第15話
部屋に戻ると、恵の側に矢崎と光仲が立っている姿が目に入った。夕夏は、少し離れた場所で、期待に満ち溢れた表情で様子を伺った。
あんな女、皆から罵倒されればいいのだ。
「さっきと違う色だね」
矢崎の声が聞こえてきた。
いよいよ始まると、期待が高まった。だが、矢崎の口から出た言葉は、見事に夕夏の期待を裏切るものであった。
「凄く似合ってるよ。さっきのピンクも可愛かったけど、赤い口紅もいいね」
えっ?今なんて?
夕夏は、聞き間違いかと思い、確認するように矢崎の顔を見た。
矢崎は笑っていた。
どういうことなのか。私にはあんなにきつい言葉を投げかけてきたくせに。
「なんで……」
夕夏が呆然と立ち尽くしていると、光仲のはしゃいだ声が耳に入った。
「社内がパーっと明るくなった気がするね。同じ赤でもねー」
そう言いながら、光仲が夕夏の方をチラッと見てきた。夕夏が睨み返すと、光仲は慌てて目を逸らした。
何故、恵は暴言を吐かないのだ。
何故、口紅は汚い言葉を喋らないのだ。
「そんな、私なんて」
恵が頬を赤らめながら、謙遜している。
まずい、早く暴言を吐かさないと、矢崎を取られてしまう。
焦りながら必死で思考を巡らせていると、夕夏はあることに気づいた。
――そうか。口紅を怒らせないと暴言吐かないんだった。
そう気づいた夕夏は、恵の前に立ちはだかった。
「足立さん、会社でそんな赤い色って良くないんじゃないかしら。口裂け女じゃないんだから」
矢崎が自分に言った言葉を、そっくりそのまま恵にぶつけてやった。覚えていたのか、矢崎の顔が曇った。
「狩野くん、それは言い過ぎじゃ」
光仲が恵を庇うように言ったが、夕夏の耳には届かなかった。
「まるで人でも食べてきたみたい」
そう言って、夕夏はヒステリックに笑い出した。もう誰のことも目に入っていなかった。
誰ひとり言葉を発しない静けさの中、夕夏の笑い声だけが響き渡っている。
恵は、傷ついたように俯いている。
夕夏はあと一息だと信じた。
「そんな口紅、取ってきなさいよ」
トドメの一発を恵に打ち込んでやった。今まで俯いていた恵が不意に顔を上げ、夕夏を見た。
遂にくるのだと身構えると、恵の唇が動き始めた。
――よし、こい。暴言を吐きまくれ。
しかし恵の口から出てきた言葉は、暴言ではなかった。
「……すみませんでした」
恵が泣きながら謝ってきた。
「なんで……」
「君、いったい何様のつもりなんだ。足立くんに謝りなさい」
光仲の声がうるさかった。まるでギャンギャンと吠える犬のように、夕夏に向かって叫び続けてくる。
だが今の夕夏は、光仲のことなどどうでも良かった。
それよりも、何故口紅が暴言を吐かないのか、その疑問で頭がいっぱいだった。
――そうだ。
夕夏はポケットに入れていた予備の口紅を取り出し、自分の口に塗りたくった。
鏡がないので、口紅がはみ出たような気がしたが、もうそんな事を気にしている場合ではなかった。
つづく




