第2話 死の砂漠と金の瞳の王
第2話 死の砂漠と金の瞳の王
熱かった。
肌を焼く空気は呼吸をするだけで喉を裂き、砂混じりの風が頬を刺す。太陽は容赦なく頭上から照りつけ、靴底越しに伝わる砂の熱で感覚が鈍くなっていた。
エルゼはふらつきながら砂丘を越える。
唇は乾き切り、呼吸は浅い。
水袋は昨夜空になった。
それでも歩くしかなかった。
背後には、もう帰る場所がない。
「……っ」
熱風が吹き抜ける。
視界が白く霞んだ。
目の前で砂が舞い上がり、遠くの景色が揺らめく。蜃気楼なのか、本当に建物があるのかすら分からない。
喉が焼けるように痛い。
足が前へ出ない。
エルゼは膝をついた。
熱せられた砂が布越しにも熱い。
祖母の黒いドレスを包んだ荷物を抱き締める。
「……みっともないな」
かすれた声が漏れた。
王都では地下水路を維持し、何万人もの生活を支えていた。
それなのに今は、自分一人の命すら支えられない。
風が吹く。
砂が髪へ絡みつく。
そのまま意識が遠のきかけた時だった。
「おい!」
男の声。
「まだ生きてる!」
誰かに肩を揺さぶられる。
ぼやけた視界の中で、逆光に立つ人影が見えた。
褐色の肌。
頭に巻かれた砂色の布。
そして、強い金色の瞳。
「水を!」
低くよく通る声だった。
エルゼの唇へ水袋が押し当てられる。
「少しずつ飲め」
冷たい水が喉を通った瞬間、身体が震えた。
あまりにも美味しかった。
乾き切った身体へ、水が染み込んでいく。
涙が滲む。
「……なんで」
「喋るな」
男は眉を寄せた。
「死にたいのか」
エルゼはぼんやりと相手を見上げる。
陽炎の向こうで揺れる金色の瞳が、不思議なくらい真っ直ぐだった。
「この辺りで行き倒れる旅人は珍しくないが、女一人とはな」
「……追放、されたので」
「そうか」
男はそれ以上聞かなかった。
代わりにエルゼを抱え上げる。
「え……」
「歩けるか?」
「……無理、です」
「正直でいい」
男は苦笑した。
「俺はバドゥル。シャハラトの王だ」
エルゼは目を見開く。
「……王?」
「そんな驚くことか?」
王というには、あまりにも土臭い男だった。
腕には砂埃が付き、衣服も擦り切れている。剣は帯びていたが、宝石一つない。
むしろ現場労働者に近かった。
バドゥルはエルゼを荷車へ乗せる。
車輪が軋み、砂の上を進み始めた。
途中、エルゼは何度も咳き込んだ。
風に混じる砂の匂い。
乾ききった空気。
遠くに見える枯れ木。
生きている気配が少なすぎる。
「……酷い土地」
思わず零すと、バドゥルは短く笑った。
「だろう?」
その笑いは、自嘲に近かった。
「昔は違ったらしいがな。今じゃ井戸も枯れ始めてる」
「井戸が……」
「ああ。水路も死んだ。もう何年も補修できてない」
エルゼは顔を上げた。
「水路が?」
「知ってるのか」
「少しだけ」
嘘だった。
少しどころではない。
水路管理はエルゼの専門だ。
彼女は周囲を見渡す。
遠くに見える石造建築。
砂に埋もれた導水管。
崩れかけた井戸。
そして、歩く人々。
服はぼろぼろだった。
布地は砂で擦り切れ、肌には熱傷や乾燥による裂傷が見える。
幼い子供ですら裸足だった。
エルゼは眉を寄せる。
「……熱傷が多い」
「熱波だ」
バドゥルは苦い顔をした。
「昼の外作業で倒れる奴も多い」
「服が悪いんです」
「服?」
「通気も遮熱もできてない」
エルゼは思わず身を乗り出した。
「砂も入り放題だし、縫製も粗い。このままじゃ肌が裂けます」
バドゥルは目を瞬かせる。
「……お前、服職人なのか?」
「違います」
エルゼは即答した。
「インフラ魔導士です」
「いんふら……?」
「水路や排水、防壁を維持する仕事です。あと服も作ります」
「あと服?」
バドゥルは吹き出した。
「なんだその組み合わせ」
エルゼは少しむっとした。
「服も生活基盤です」
「は?」
「過酷な環境では特に。温度管理、防砂、防水、耐久性。全部、生存率に直結します」
真顔で語るエルゼを見て、バドゥルはしばらく黙っていた。
やがて、ふっと笑う。
「……変な女だな」
その言葉に悪意はなかった。
久しぶりだった。
馬鹿にされずに、自分の話を聞かれたのは。
やがてシャハラトの城下へ到着する。
エルゼは息を呑んだ。
街は疲弊していた。
市場には活気がない。
噴水は止まり、石畳は砂に埋もれている。
水瓶を抱えた女たちの顔には疲労が滲み、乾いた風が街路を吹き抜けるたび、人々は目を細めた。
それでも。
誰も諦めた顔はしていなかった。
「陛下!」
子供たちが駆け寄ってくる。
「今日は水ある!?」
「少しだけな」
バドゥルは荷車から水袋を降ろした。
子供たちが歓声を上げる。
王が自分で水を運んでいる。
エルゼは驚いた。
「……王様なのに」
「民が干からびてるのに、玉座でふんぞり返ってられるか」
バドゥルは肩を竦めた。
「そんな暇があるなら水汲む」
その言葉に、エルゼの胸が熱くなる。
ルミナスでは、誰も地下へ降りなかった。
誰も泥に触れなかった。
けれど、この王は違う。
バドゥルは振り返る。
「行く場所ないんだろ?」
「……はい」
「ならしばらく居ろ」
「でも」
「働けるなら歓迎だ」
夕陽が砂漠を赤く染めていた。
熱風が吹き抜け、乾いた布がはためく。
エルゼは街を見つめる。
崩れた水路。
枯れた井戸。
裂けた服。
傷ついた人々。
全部が見えた。
そして同時に分かってしまう。
この国は、まだ死んでいない。
正しく水を流せば。
正しく街を整えれば。
人は、また生きられる。
エルゼは静かに呟いた。
「……この国には、インフラが必要です」
バドゥルは目を細める。
「できるのか?」
エルゼは少しだけ迷った。
ルミナスで否定された言葉が脳裏を過る。
役立たず。
布遊び。
戦えない魔導士。
だが。
目の前には、水を求める人々がいる。
必要としている国がある。
エルゼはゆっくり顔を上げた。
「できます」
乾いた砂漠の風が、彼女の銀髪を揺らした。




