第7話
翌日、仕事が終わった後、夕夏は矢崎との待ち合わせ場所に向かった。
矢崎は、夜景の見える高級レストランに連れて行ってくれた。
レストランに着くと、テーブルの上に二つのワイングラスが置かれてあった。これまで、友達や恋人が一人もいなかった夕夏は、こういったお洒落な場所に来ることが初めてであった。もちろん初めてだと悟られないよう気をつけながら食事をした。
「あー、美味しかった。今日は誘ってもらえて嬉しかったです」
「いいよ。夕夏ちゃん頑張ってくれてるから、俺も凄く助かってるし」
矢崎に夕夏ちゃんと呼ばれ、顔が赤らんだ。
「そんな事言うんだったら、デザートも頼んじゃいますよ」
「オッケー。なんでも好きなもの頼んで」
驚くぐらい上手くいってる。ここからは全て、口紅に任せておけば安心だと夕夏は信じた。
夕夏の想いが伝わったのか、口紅が喋り出した。
「先輩が矢崎さんで良かった」
「えっ」
夕夏はフフフと意味深に笑ってみせた。矢崎はもう酔ったのか、顔が赤くなっていた。
「俺も夕夏ちゃんが後輩で良かったと思ってるよ」
「えー。後輩だけですかー?」
「もちろん、女性としても」
「嬉しい。私も先輩の事……オエ」
「オエ?」
突然、夕夏の声が出なくなった。
「夕夏ちゃん?」
矢崎が不思議そうな顔で夕夏を見ている。
どうして声が出ないの?
夕夏は焦った。全く声が出ないのだ。夕夏は喉をかきむしるように触った。
矢崎が不思議そうな顔で夕夏を見てくるので、余計に焦った。矢崎を安心させる為に微笑もうとしたが、どうやっても口だけが笑ってくれなかった。
自分の身体を自分で自由に動かせないことに、恐怖を覚えた。全身の血液が抜け落ちていくような感覚が、夕夏に襲いかかってきた。
「大丈夫?気分が悪いの?」
矢崎が心配そうに訊いてきたが、夕夏は声が出ないので何も答えることが出来なかった。
夕夏はトイレに逃げ込んだ。
トイレの鏡に、不安げな夕夏の顔が映っている。
声を出そうとするが、息しか出なかった。
泣きたくなった。どうやったら声が出るのか、夕夏は意味もなく鏡を見つめ続けた。
答えがそこにあるわけないのに。
その時、夕夏はある事に気づいた。
ーー口紅がとれている。
鏡の中に、暗い表情をした夕夏がいた。もう二度と戻りたくない自分が、そこにいた。
夕夏は慌てて鞄の中に手を入れた。
口紅がなかなか見つからず、夕夏は鞄の中身を洗面所の床にぶちまけた。這いつくばって口紅を探した。
やっとの思いで口紅を見つけ、唇に叩きつけるように塗りたくった。
夕夏の唇が、赤く染まっていった。
「あ、あー」
口紅を塗ったら、声が出るようになった。
夕夏の口から、思わず安堵の溜息が溢れた。
――そうか。口紅が落ちると、また以前の自分に戻ってしまうんだ。
これからは、絶対に口紅が落ちないように気をつけなければと、夕夏は固く決意した。
もう一度鏡を見ると、鏡の中の夕夏が明るい表情に戻っていた。安心した夕夏は、急いで矢崎の元に戻った。
誰もいないはずのトイレの鏡の中に、夕夏がいる。
唇が横に大きく広がり、不気味に笑い出す。
つづく




