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第1話 効率の果てに捨てられた魔導士

第1話 効率の果てに捨てられた魔導士


 地下水道に満ちた濁流の音は、まるで巨大な獣が唸っているようだった。


 聖教国ルミナス。その誇るべき白亜の王都の地下では、今まさに大崩落が起きようとしていた。


「第三水路、亀裂拡大しています!」


「水圧が限界だ! このままじゃ貧民区まで全部沈むぞ!」


 怒号が飛び交う地下通路は、湿った土と鉄錆の臭いで満ちていた。壁の亀裂から噴き出した水が石畳を叩き、冷たい飛沫が兵士たちの頬を打つ。


 その中を、一人の女が泥水を蹴って走る。


 灰色の作業服。革手袋。腰に吊るされた工具袋。長い銀髪は乱れ、頬には泥が付いていた。


 エルゼだった。


「退避してください!」


 彼女は怒鳴るように叫んだ。


「ここは崩れます!」


「ですが、まだ作業員が――」


「早く!」


 その声に押されるように、人々が後退する。


 地下通路が軋む。天井から砂埃が落ちた。耳障りな亀裂音が響き、水流が一気に膨れ上がる。


 崩れる。


 エルゼは深く息を吸った。


 冷たい地下水の匂い。湿気を含んだ空気。震える石壁。


 全部が彼女には分かる。


 この王都の地下構造は、誰よりも知っていた。


「……まだ、壊させない」


 エルゼは両手を石壁へ押し当てた。


 淡い青い魔力が指先から広がる。


「流体操作、接続開始」


 轟、と暴れていた水流が変化する。


 本来なら壁を押し破るはずの水圧が、目に見えぬ導線に沿って滑り始めた。


 しかし次の瞬間、別の水路が悲鳴を上げる。


 石壁に巨大な亀裂。


 兵士が叫んだ。


「だめだ! 崩れる!」


 エルゼは腰の裁縫道具から銀針を抜いた。


「地質強化術式、展開」


 銀針を石へ突き立てる。


 すると魔力の糸が蜘蛛の巣のように亀裂へ走った。


 まるで破れた布を縫うように。


 砕けかけた壁が、ぎしぎしと音を立てながら固定されていく。


「すご……」


 若い兵士が息を呑む。


 だがエルゼの顔色は悪かった。


 全身から汗が噴き出し、指先は震えている。


 水圧が強すぎる。


 一人で抑える規模ではない。


 それでも止めれば終わる。


 地下水路が崩壊すれば、王都の半分が水没する。


「エルゼ様!」


「まだ下がらないで!」


 彼女は歯を食いしばった。


「第五排水路を開けて! 西区へ水を逃がします!」


「そ、そんな遠隔制御を!?」


「早く!」


 兵士たちは慌てて走る。


 エルゼは魔力糸をさらに広げた。


 頭が焼けるように熱い。


 視界が滲む。


 それでも彼女は、水流の動きを一つずつ制御していく。


 王都の噴水。


 浴場。


 上水路。


 地下排水。


 全部が一本の命脈のように繋がっている。


 そして、それを維持しているのが自分だ。


 やがて。


 轟音が静かになった。


 濁流は安定し、崩壊寸前だった地下水路は、かろうじて持ちこたえる。


 地下に静寂が落ちた。


「……止まった」


 誰かが呟く。


 その瞬間、兵士たちから歓声が上がった。


「助かった……!」


「王都が沈まずに済んだぞ!」


「奇跡だ!」


 エルゼはその場へ膝をついた。


 冷たい泥水が作業服を濡らす。


 指先から血が滲んでいた。


 けれど、少しだけ安堵する。


 これで今日も王都は守られた。


 だが、その夜。


 王城の大広間で開かれた報告会で、エルゼの名が呼ばれることはなかった。


「此度の地下水道事故は、我が軍の迅速な対応によって被害を最小限に抑え込んだ!」


 軍師グラディウスが誇らしげに宣言する。


 貴族たちが拍手を送った。


 シャンデリアの光が金の杯に反射し、甘い香水の香りが広間を漂う。


 エルゼは壁際に立ったまま、その光景を見ていた。


 まだ作業服姿のままだった。


 泥は落としたが、擦り切れた袖も、古びた革靴も変わらない。


 豪華なドレスを纏う貴婦人たちの中で、彼女だけが異質だった。


「あら、まだその格好なの?」


 鈴のような声が響く。


 公爵令嬢セレーナだった。


 純白のドレスには真珠が散りばめられ、歩くたびに柔らかな光を放つ。


 彼女は扇子で口元を隠しながら笑った。


「地下のお掃除係かと思いましたわ」


 周囲の令嬢たちがくすくす笑う。


 エルゼは静かに頭を下げた。


「緊急対応の直後でしたので」


「緊急対応?」


 セレーナは首を傾げる。


「まあ、あの地味な魔法のこと? 水を流したり、壁を縫ったり」


 また笑い声が起こる。


「布遊びしかできない女が、ずいぶん偉そうですのね」


 胸の奥が、じくりと痛んだ。


 だがエルゼは何も言わない。


 言っても無駄だからだ。


 インフラ魔法はいつもそうだった。


 水が流れて当たり前。


 壁が崩れなくて当たり前。


 誰も、その裏側を見ない。


「エルゼ・ルーメリア」


 低い声が広間に響いた。


 軍師グラディウスだった。


 鋭い灰色の瞳が冷たく彼女を見下ろす。


「お前を、本日付で筆頭インフラ魔導士の任から解任する」


 広間が静まり返った。


 エルゼは目を瞬かせる。


「……なぜ、ですか」


「決まっている」


 グラディウスは吐き捨てた。


「国家は戦争の時代へ入る。必要なのは攻撃魔法だ」


 そして彼は鼻で笑った。


「水路管理など、誰にでもできる」


 その瞬間、エルゼの指先が小さく震えた。


「ですが、水路網は老朽化が進んでいます。今後三年以内に大規模補修をしなければ――」


「黙れ」


 冷酷な声。


「非戦闘魔導士に国家予算を割く価値はない」


 グラディウスは一枚の書類を放った。


「国外追放だ」


 息が止まる。


 広間は静かなままだった。


 誰も止めない。


 誰も助けない。


 セレーナだけが愉快そうに微笑む。


「安心なさいな。田舎へ行けば、お針子くらいにはなれるでしょう?」


 笑い声が広がる。


 エルゼは俯いた。


 爪の奥に残る泥が痛い。


 今日、誰のために地下へ潜ったのか。


 誰のために血を流したのか。


 分からなくなった。


「……承知しました」


 それだけを言う。


 エルゼは踵を返した。


 背後では音楽が鳴り続けている。


 王都ルミナスは、今夜も美しかった。


 だがエルゼは知っている。


 その美しさを支えている地下水路が、もう限界寸前だということを。



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