第8話
夕夏が席に戻ると、矢崎は少し不機嫌そうだった。
「どうしたんだい?」
「急にごめんなさい。ちょっと気分が悪くなっちゃって」
「え、大丈夫?」
「ええ。もう大丈夫です。塗りましたから」
「え?」
矢崎が怪訝そうな表情でこちらを見ていたが、夕夏は口紅が取れないように気をつけながらワインを飲むことに集中していた。
ワインのグラスのふちに口紅がついてしまったことも、夕夏は気になって仕方がなかった。
「もしかして、俺があんな事言ったからじゃ」
矢崎が申し訳なさそうに口を開いた。
「嬉しかったです」
「本当に?」
「はい。凄く嬉しかったです」
「夕夏ちゃん」
「はい」
「俺と付き合ってください」
矢崎の言葉で、夕夏は勝利を確信した。心の中でガッツポーズをした。
「はい。よろしくお願いします」
夕夏は恥じらいながら矢崎に返事をした。
楽しい時間はあっという間に終わった。名残惜しかったが、親密になるのはまだ早いと思った夕夏は、送ると言う矢崎をやんわりと断り、ひとり夜道を歩いて帰った。
足取りが軽く、今にも踊り出しそうなぐらい、夕夏は幸せを噛み締めていた。
夕夏は、歩きながらポケットから口紅を取り出した。
口紅がいつもより重く感じた。
「今日みたいな事がないようにしなくちゃ」
まるで生き物に触れるかのように、夕夏は口紅を大事そうに撫ぜた。
翌日、仕事帰りに口紅の効果を報告する為、夕香は三上の所に立ち寄った。
三上はテーブルの上に珈琲を置いてから、夕夏の向かい側に座った。夕夏は、昨日の矢崎とのデートの話を、三上に報告した。
「そうですか。そんなに上手くいっているんですか」
三上が嬉しそうに笑った。
「はい。もう驚くぐらい順調で、怖いぐらいです」
「それは良かった」
「はい。本当にこの口紅のおかげです。ありがとうございます」
「それで、今日は?」
「三上さんにお礼が言いたかったのと、あと、もっとたくさん口紅が欲しいと思って」
「もっとたくさん……ですか?」
三上の表情が曇った。
「はい。この口紅がもしなくなったらと思うと、不安で不安で……」
「ああ、そういう事ですか」
「昨夜も、先輩と食事している途中で口紅が取れたみたいで、そうしたら声が全く出なくなってしまって……」
「口紅があなたの代わりに喋ってますからね。当然口紅が取れたら、また元のあなたに戻ってしまいますよ」
「嫌、それだけは嫌です。絶対に戻りたくない」
「わかってますよ。この口紅は塗り続ける事に意味があるんです。ただ……」
「ただ?」
「あなたもご存じのように、この口紅は凄い効果なんで、注文が殺到してるんですよ。人気商品なので、なかなか手に入らない状態なんですよ」
「そんな……」
夕夏は膝の上で拳を握りしめた。焦りからか、嫌な汗をかいている。
つづく




