I just want to do that.
「相変わらず客のいない店だな。疫病神でもやったらどうだ?」
深いエスプレッソアロマがわずかに漂う、静寂に包まれた店内に、低く渋い声が響き渡った。
声の主は、カウンターの奥でグラスを磨いている初老の男性だ。ロマンスグレーの髪をオールバックに撫で付け、パリッとした白のシャツの上に黒いベストと蝶ネクタイ。その堂々とした風格と、顔に刻まれた深い皺には、酸いも甘いも噛み分けた大人の男の余裕が漂っている。
誰がどう見ても、この薄暗くクラシカルなカフェバーの『店主』である。
「”神様”は廃業済み。言わなかったっけ?」
旅行用のボストンバッグのジッパーを引き上げながら、スーニャ・”スリーピー”・ホロウは気だるげに返した。
彼女が一瞬だけ視線を向けたその男性――ルナティック・カフェで『マスター』と呼ばれている彼は、実は店のオーナーでもなければ責任者でもない。ただの高齢者継続雇用で雇われている、日本出身の七十歳前後の従業員に過ぎない。
本名すら誰も正しく呼ばないのは、そのあまりにも『マスター』らしい外見ゆえに、誰かがふざけてそう呼んだのがいつの間にか定着してしまったからだ。実家には妻と娘がいて、本人が気付いていないだけで孫もいるかもしれない、という噂すらある。
「引き継ぎっていうのはもう少し余裕のあるもんだと思ってたんだがな?」
マスターは磨き終わったグラスを棚にそっと置き、やれやれと肩をすくめた。
「事前に知らされる分だけマシじゃない?」
スーニャはいつも通りの淡々とした声で反論する。
「出発の一時間前ってのを『事前』と呼ぶなら、そうだろうな」
そんな腐れ縁のような軽口を叩き合いながらも、スーニャは店の予備鍵をマスターの定位置であるカウンターに滑らせた。
「これから少し、遠出をしてくるわ。行き先は魔大陸。帰るまで、片道一週間、往復で二週間はかかる」
「……また厄介事か」
「ええ。店の名前が知らない間に変わっていた件、その大元の原因に会いに行くの。だから、しばらく店番を頼むわ。流石に店を放置するわけにもいかないから」
「俺はただの雇われなんだが……まあ、いい。どうせ客など来ない座り仕事だ。腰痛持ちの老人には悪くない」
マスターは渋々といった様子で鍵をポケットにしまったが、その顔にはわずかながらの責任感が覗いていた。
「よろしくね。せいぜい、シャルロッテに店を壊されないように見張ってて」
重い木製の扉を開けると、そこには淀んだネオ・トーキョーの空が広がっている。
スーニャはボストンバッグを肩に掛け、長旅へと足を踏み出した。
*
魔大陸・西部領――それは、世界の果てに近い辺境の地である。
ネオ・トーキョーの国際空港から飛行機に乗り、長時間のフライトを経て魔大陸の玄関口へと降り立つ。そこから先は、ただひたすらに陸路をゆく過酷な行程だった。
大陸を横断する長距離列車に乗り込み、車窓の景色は近代的な都市群から、荒涼とした荒野や鬱蒼とした魔の森へと、劇的に変化していく。
やがて列車は西部領の領都を過ぎ去り、西側の終着駅へとたどり着いた。しかし、彼女の目的地はそこからさらに先にある。
終着駅からは、乗り合い馬車を乗り継ぐ。ガタガタと揺れる粗末な馬車に揺られながら、砂埃にまみれ……最後は馬車すら通れないような道なき道を、自らの足でひたすら歩き続けるしかなかった。
ルナティック・カフェを出発してから、すでに片道で丸一週間が経過している。
「……なんでこんな不便なところに住んでるのよ、本当に」
靴の裏にこびりついた泥を払いながら、スーニャは盛大なため息をついた。
周囲には、見渡す限りの荒野と奇岩群が広がっている。近隣の集落からは数十キロも離れた、まごうことなき『ど田舎』。
その開けた景色の真ん中に、ポツンと一つだけ、奇妙に洗練されたデザインの洋館が建っていた。
*
洋館の前に立つと、呼び鈴を押すまでもなく、重厚な扉がパタンとひとりでに開いた。
「いらっしゃい。開いてるよ」
奥から、のんびりとした明るい声が響いてくる。
館の中は、外見からは想像もつかないほど広大な空間だった。至る所に巨大なフラスコや見たこともない魔導装置、うず高く積まれた古文書が散乱している。
その乱雑な空間の中心で、魔女のローブと研究者の白衣を掛け合わせたような奇妙な服装の女性が、フラスコの中の液体を熱心にかき混ぜていた。
彼女の名は、リリー・アージェント(旧姓:セヴァライド)。
現存する三人の『魔女』のうちの一人であり、汎用魔法の要素を最小単位まで分解・解析し、法則さえ理解すればだいたいなんでもできるという最強の力を持ったトンデモ魔法使い——『万能の魔女』である。
七十代後半という実年齢にも関わらず、その外見はどう見ても二十代後半の若々しい美女だ。艶やかな茶髪のショートボブに、知性を感じさせる青い瞳が、スーニャを捉えて楽しげに瞬きをした。
彼女がこんな辺境のど田舎に住んでいる理由は単純明快。”実験の影響”を周囲に出さないようにするためだと言われている。
本来はもう一人の『魔女』である終焉の魔女と二人暮らしのはずだが、館に他に人の気配はない。
「ハロー、女神様。あの子に用事? 残念だけど、しばらく遠出していて戻って来ないよ」
リリーは実験の手を止めずに、終焉の魔女の不在をあっけらかんと告げた。
「だから神様は廃業したって……それと、今回は別の用事」
スーニャは部屋の端にあったソファーに腰を下ろし、長旅の疲労を吐き出すように深く息をつく。
「……通りで。赤いコート着た怖いおじさんがやって来たわけだ」
リリーはフラスコから手を放し、何かを思い出したようにくすくすと笑った。
「あー……それで?」
スーニャは何か嫌な予感を感じ取り、ジト目でリリーを睨む。彼女の周りで起きる事態は、大抵ろくでもないことばかりだ。
「うちにも仕事を寄越せ。退屈すぎて死にそうだって」
リリーは肩をすくめて、他人事のようにおどけてみせた。
「……とびきり面倒な物を押し付けたんでしょ?」
「あら、人聞きの悪い。私はただ、彼の退屈を紛らわせてあげただけよ。……で? 今日は私に何の用かな?」
*
「あなたが原因で発生した、ルナティック・カフェの登記変更についてよ」
スーニャはボストンバッグから、ルナ・インダストリーで確認した登記簿のコピーを取り出し、テーブルの上に置いた。
「あぁ、なるほど。その事かぁ」
リリーは悪びれる様子もなく、むしろ嬉しそうな笑みを浮かべた。
「あの店が開業してから今まで、ずっと名前は”Lunatic Cafe”だった。それが突然、ある日を境に”Witch Tears”に書き換わっている。あなた、一体何をしたの?」
スーニャの冷え切った視線を受けながらも、リリーは空中に魔法陣を描いて紅茶を用意しながら語り始めた。
「実はね、あの店を立ち上げる時、店名の候補が二つあったのよ。一つがあの子(終焉の魔女)が提案した”Lunatic Cafe”。そしてもう一つが、私が提案した”Witch Tears”。当然、どちらにするかで大揉めに揉めたわ」
空中に現れたポットから、ひとりでに紅茶がカップへと注がれていく。
「私は当然、自分の案を推した。でもあの子は、『それは色々怒られそうだからダメ』って全否定してきたのよ。信じられる?」
「……まあ、確かに怒られそうなラインね」
スーニャも内心、終焉の魔女の判断に同意せざるを得なかった。
「私は言ったわ。『”魔女”が二人も揃っていて、恐れるものなどあるものか!』ってね。でも結局、あの子が強引に私を制止して、”Lunatic Cafe”の案で登録書類を仕上げちゃったの」
リリーは少し悔しそうに口を尖らせたが、すぐにニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「でもね、私もただじゃ折れない。だから、役所に提出された書類に、魔法でちょっとした”偽装”をかけたのよ」
「……長年、”Lunatic Cafe”であるかのように見せていた、ってこと?」
「ええ。文字列に対する強力な認識阻害魔法。本当に書いてある文字は”Witch Tears”なのに、誰が見ても”Lunatic Cafe”としか読めないように偽装したの」
リリーは誇らしげに胸を張った。
スーニャは頭痛を堪えるようにこめかみを強く押さえた。
「……つまり、つい最近になってあなたがその魔法を解いたから、書類が元に戻ってしまったと」
「そういうこと! 魔法を解いて本来の”Witch Tears”へと修正したのよ。何もおかしなことはしてないわ!」
「思いっきりおかしな事してるわよ!! それ、まごうことなき公文書偽造じゃない!!」
スーニャは思わず声を荒げた。魔女の規格外の力を、そんな夫婦喧嘩の延長のような意地っぱりのために使うとは、非常識にも程がある。
「いっぺん、本気で怒られた方がいいわよ……」
「えー? でも、もう直っちゃったものは仕方ないじゃない」
リリーはケロリとした顔で笑っている。反省の色は一切ない。
*
「仕方なくない。私たちは”Lunatic Cafe”として営業し続ける必要があるの。なんやかんやでマスターやシャルロッテの居場所でもあるし」
スーニャは引き下がらずに、リリーの目を真っ直ぐに見据えた。
「うーん……まあ、そういう事なら、書類を正式に”Lunatic Cafe”として再修正する手伝いはしてあげてもいいわよ。長年の意地悪が成功して、私も少し満足したしね」
リリーは案外あっさりと折れた。彼女にとっては、ちょっとしたいたずらと主張の場だったのだろう。
「……書類、すぐ直せる?」
「ええ。『店名変更の同意書』に私のサインを入れてあげる。それを持って、西部領の登記局へ行ってちょうだい。あとは向こうの役人がやってくれるわ」
リリーは指を鳴らし、虚空から羽ペンと書類の束を取り出すと、サラサラと美しい筆記体でサインを書き込んだ。
「はぁ……なんで私がこんなパシリみたいな真似を……」
スーニャはその書類を受け取ると、疲労感に満ちた声で呟き、立ち上がった。
「気を付けてねー!」
背中を向けて玄関へ向かうスーニャに向かって、リリーが明るく手を振った。
なんやかんやあったが、これでようやく”Lunatic Cafe”としての営業が認められることになる。
必要な手続きを済ませるため、スーニャは再び重いボストンバッグを持ち上げ、魔女の家を後にした。
(第4話 了)




