい…)
だが、次の瞬間には残る二人が少年へ飛びかかっていた。
技は見事だった。それでも三人では分が悪い。
「そこをどけ!」
隆は勢いを落とさず、一人の脇腹へ体当たりを食らわせた。
不意を突かれた中学生が横倒しになる。
「てめぇ、早川!」
「三人で子供一人を囲むなんて、ダサいことしてんじゃねぇよ」
隆は少年をかばうように立った。
中学生たちも構える。
砂浜の空気が、一気に張りつめた。
その時だった。
「また朝からケンカ?」
遮るように、ベースの効いた凛とした声が響いた。
振り返ると、濡れたウェットスーツを腰で結んだ白石夏帆が、サーフボードを小脇に抱えて浜へ上がってくるところだった。
朝陽を浴びてきらきらと光る水滴が、彼女の小麦色の肌を滑り落ちていく。
隆の胸がどきりと跳ねた。夏帆の眩しさに、思わず言葉を失って見惚れてしまう。
「おいおい、子供相手に、中坊が三人でお出ましか? 格好つかないな」
夏帆の後ろから、さらに背の高い男が歩み出てきた。
日に焼けた逞しい体躯と、大人の余裕を感じさせる涼しげな眼差しで見下ろされ、
中学生たちはあからさまに気圧されたように一歩引いた。
「高校生相手ならともかく、小学生相手に三人がかりか?」
大人二人の姿を見るなり、中学生たちは顔を見合わせた。
「……チッ」形勢不利と悟ったのか、三人は悪態を吐きながら、防波堤の向こうへ逃げていく。
隆はぼうっとした目で見送る。隣に立つ夏帆の横顔から、どうしても目が離せなかった。
「ふん……」
その時、隆のすぐ横から、低く尖った鼻鳴らしが聞こえた。
見下ろすと、かばっていた少年が、面白くなさそうに口元をへの字に曲げている。
少年は、夏帆を凝視したまま鼻の頭を赤くしている隆の顔を、冷ややかな、どこか非難めいた目で見上げていた。
その視線に気づいた隆が慌てて我に返り、「あ、おい……」と声をかける。
「大丈夫か?」
「助けなくても勝てた」思ったより高い声だった。
「いや、押されてただろ」
「三人だったから」
「一人なら?」
「勝ててた」 真顔で言い切る。
隆は思わず笑ってしまった。
「強気だな」
少年は少しだけ頬を膨らませ、
「……でも、ありがとう」
と、小さく言った。キラキラした大きな瞳だった。
「気にすんな」
隆は軍手を外して頭をかく。
砂の上のゴミ袋を拾い上げると、少年は少し歩いてから足を止めた。
そして、一度だけ振り返る。「ボク、一ノ瀬優希、おにいちゃん名前は」
「俺は、早川隆」
男の子は、何か言いたそうな顔をしたまま、結局何も言わず、小さく頭を下げて歩いていった。
隆は、その後ろ姿をしばらく見送っていた。
波は何事もなかったように、静かに鳴浜へ寄せていた。
防波堤の向こうから、隆の三人組のひとり、井上定夫がパンをくわえて走ってくる。
「おーい!また拾ってんのか!」
「今日、ペットボトル多い」
定男は、「そんなことより学校遅刻するぞ!もう少しで夏休みなんだから遅刻するなよ」
まるで先生であった。
◇
七月の半ばを過ぎた教室は、開け放たれた窓から流れ込む南風が、子供達の熱気をそのままかき回しているようだった。
教壇に立つ担任の、チョークで白くなった指先が黒板を叩くたび、クラスの男子たちの腰は浮き、女子たちのひそひそ話は一段と熱を帯びる。
そのさらに向こう、校舎の窓から覗く相模湾は、正午を過ぎたぎらぎらとした陽光を跳ね返し、まるで銀の鱗を敷き詰めたように眩しく輝いていた。
青空の端には、まるで沸き立つ入道雲が巨大な城のように聳え立っている。
あと数日もすれば、あの海が、この夏が、すべて自分たちのものになる。
その確信だけで、教室の空気は炭酸水のようにパチパチと弾けていた。
窓際の一番後ろ、隆の机の周りは、とりわけその密度が高かった。
「おい隆、聞いたかよ。今年の夏、幸浦港の奥の防波堤で夜釣りが解禁になるかもしれないってよ。漁協の組合長のおっちゃんが、機嫌いいときにポロッと言ってたんだ」
そう言って、隆の前の席の椅子を器用に反転させ、丸い顔を突き出してきたのは井上定夫だった。
定夫はクラスの中でも背が低く、どんぐりのような目がいつもせわしなく動いている。
勉強の成績は下から数えた方が早く、体育の50メートル走でも凡庸な記録しか出せない男だったが、この町で彼を知らない人間はいなかった。
毎朝、どこからか仕入れてくる情報の速さと正確さは、大人の新聞顔負けである。
それもそのはずで、定夫は通学路ですれ違う干物屋のおばちゃん、ベンチで煙草をふかす老漁師。
果ては観光目的でやってきた他県ナンバーの車のドライバーにまで、ごく自然に話しかけて懐に入り込んでしまうのだ。
路地の野良猫でさえ、定夫が近づくと警戒を解いて喉を鳴らすのだから、一種の才能と言ってよかった。
「夜釣りか。もし本当なら、あそこの常夜灯の周り、かなり大物が狙えるな」
隆が応じると、定夫は「だろ!」と嬉しそうに白い歯をのぞかせた。
「組合長、昨日お酒飲んでてさ、俺が肩叩いてやったら『定坊には教えてやる』ってさ。まあ、なんとかなるって!俺が頼めばなんとかなる!」
「お前なぁ……」
隆が苦笑したその時、定夫の隣から、机の上にことりと小さな塊が置かれた。
見ると、それはマホガニー色をした木製の小さな滑車だった。
手のひらに収まるほどの大きさだが、表面はきれいにやすりがけされ、中央の車輪は指で弾くと、驚くほど滑らかに無音で回転した。
「隆、これ。こないだお前が浜で拾ってきた、古い椅子の脚。あの硬い木、やっぱりマホガニーだった。削ったらいい匂いがしてさ」
ボソボソとした静かな声で言ったのは、長谷部航だ。
航は定夫とは対照的に、いつも一歩引いた場所で何かを考えているような少年だった。
少し癖のある髪をいじりながら、手元にあるノートには、教科書の落書きではなく、精緻な秘密基地の構造図や、木造建築の継手のイラストがびっしりと描き込まれている。
将来は建築士になる、というのが航の譲らない夢だった。
航は、大人が見ればただの廃材、隆が拾ってくる壊れた棚の引き出しや、錆びた真鍮のボルトを見て、彼はいつも真っ先に目を輝かせる。
『これ、使える。ここを削って、あの金具と組み合わせれば、面白いものができる』
隆の「ゴミには価値がある」という言葉を、誰よりも五感で理解し、形にしてくれるのが航だった。
隆が拾い集めた漂着物は、航の手を経ることで、ただの廃棄物から「目的を持った道具」へと生まれ変わるのだ。
「すげえな、航。これでまた、白鴎丸の仕掛けが進化するじゃん」
隆が滑車を手に取り、その職人技のような仕上がりに感嘆の声を上げると、航は少し照れくさそうな、しかし誇らしげな笑みを浮かべた。
「うん。次は、ロープを二重にして、もっと重いものを楽に引き上げられるようにする。床板の裏の補強も終わったから、かなり頑丈だよ」
「おし、決まりだな」
隆は滑車をポケットに仕舞い込み、窓の外の、あの青い海から切り立った丘に眠る古い廃船の姿を思い浮かべた。
教壇では、ようやく先生が帰りのホームルームの連絡を終え、出席簿を机に叩きつける音が響く。
号令のチャイムが鳴る直前、隆は低く、しかし二人の耳に確実に届く声で言った。
「放課後、『白鴎丸』に集合な!」
定夫が「おう!」と短く応じ、航は深く静かに頷いた。
◇
帰りの会が終わると同時に、熱気を含んだ教室から、子どもたちが一斉に廊下へと溢れ出していく。
隆は二人と別れ、肩に通学鞄を引っかけると、そのまま学校の裏手から鳴浜の海岸へと向かった。
午後を過ぎた浜辺は、朝の静けさが嘘のようにぎらぎらとした陽光に晒されていた。寄せては返す波が砂礫を転がし、からころと乾いた音を立てている。
隆はジーンズの裾を少し捲り上げ、いつものように波打ち際を目で追いながら歩いた。
砂にまみれたプラスチックの破片や、ひび割れた浮き。それらを見つめる隆の足が、ふと止まった。
濡れた砂に半分埋まり、引き波のわずかな水分を浴びて、一瞬だけ、鈍い光を放ったものがあった。
隆は腰をかがめ、その場所を指先で掘り起こした。
手のひらに載ったのは、五百円玉ほどの大きさで、驚くほど薄い、しかし見た目以上の確かな重みを持った円盤だった。
表面は長年の海水と砂に洗われ、細かな傷が無数に走っている。真鍮製の古いメダルのようにも見えた。
隆は胸ポケットから軍手を取り出し、親指の腹でその表面の砂を力強く擦り落とした。
「……?」
そこには、日本の硬貨にはない奇妙な図柄が刻まれていた。青緑色の錆の隙間から、鈍く黄色い金属がのぞいた。
人の姿らしい浮き彫りがある。手には細長い棒のようなもの。反対の手には束ねた枝のようなもの。
その周囲を囲むように、見たこともない外国のアルファベットが、細かくびっしりと浮き上がっていた。
隆はその浮き彫りを指先でなぞりながら、小さく呟いた。
「変わった外国のコインかな……」
どこかの国の古い記念メダルか、あるいは外国の船乗りが落としたコインの類だろう。それくらいにしか思わなかった。
この海が世界のあらゆる場所に繋がっているのなら、こういう奇妙な漂着物が流れ着くことも、そう珍しいことではない。
ただ、誰も見向きもしない砂浜の片隅で、自分だけがこれを見つけ出したという事実に、少しだけ胸が躍った。
隆はそれをジーンズのポケットの奥深くへと押し込んだ。
波は何事もなかったように寄せては返した。
ポケットの中で、その丸い金属が歩くたびに小さく脚へ当たる。
海だけが、そのコインがどこから来たのかを知っていた。
その時の隆は、それが、この夏を変えてしまうとは、夢にも思っていなかった。




