第12話
夕夏は、思い切って口紅を取ってみた。
そして鏡を見た。そこには、以前の夕夏がいた。
暗い表情の自分の顔を見ていると、吐きそうになった。耐えきれず、夕夏は口紅を塗ってしまった。
――無理だ。口紅を塗らないと、私は生きていけない。
鏡に映った夕夏の唇が、楽しげに笑った。
夕夏が、口紅を落とせないまま仕事に戻ると、矢崎の視線を感じた。
夕夏の唇が赤いままであることに、苛立っているように見えた。嫌悪感が伝わってくる。
だからといって、この口紅だけは取ることが出来ない。
夕夏は、なるべく矢崎と接しないように仕事をし続けた。早く家に帰りたいと、強く願いながら。
そんな夕夏の側に、光仲がきて申し訳なさそうに言った。
「狩野くん、急なんだけど、今日残業頼めるかな」
夕夏が黙っていると、光仲がもう一度同じ言葉を繰り返そうとした。
「残業を――」
「うるせーんだよ」
「え?」
「ハゲのくせに」
光仲は夕夏の暴言に驚きながらも、ハゲと言われたので、思わず髪を直してしまった。
「だいたい残業なんかお前がやればいいんだよ。どうせ部長のご機嫌取るしか能がないんだから」
「狩野くん……」
「とっととヅラ買ってこいや」
光仲が恨めしい目で自分を見ていることに気づき、夕夏は我に返った。
「すみません。私じゃないんです。私が言ってるんじゃないんです」
「……もういい」
「すみません。私、残業やりますから」
「残業は、ハゲ親父がやればいいんでしょ」
もう取り返しがつかない。夕夏はどうしていいかわからなくなってしまった。
「ヅラ、買ってきまーす」
光仲が自虐的に言い、顔に怒りを滲ませながら去っていった。
どうしてこんな事になってしまったのか。
光仲と気まずいまま仕事を終え、夕夏は会社のビルの前で矢崎を待っていた。光仲のことは後で考えるとして、とにかく矢崎の誤解だけは解かないといけないと思った。
矢崎が不機嫌そうな表情でビルから出てきた。夕夏は矢崎に駆け寄った。
「今日はごめんなさい。これには事情があって――」
矢崎は、夕夏を無視して歩いていってしまった。追いかけることも出来ず、夕夏は矢崎の後姿を見つめることしか出来なかった。
「それはお困りですね」
夕夏の説明を一通り聞いた三上が、口を開いた。
「私が言ってるんじゃないんです」
「もちろんわかってますよ」
「じゃあ、なんであんな暴言ばっかり」
「口紅を怒らせてしまいましたね」
「怒らせた?」
「だって、あなただって、自分を否定されたら怒るでしょ」
「否定……」
三上の言葉を聞きながら、夕夏はこれまでの出来事を思い返していた。
通りすがりの子供から『だって、口が血で真っ赤だったよ』と怯えたように言われたことや、矢崎から『夕夏、ここは会社なんだよ。そんな赤い口紅おかしいよ。口裂け女みたいだよ』と注意を受けたことを次々と思い出した。
よく考えると、これは全て否定の言葉だ。
つづく




