表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/6

プロローグ

夜八つ。寺の鐘さえ届かぬ相模の海は、墨を流したような闇に沈んでいた。


その闇の沖合に、一隻の巨大な異国船が浮かんでいる。


三本の帆柱は夜空に黒々と突き立ち、小舟から見上げれば、まるで海に浮かぶ城のようだった。


風を受ける帆はすべて畳まれ、船体だけが静かに波間へ身を横たえている。


その巨船の舷側から、一艘の小舟が音もなく離れた。全長三間ほどの、木の葉のように小さなまかせ船である。


船頭が一本の艪だけで水を押し、四人の男を乗せた舟は、闇の海をゆっくりと岸へ向かう。


誰ひとり口を開かない。帆を張れば浦賀奉行所の見張りに見つかる。この海で灯火をともすことも許されない。


見つかれば、抜け荷の罪。待つのは死だった。艪が水を押す音だけが、静かな海へ吸い込まれていく。


四人のうち一人だけ、羽織姿の武士がいた。年のころは三十代半ば。腰の刀にそっと手を添えたまま、闇の先を見つめている。


袖の中では、小さな守り袋が汗で湿っていた。家族の顔が、一瞬だけ脳裏をよぎる。


─生きて帰らねば。御家の命運を賭けたこの密貿易、決して仕損じるわけにはいかなかった。


船は笠島沖の三つ岩をかわした。ここから先は、潮が狂う海。海面がゆっくりとうねり始める。


艪を握る船頭の手に汗がにじんだ。船底が、不気味に震える。ほんのわずかでも舵を誤れば、渦へ呑まれる。


船底の革袋には、一人の武士が一生かかっても手にできぬほどの黄金が眠っていた。


だがその夜、海は黄金より重いものがあることを、人間に教えようとしていた。


やがて波が静まった。やがて波が静まった。海面から突き出した細長い岩を目印に、船頭は必死にこぎ続ける


切り立った崖の裂け目が、闇の中にぼんやりと浮かび上がる。


洞窟だった。誰かが小さく息を吐いた。


その瞬間だった。


風が止んだ。波が消えた。海が、音を失った。


──ゴボリ。


海の底で何かが息をした。次の瞬間、白い飛沫が闇を裂いた。


「……っ!」


船頭の喉で悲鳴が潰れる。海面から、細長い首がゆっくりと持ち上がった。


闇の中から現れたそれは、首だけだった。


長い。あまりにも長い。


何の生き物にも似ていなかった。


湧き上がった夜光虫の淡い燐光を浴びて、濡れた象のような皮膚が鈍く光った。その首は、まかせ船を見下ろすほど高く伸びていく。


誰も動けなかった。誰も息を吸えなかった。


「…龍…。」


誰かが震える声でつぶやく。武士も刀を抜けなかった。海そのものが、人間の身勝手な欲を裁きに現れた──そんな錯覚に、四人は囚われていた。


船頭は我に返ると、臨戦の恐怖のままに、渾身の力で艪を押した。


小舟は逃げるように洞窟へ滑り込む。


その背後で、巨大な何かが海を割る重々しい音だけが、いつまでも闇に響いていた。


夜が明けても、小舟は戻らなかった。


異国船もまた、夜明け前には相模灘から姿を消していた。



言い伝えだけが残った。


江戸の昔、南蛮船が密かにこの海へ現れた夜があった。


大きな嵐が来て、船は沖で砕け、多くの積荷が海へ沈んだ。


その中には、黄金に輝く異国の金貨が積まれていたという。


村人たちは何度も海へ潜り、宝を探した。


しかし、不思議なことに誰一人として宝へ辿り着くことはなかった。



なぜなら――


龍神が、その宝を守っているからだ。


この土地の古いわらべ歌に子供が歌う



りゅうが ねむるよ かさしまに


きんを ひろえば かえれない


ひが しずむころふりむくな


りゅうが めをあけ なをよぶぞ




子どもたちの間だけに残った、ただの昔話である。


その伝承を語る老人は、最後にこう付け加えた。



「だがな……」


「一度だけ、本当に黄金を拾った子どもがいた」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ