プロローグ
夜八つ。寺の鐘さえ届かぬ相模の海は、墨を流したような闇に沈んでいた。
その闇の沖合に、一隻の巨大な異国船が浮かんでいる。
三本の帆柱は夜空に黒々と突き立ち、小舟から見上げれば、まるで海に浮かぶ城のようだった。
風を受ける帆はすべて畳まれ、船体だけが静かに波間へ身を横たえている。
その巨船の舷側から、一艘の小舟が音もなく離れた。全長三間ほどの、木の葉のように小さなまかせ船である。
船頭が一本の艪だけで水を押し、四人の男を乗せた舟は、闇の海をゆっくりと岸へ向かう。
誰ひとり口を開かない。帆を張れば浦賀奉行所の見張りに見つかる。この海で灯火をともすことも許されない。
見つかれば、抜け荷の罪。待つのは死だった。艪が水を押す音だけが、静かな海へ吸い込まれていく。
四人のうち一人だけ、羽織姿の武士がいた。年のころは三十代半ば。腰の刀にそっと手を添えたまま、闇の先を見つめている。
袖の中では、小さな守り袋が汗で湿っていた。家族の顔が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
─生きて帰らねば。御家の命運を賭けたこの密貿易、決して仕損じるわけにはいかなかった。
船は笠島沖の三つ岩をかわした。ここから先は、潮が狂う海。海面がゆっくりとうねり始める。
艪を握る船頭の手に汗がにじんだ。船底が、不気味に震える。ほんのわずかでも舵を誤れば、渦へ呑まれる。
船底の革袋には、一人の武士が一生かかっても手にできぬほどの黄金が眠っていた。
だがその夜、海は黄金より重いものがあることを、人間に教えようとしていた。
やがて波が静まった。やがて波が静まった。海面から突き出した細長い岩を目印に、船頭は必死にこぎ続ける
切り立った崖の裂け目が、闇の中にぼんやりと浮かび上がる。
洞窟だった。誰かが小さく息を吐いた。
その瞬間だった。
風が止んだ。波が消えた。海が、音を失った。
──ゴボリ。
海の底で何かが息をした。次の瞬間、白い飛沫が闇を裂いた。
「……っ!」
船頭の喉で悲鳴が潰れる。海面から、細長い首がゆっくりと持ち上がった。
闇の中から現れたそれは、首だけだった。
長い。あまりにも長い。
何の生き物にも似ていなかった。
湧き上がった夜光虫の淡い燐光を浴びて、濡れた象のような皮膚が鈍く光った。その首は、まかせ船を見下ろすほど高く伸びていく。
誰も動けなかった。誰も息を吸えなかった。
「…龍…。」
誰かが震える声でつぶやく。武士も刀を抜けなかった。海そのものが、人間の身勝手な欲を裁きに現れた──そんな錯覚に、四人は囚われていた。
船頭は我に返ると、臨戦の恐怖のままに、渾身の力で艪を押した。
小舟は逃げるように洞窟へ滑り込む。
その背後で、巨大な何かが海を割る重々しい音だけが、いつまでも闇に響いていた。
夜が明けても、小舟は戻らなかった。
異国船もまた、夜明け前には相模灘から姿を消していた。
言い伝えだけが残った。
江戸の昔、南蛮船が密かにこの海へ現れた夜があった。
大きな嵐が来て、船は沖で砕け、多くの積荷が海へ沈んだ。
その中には、黄金に輝く異国の金貨が積まれていたという。
村人たちは何度も海へ潜り、宝を探した。
しかし、不思議なことに誰一人として宝へ辿り着くことはなかった。
なぜなら――
龍神が、その宝を守っているからだ。
この土地の古いわらべ歌に子供が歌う
りゅうが ねむるよ かさしまに
きんを ひろえば かえれない
ひが しずむころふりむくな
りゅうが めをあけ なをよぶぞ
子どもたちの間だけに残った、ただの昔話である。
その伝承を語る老人は、最後にこう付け加えた。
「だがな……」
「一度だけ、本当に黄金を拾った子どもがいた」




