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Welcome to the Lunatic Cafe

 西部領の登記局で諸々の手続きを済ませ、来た道をそっくりそのまま引き返し――乗り合い馬車、長距離列車、飛行機と乗り継いで、スーニャ・"スリーピー"・ホロウはようやく日本の地を踏んだ。

 出発からおよそ三週間。魔女の気まぐれに振り回された長い長い出張が、ようやく終わる。


「……疲れた」


 東京の国際空港から電車を乗り継ぎ、腐った空気の漂う見慣れた繁華街へと降り立つ。酸性雨に洗われたコンクリートの匂いが、不思議と懐かしく感じられた。

 ボストンバッグを肩に掛け直し、ルナティック・カフェのある通りへと足を向ける。

 赤レンガの古びた外壁と、紫色のネオン看板――『Lunatic Cafe』の文字が、いつも通り酸性雨に滲んで見えるはず、だった。


「…………は?」


 スーニャの足が、止まった。

 赤い瞳が大きく見開かれ、けだるげな表情が一瞬にして消え去る。


 店の前に、人がいた。

 一人や二人ではない。重厚な木製扉の前に、十人以上の行列ができている。中には傘を差しながら順番を待っている者すらいた。

 扉の向こう側、ガラス越しに見える店内も、薄暗い照明の下で確かに『満席』だった。すべてのテーブルが埋まり、カウンターにも人が並んでいる。


 あり得ない。

 控えめに見ても、ここは週に一人客が来れば大当たりの、正真正銘の閑古鳥カフェだ。開店休業どころか、存在そのものを疑われるレベルの不人気店である。

 夢か、幻か。それとも、誰かの手の込んだイタズラか。


 スーニャは己の頬を軽くつねった。痛い。現実だ。


(……シャルロッテ?)


 ふと、一つの可能性が脳裏をよぎる。

 シャルロッテはサキュバスだ。彼女のサキュバスとしての性質――魅了の素養を利用すれば、こうして人を惹き寄せること自体は不可能ではない。

 しかし、それはカフェの集客と呼べるのだろうか。もはや別の業態ではないのか。

 そもそも、店番はマスターに任せたはずだ。一体何が起きている。


 理解が追いつかないまま、スーニャの中に苛立ちだけが急速に膨れ上がっていく。ボストンバッグを行列の脇に放り投げるように降ろし、彼女は怒りに任せて店の扉を押し開けた。


「ちょっと、シャルロッテ! バカな事はやめ……」


 言葉が、途中で止まった。


     *


「いらっしゃいませ。一名様ですか?」


 入り口で出迎えたのは、シャルロッテではなかった。

 見覚えのない女性が、扉のすぐ内側に立っていた。


 金色の長い髪に、黒いリボン。クラシカルな白と黒のメイド服を纏い、背筋を真っ直ぐに伸ばして佇んでいる。

 確かに美しい顔立ちだった。しかし、その整った容貌には生気というものがまるで感じられない。大きな緑の瞳は、磨き上げられたガラス玉のように無機質で——まるで精巧な人形と対面しているかのような、底冷えするほどの冷たい印象を受ける。


「あいにくただいま満席となっておりまして、少々お待ち頂きたく……」


 抑揚のない、しかし丁寧に整えられた声。完璧な接客用語だ。

 スーニャは一瞬呆気に取られ、それからすぐに眉を寄せた。


「メイドを雇った覚えはないんだけど?」


 低い声で、冷たく言い放つ。

 スーニャの赤い瞳が、メイド服の女性を真正面から射抜いた。


 メイドの緑の瞳が、静かにスーニャを見返す。

 無表情。だが、その奥にある何かが、ほんの微かに警戒の色を帯びた。

 二人の間に、ピリッとした空気が走る。

 賑やかな店内の喧騒の中で、入り口だけが不自然な静寂に包まれた。険悪な空気が、まるで壁のようにその場を塗り潰していく。

 一触即発。


 その沈黙を破ったのは、カウンターの奥から飛んできた低い怒鳴り声だった。


「メアリー、待て! そいつも店員だ!」


 マスターだった。

 ロマンスグレーの髪をオールバックに撫で付けた初老の男が、注文の入ったカップを両手に持ったまま、必死の形相でこちらを見ている。


「はい」

 メアリーと呼ばれた金髪のメイドは、一言だけ返すと、するりと身を引いた。ほんの一瞬前まで張り詰めていた殺気じみた空気が、嘘のように霧散する。


「……どういうこと?」

 スーニャはマスターの方をジト目で睨み、問い詰めた。

「新人を雇ったなんて、聞いてないんだけど?」


「いいからお前も手伝え」

 マスターはカップをテーブルに運びながら、苦虫を噛み潰したような顔で言い放った。

「見りゃわかると思うが、満席だ。……本物の客でな」


 スーニャは改めて店内を見回した。

 確かに、魅了や幻術の気配はない。座っている客は一人残らず正気で、それぞれがコーヒーを飲み、会話を楽しんでいる。本物の、紛れもない、「普通の客」だった。


「……嘘でしょ」


 信じがたい光景だったが、現実は待ってくれない。

 スーニャはボストンバッグを入り口の隅に押し込み、旅装のままエプロンだけを引っ掛けると、半ば自棄気味にカウンターへ飛び込んだ。


     *


 閉店――。


 看板の灯りを落とし、『CLOSED』の札を掛け、最後の客を見送った時には、もう窓の外は真っ暗だった。ネオンサインの光だけが水たまりに反射して揺れている。


 三人体制での怒濤の営業。マスターがカウンター、メアリーがフロア、スーニャがその両方を行き来する形で、どうにかこうにか客を捌ききった。

 スーニャの記憶にある限り、ルナティック・カフェが満席で営業したのは、今日が初めてだった。


「……死ぬかと思った」

 スーニャはカウンターに突っ伏し、力の抜けた声で呟いた。三週間の旅の疲労に、閉店までのフル稼働が重なって、さすがの彼女も限界だった。


「お疲れ様です」

 メアリーが無表情のまま、テーブルを黙々と拭き上げている。その動きは無駄がなく、恐ろしく手際が良い。プロの所作だった。


「片付けはあらかた済んだ。……飯にするか」

 マスターが奥のキッチンから出てきて、カウンターの上にコンビニの袋をどさりと置いた。中身はおにぎりとサンドイッチ、ペットボトルのお茶。


「……手料理じゃないの」

「馬鹿言え。こっちも死にそうだったんだ、メシを用意する気力なんぞ残っちゃいねぇ」


 マスターの言い分はもっともだった。七十歳前後の老人を満席のカフェで立ちっぱなしにさせたのだ、むしろ倒れなかっただけ大したものである。

 三人はカウンターに並んで座り、コンビニ飯を広げた。

 ルナティック・カフェの閉店後に三人で夕食を囲むなど、前代未聞の光景だった。


     *


「まず、店名の件から片付けるわ」

 おにぎりの包装を開けながら、スーニャが口火を切った。

「色々あったけど、結論から言えば"Lunatic Cafe"として存続することが正式に決まった。登記も修正済み」

「そうか。……ご苦労だったな」

 マスターは珍しく、素直に労いの言葉を口にした。

「ただし、今年の免税措置は流石にどうにもならなかった」

「……まあ、そこは仕方ないだろう。元はと言えば原因はこっち側にあるんだ」

 マスターはため息をつきながら、サンドイッチに手を伸ばした。


「次。そこのメイドさんについて、説明してもらっていい?」

 スーニャは隣に座るメアリーへ視線を向けた。メアリーはおにぎりを両手で持ち、小さな口で行儀よく食べている。その姿だけ見れば、どこにでもいる大人しい女性だ。


「店の前で行き場をなくして、途方に暮れてたんだ」

 マスターが経緯を語り始めた。

「メイド服着た嬢ちゃんが一人、扉の前でぼうっと突っ立ってた。声をかけたら、行く宛がないと言う。いくらなんでも放っておけんだろう」


「メイドってどっかの屋敷に雇われてるはずでしょ?」

 スーニャは怪訝な顔で首を傾げた。

「迷子のメイドさんって何?」


 マスターが困ったように頭を掻く。

「……それは、本人に聞いてくれ」


 二人の視線がメアリーに集まった。

 メアリーはおにぎりを丁寧にテーブルに置き、姿勢を正してから、抑揚のない声で静かに語り始めた。


「私は、この世界の者ではありません」


     *


 メアリーの話を要約すると、こうだ。

 彼女は元々、地球とは異なる世界——いわゆる『異世界』で暮らしていた。とある商人の屋敷でメイドとして働いていたところ、ある日突然、説明のつかない力に巻き込まれ、気がつけばこの2060年の東京の路上に放り出されていたのだという。


 迷子の迷子のメイドさんである。名前はわかるが、お家がわからない。


「異世界ねぇ……」

 スーニャはおにぎりを咀嚼しながら、天井を見上げて考え込んだ。

「三次元のめちゃくちゃ遠くか、五次元以降のどこかじゃないの?」

「どうにかならねぇのか?」

 マスターが身を乗り出す。

「ならない」

 スーニャは即答した。


「異世界転移の逆行なんて、それこそ"魔女"でもお手上げよ。行き先の座標も、移動に使われた術式の痕跡も、何もかもわからない。地図も案内人もつけずに見知らぬ土地を彷徨う馬鹿は、その辺で野垂れ死ぬのが関の山。……帰る方法があるとしても、今の私にはどうにもできないわ」


 残酷なほど率直な物言いだったが、事実だった。

 メアリーは表情を変えることなく、静かに頷いた。まるで、その答えを最初から予想していたかのように。


「それと」

 スーニャはメアリーの方に向き直り、赤い瞳を細めた。

「あなたの身体のこと。マスターから聞いたわ」


 メアリーの手元——メイド服の袖口から覗く白い肌の上を、ほんの一瞬、鮮やかな緑色の粘液がぬらりと這った。すぐに袖の中に隠れたが、スーニャの目はそれを見逃さなかった。


「チフス人……毒物生成体質。魔法でも超能力でもない、純粋な生体機能として毒を生み出す種族。合ってる?」

「はい」

 メアリーは隠す素振りもなく、淡々と肯定した。


「……野に放つには危険すぎるな」

 マスターが腕を組み、渋い顔で呟いた。

「ええ。あまりに無法よ」

 スーニャも同意した。

 悪意がなくとも、その体質は周囲にとって致命的な脅威になり得る。都市部で無防備に生活させるわけにはいかない。


「わざわざメイドなんてやらなくても、どうとでもなりそうなのに」

 スーニャはぽつりと呟いた。独り言のような、しかしメアリーの核心を突くような問いだった。

「水源や空調を抑えれば……」


「お世話になった方がいるのです」


 メアリーが、初めて——ほんのわずかに、声に感情を乗せた。


「私は死ぬまでメイドであり続けます」


 その瞳は相変わらず無機質な緑色だった。だが、そこに宿る光は揺るぎなかった。

 覚悟の決まった瞳。それ以上の問答は、不要だった。


 スーニャはしばらく無言でメアリーを見つめ、それからふっと息をついた。


「……そう。"アルバイト"でよければ力になるわ」


 メアリーが深く、丁寧に頭を下げた。


「よろしくお願いいたします」


     *


 翌朝——。


 カチ、カチと静かに時を刻むアンティーク時計の音。

 開店の準備を終えたルナティック・カフェの店内に、コーヒーの芳醇な香りが漂い始めていた。


 カウンターの内側では、メアリーが慣れた手つきでカップを並べている。マスターが豆を挽き、スーニャがエスプレッソマシン『黄金の夜明け』号を起動させる。

 三人の、新しい朝だった。


 スーニャは扉に掛かった『CLOSED』のプレートを裏返し、『OPEN』の文字を外に向けた。


 ――Lunatic Cafe。

 "魔女"がオーナーを務めるって噂だ。

 そこではなんでも、"人"には言えない悩みを聞いてくれるらしい。


 ……コーヒーの味? 喫茶店だろうって?

 あー、……黒いな。絵の具を片っ端から混ぜたような黒さだ。

 そんでもって苦い。どうしようもなく苦い。

 ありゃあ……人生みたいな味、だな。


(Lunatic Cafe 完)



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