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第10章 : 永い夏休みの終わり

漁師町の夜は早い。明け方には出航するため、夜の九時を過ぎる頃にはどの家も灯りを消し、静まり返ってしまう。


優希は布団からそっと抜け出すと、息を潜めて足音を消した。


隣の部屋で寝入っている祖父の源三と祖母の幸恵を起こさぬよう、慎重に勝手口の戸を開けて外へ出る。


夜風の中に、かすかに虫の音が混じり始めていた。


八月八日。


幸浦の漁港を見下ろすと、夜空には息を呑むほど大きな満月がこうこうと輝き、海面を銀色に染め上げていた。


漁港のすぐ脇、待ち合わせ場所の小さな桟橋へ向かうと、そこにはすでに影が四つあった。修一と隆、定夫と航だ。


桟橋には、修一が所有する小さなボートが停泊していた。


木製の小舟に、小さな船外機を取り付けただけの心もとない代物だ。


「……来たのか、優希」


隆が低く声をかけて駆け寄ってくる。


修一は集まった四人の子供たちを見渡し、静かに首を横に振った。


「悪いけれど、四人全員をこのボートに乗せるのは無理だ。隆君と、せいぜいあともう一人だな。

 沈んでしまう」


「ボクが行く」


優希が間髪入れずに足を踏み出した。まっすぐな瞳で隆と修一を見つめる。


「ボクが、洞窟の正確な位置をわかっている。この満月のタイミングなら、最短のルートで接岸できる 

 よ」


隆は一瞬、躊躇するように眉をひそめた。この小さな身体の『弟分』を、危険な夜の海に連れていきたくはなかった。


しかし、優希の目には一切の迷いがなかった。


「そうだな。優希が副船長だからな」


定夫が緊張をほぐすように優しく微笑んだ。隆も覚悟を決め、後ろの二人に振り返る。


「定夫、航、すまない。……もし、俺と優希が朝までに戻らなかったら、すぐに源さんと母ちゃんに知らせてくれ。全部話していい。頼んだぞ」


「任された。無事に帰ってくるのを待ってるからな!」


定夫が力強く胸を叩く。航も目を潤ませながら頷いた。


「僕にとっては、隆が海から持って帰ってくるものは、ガラクタだって全部宝物なんだからさ。……絶対に、ちゃんと帰ってきてくれよな」


抱き合う四人の姿を、修一は少し離れた場所からじっと見つめていた。


(……僕にも、かつてはあんな友達がいた)


胸の奥がちくりと痛んだが、修一はそれを振り払うように冷たい声を出した。


「じゃあ、行くぞ。優希君の見立て通りなら、十一時には龍が眠るはずだ。それまでに海域の外縁に到着しておきたい」


修一が船尾のエンジン側に乗り込む。隆が真っ先に船首側へ乗り移ると、桟橋に残る優希の脇に手を回し、ひょいと抱き上げて真ん中の座席に乗せた。


「キャッ……!」


不意の浮遊感と隆の腕の力強さに、優希は思わず可愛らしい声を漏らし、顔を真っ赤にした。


隆はそれに気づく様子もなく、「しっかり掴まってろよ」と声をかける。


ポンポンポン……と、修一が手元のヒモを引いて船外機のエンジンを始動させた。


小舟は鏡のように平らな海面を滑り出し、静寂に包まれた漁港の外へと押し出されていく。


桟橋に残された定夫と航は、小さくなっていく船影をいつまでも心配そうに見送っていた。


「……無事に戻れよ。宝なんて、俺たち欲しくはないんだからな」


定夫の呟きに、航も静かに頷いた。


二人の少年の祈りを乗せたボートは、銀色の月光の中に溶け込むようにして、闇の彼方へと消えていった。



鴎ヶ埼半島の先端を目指し、ボートは満月に照らされた鏡のような海上を滑るように進んでいく。


小さなエンジンの音だけが、夜の海に虚しく響いていた。


「……あの時は、昼間だったな」


船尾で舵を握る修一が、誰に聞かせるでもなくぽつりと呟いた。


三十五年前の夏休み。


真夏の相模湾をこうやって、小学生の達也と恒一を乗せて、このボートで洞窟を目指した記憶が、走馬灯のように駆け巡った。


自分も10代で若かった。ひたすら笑っていた記憶ばかりだった。


あの頃の自分たちは、純粋に夢だけを追いかけていた。修一も彼らと同じで、眩しい未来は直ぐそこにあった。


恒一も達也も変わっていった。自分だけが変われなかった。あの時の夏休みのままだったのだ。


やがて、ボートは鴎ヶ埼半島の先端近くへと差し掛かった。


大潮の干潮が極まり、進行方向に見える笠島の「三つの石」は、普段は海の下にある根本まで完全に露出し、まるでひとつの巨大な島のようにそびえ立っていた。


これほどの引き潮は、海で育った隆ですら見たことがない光景だった。


そしてボートは、目的である半島先端西側の、あの恐ろしい入江の海域へと到達した。


昼間、激しい白波を立てて渦を巻いていた海が、嘘のように静まり返っている。


完璧な『憩流けいりゅう』――水流が完全に停止していた。


「あそこ……!」


優希が息を呑み、指をさした。


半島の絶壁に向かって、満月の光が海面に一筋の直線となって反射し、眩いばかりの「光の道」を作り出していた。


「……金のみちが ひらくとき」


隆が絞り出すような声で呟いた。


「これが……わらべ歌に歌われた『金の道』なんだ」


修一も隆も、言葉を失ってその光景に見入っていた。


口伝の戯れ言だと思っていた古いわらべ歌は、数百年もの間、この神秘の瞬間を正確に語り継いでいたのだ。


「きんをひろうは そのときぞ」


修一の目が怪しく光った。


彼は吸い寄せられるように船外機のスロットルを握り直し、その光の水路に沿って、ボートの舳先を絶壁の暗がりへと向けた。



昼間ですら黒ぐろと立ち塞がり、立ち入る者を拒んできた巨大な岸壁が、今夜は満月の銀色の光を受けて明るく輝いていた。


その光の道の先、漆黒の壁面にぽっかりと巨大な暗闇が浮き上がっている。


「洞窟だ……。確かに、洞窟が口を開けている!」


船尾で舵を握る修一が、喉を震わせた。


三十年。人生のすべてを賭けて追い続けた幻が、今、目の前で現実となって現れている。


小舟は吸い寄せられるように、月明かりの渡り船となって洞窟の秘められた闇の中へと滑り込んでいった。



洞窟の奥深くは、一切の光を拒絶する漆黒の世界だった。


しかし、今は、洞窟の入り口から差し込む満月の強い光線が静かな水面に反射し、まるで鏡のように洞窟のドーム状の天井や奥の濡れた岩壁をぼんやりと青白く照らし出していた。


修一は慎重にボートを進めた。やがて船底がザザッ……と浅瀬の砂利を擦る音が響く。


そのすぐ先、岩に囲まれた大きな潮だまりが見えてくると、修一は息を殺してボートを止めた。


隆は航が防水加工を施して改造してくれた特製の海中ライトを腕から外し、慎重に水底を照らした。


「大丈夫です。ひざ下くらいの深さです。すぐ潮だまりになります」


隆が浅瀬に飛び降り、もやいロープを近くの突起した岩にしっかりと結びつけた。


続けて修一が、まるで取り憑かれたような足取りで水の中へ降り立つ。


優希が少し躊躇していると、隆が「おいで」と手を差し伸べ、抱きかかえようとした。


しかし、優希は「大丈夫」と小さく首を振ると、素早くボートの縁を飛び越え、足場のいい岩場へと降り立った。


「濡れている岩は滑るからな、気をつけろよ」


優希がうなづく。


修一は、荒い息を吐きながら、ゴツゴツとした岩肌を踏みしめる。


「ここが……そうか……。とうとう、とうとう来たんだ……」


修一の震える声が静寂な洞窟内に反響する。そして彼が、深く澄んだ潮だまりを覗き込んだ、その時だった。


「あった……あったぞ! とうとう見つけた! 宝だぁぁぁぁあああ!!」


修一が狂ったような叫び声をあげた。その声は洞窟の天井に跳ね返り、鼓膜を激しく揺さぶる。


満月の光を透かした潮だまりの底で、鈍い金色の輝きが幾重にも重なり合い、ギラリと妖しい光を放っていた。


隆は手にした海中ライトのスイッチを広角にして、潮だまりの深い水底へとそのまま沈めた。


ランタン代わりとなったライトが水中を照らすと、潮だまり全体がまるで巨大な宝石のように、エメラルドグリーンの青白い光で水中を満たした。


その幻想的な光の中で、水底から湧き上がるように沈む無数の金貨――オランダ・ダカット金貨の群れが、はっきりと浮かび上がった。


隆も、優希も、その光景に息を呑み、言葉を失った。「……本当にあったんだ……! 」


修一は冷たい水の中に膝をつき、狂気と歓喜の混ざり合った涙を流しながら、潮だまりの底の金貨をひたすら両手ですくい上げた。


ジャラジャラという重い金属音が、暗闇に虚しく響き渡る。


「修一さん……」


隆はあっけにとられ、目の前の修一の姿を呆然と見つめていた。


優希もまた、潮だまりの縁の岩に立ち尽くしたまま、目の前の金貨ではなく、洞窟の入り口から差し込む一直線の満月の光の道を見つめていた。


胸を押し潰すような、不吉な予感が波のように押し寄せていた。


ほどなくして、異変が起きた。


洞窟内の水面で、夜光虫が一斉に激しく発光を始めたのだ。


満潮に向かって押し寄せる外海の波の衝撃を受け、水面がまるで強烈な電気を帯びたかのように、激しい蛍光ブルーの光を放ち始める。


潮が、急速に満ちてきているのだ。


「修一さん! 潮が満ちてくる! 今日はもう限界だ、このくらいにしてまた出直そう!」


隆が叫んだ。だが、修一は金貨を抱きしめたまま、うつろな目で水中を見つめていた。


「あは……あはははは! 僕の三十年だ……僕の、人生だ……」


狂ったように笑い続ける修一は、もう隆の声など一切耳に入っていなかった。


その時――優希は、信じられないものを見た。


洞窟のすぐ外の海面が、突然ボコボコと不気味な大泡を立てて沸き立った。


次の瞬間、ドシャァァァン!! と激しい潮煙とともに、白い飛沫が洞窟の天井にまで吹き荒れた。


眩い満月を背景に、海面からぬうっと持ち上がったのは、黒ぐろとした巨大な丸太のような柱――いや、長い首だった。


その柱のてっぺんには、太古の昔から深海に潜んでいたかのような、醜く濡れた巨大な蛇の顔がついていた。


爛々と光る黄色い瞳が、洞窟の中の人間たちを冷たく見下ろしている。


「キャーぁぁぁぁっ!!」


優希が引き裂くような甲高い悲鳴をあげた。


「な……なんだあれは……っ!?」


隆の全身の毛穴が開き、激しい戦慄が走った。


龍は、この相模湾の深海に、本当に眠っていたのだ。


黒い首が、ゆっくりと満月を横切った。


黄色い瞳がこちらを見た。


「優希っ!!」


隆は瞬時に優希の身体を力任せに引き寄せ、自分の胸の中に抱きとめると、頑丈な岩の陰へと転がり込んだ。


修一もまた、その恐ろしい姿を目にしていた。


腰まで満ちてきた海水の中で、大量の金貨を抱えたまま、開いた口が塞がらない。


信じられなかった。胸の奥でせせら笑っていたおとぎ話が、目の前で顎を鳴らしている。


伝承は……すべて真実だったのだ。


龍が、その長くおどろおどろしい首をぐにゃりと曲げ、洞窟の狭い天井を擦りながら奥へと伸ばしてきた。


修一はゆっくりと振り返り、岩陰を見つめた。


そこには、恐怖に震えながらも、必死に小さな優希の身体を自分の背中で覆い隠し、睨みつけるように龍を見据える隆の姿があった。


「修一さん、こっちだ!」隆が岩陰に、呼び寄せる。


――その隆の姿に、修一の脳裏の中で、一瞬にして三十五年前の記憶が重なった。


『修一さん!大丈夫だ、俺が助けてやる!』


あの夏、深海に引きづりこまれそうなった自分を庇って手を差し伸べてくれた、少年の早川達也と、一ノ瀬恒一の姿が。


(……ああ、そうか)


修一の胸の中で、三十年間固く結ばれていた暗い執着の糸が、静かにほどけていく音がした。


次の瞬間、龍が巨大な口を開けた。岩のように鋭く突起した無数の歯が、洞窟の入口に繋がれていた修一のボートを一瞬で噛み砕き、木片へと変えた。


「ガアァァァァァン!!」


洞窟全体を揺るがす咆哮とともに、龍の顎が、満ちてきた潮の中に立ち尽くす修一の身体を容赦なく咥え込んだ。


「修一さんっ!!」


隆の絶叫が響く中、修一の身体は圧倒的な力で激しい水飛沫とともに、冷たい海中へと引きずり込まれていった。


視界が黒い海水で満たされていく。


漆黒の海の闇へと急速に沈んでいく修一の最後の視界に映ったのは――


岩の上で、隆が優希をしっかりと力強く抱きしめ、恐怖と戦い、必死に「今」を生きようとしている若い二人の眩しい姿だった。


それを見つめながら、修一の口元に、穏やかな、本当に何十年ぶりかの心からの澄んだ笑顔が浮かんだ。


(達也……恒一……。お前たちは、ちゃんと大人になったんだな……。)


冷たい深海の水が、彼の全身を優しく包み込んでいく。


修一の手から、一枚、また一枚、金貨が離れていった。


キラキラと金色の光が月光のように泡となって零れ落ちていった。


(……やっと……僕の夏休みが、終わるんだ)


松崎修一は静かに目を閉じ、永遠に明けることのない、深く静かな海の闇へと帰っていった。




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