Heaven or Hell
相も変わらず、ルナティック・カフェは開店休業状態だった。
外の喧騒が嘘のように静まり返った店内で、スーニャ・”スリーピー”・ホロウはひたすら時間を潰していた。
誰も座らないカウンターを丁寧に拭き上げ、使う当てのないクリスタルグラスをキュッキュと磨く。最新式のエスプレッソマシン『黄金の夜明け』号(と彼女が勝手に呼んでいる真鍮製の機械だ)の試運転をして、無駄に完璧なクレマを抽出する。
(……暇)
あくびを噛み殺しながら、スーニャが三杯目の試飲用エスプレッソに口をつけようとした時だった。
カラン、コロン。
珍しく、来客を知らせるドアベルの軽快な音が鳴った。
スーニャは赤い瞳を少しだけ丸くして、入り口を見遣る。この店に「普通の客」が来る確率は、魔大陸に雪が降るよりも低い。
入ってきたのは、初老に差し掛かった男だった。
無精髭を生やした中年の顔立ちに、銀色の髪。細身でありながら、服の上からでも分かるほどガタイの良い、鋼のような筋肉質な身体つきをしている。
最も目を引くのは、その鮮烈な赤いロングコートと――背中に無造作に背負われた、常人には到底扱えそうもない、身の丈ほどもある巨大な長剣だった。
「……ご注文は?」
スーニャは相手の異様な出で立ちには一切触れず、あくまで「気だるげなカフェの店員」として声をかけた。
凄腕の傭兵か、はたまたハンターか。どちらにせよ、まともな客ではない。
赤いコートの男はカウンターの前に立つと、口の端を少しだけ上げて言った。
「ストロベリーサンデー一つ」
……はぁ?
スーニャは無表情を保ったまま、内心で盛大に呆れた。
背中の大剣からは血と硝煙の匂いがするのに、なんだその随分と可愛らしい注文は。そもそも、だ。
客が来ないと分かりきっているこの店に、生の果実やソフトクリームマシンなどといった、賞味期限の短いファンシーな在庫が置いてあるはずがないだろう。
「ないよ」
スーニャは即答した。
しかし、一応は接客業である。少し考えてから、代案を提示した。
「……アフォガードなら出せるけど?」
今日のおやつにしようと冷凍庫に隠しておいたバニラアイスと、今しがた抽出した最高のエスプレッソを使えば、それっぽいものは作れるはずだ。
男は「チッ」とわざとらしく舌打ちをした。
「いや、いい。じゃあピザはどうだ? オリーブ抜きで頼む」
「ない」
スーニャは今度は被せ気味に答えた。
「ここは喫茶店なの、ダイナーじゃなくて」
さっきから妙な注文ばかりする男だ。
外に出ている『Lunatic Cafe』という看板は見なかったのだろうか。ここはカフェだ。お前の望む甘ったるい氷菓も、ジャンクな夕食もここにはない。
スーニャの冷たい返答に、男は大げさに肩をすくめた。
「シケた店だな」
捨て台詞を一つだけ残し、男は踵を返した。
そして、一度も振り返ることなく、再び重厚な木製扉を開けて雨の街へと消えていった。
滞在時間は数十秒。
一体、何が目的だったのか。ただの冷やかしにしては、背負っていたモノが物騒すぎる。スーニャは首を傾げたが、深く考えるのはやめた。所詮、通りすがりの異常者だ。
*
結局この日、来店したのはあの赤いコートの男、ただ一人だった。
「……不人気にも程があるでしょ」
誰もいない店内で一人ごちて、スーニャは気持ち早めに店の看板の灯りを落とした。入り口に「CLOSED」の札を掛け、カウンターの奥の小さなキッチンへ向かう。
適当に作った夕飯(保存食のパスタとサラダ)を皿に盛り、窓に近い席に座る。
ガラス越しに見えるのは、ネオンサインが水たまりに反射する、巨大都市の極彩色の夜景だ。
フォークでパスタをクルクルと巻きながら、スーニャの脳裏にふと、あの男が残した「シケた店だな」という言葉が蘇った。
「……電気を止められたことはないんだけど」
誰に言い訳するでもなく、返答がつい口をついて出る。
客は全く来ない。売り上げなど、もはや計算する意味すらない。
だというのに、この『ルナティック・カフェ』の運営資金だけは潤沢にあるのだ。最新のエスプレッソマシンも、アンティークの家具も、スーニャへの十分すぎる給料も、どこからか湧くように支払われている。
一体なんのために店を開いているのか、時々分からなくなるほどに。
(まあ、これでいいんだけど)
スーニャは冷めたパスタを口に運びながら、ぼんやりとネオンを眺めた。
この店の存在理由なんて、顔も見せないオーナーが本業で稼ぐ莫大な収入をごまかすための『税金対策』――いわばカモフラージュに過ぎないのだから。
赤いコートの男が探していたものはここには無い。だが、スーニャ・”スリーピー”・ホロウにとって必要なものは、このシケた静かな箱庭の中に、すべて揃っていた。
(第1.5話 了)




