第11話
その時、子供が大声で泣き出した。
母親が子供を抱きしめながら、夕夏を睨みつけてきた。居た堪れず、夕夏は逃げるようにその場を立ち去った。
もしかしたら、口紅が取れかかっているのかもと不安に陥った夕夏は、会社に着くなりトイレに駆け込んだ。
鏡を見ると、口紅は一切取れてはいなかった。
「どうして、あんな事言うの?」
夕夏は、自分の唇に問いかけた。問いかけてすぐに気づいた。唇に意思などない。
疲れているのかも知れない。
夕夏は、その言葉で自分を納得させることに成功した。
鏡の中の夕夏の唇が笑ったように見えたのも、気のせいだ。新しい職場のストレスがそうさせているのだと、夕夏は自分に言い聞かせた。
そんな事があるわけない。
あまりにも馬鹿馬鹿しい考えを持ってしまったことに苦笑し、夕夏はその馬鹿げた考えを綺麗さっぱり捨て去った。
夕夏は気を取り直して、部屋に入っていった。矢崎を見つけ、早足で近づいていった。
「おはようございます」
明るい声で挨拶をした。いつものように笑ってくれるのかと思いきや、矢崎が引き攣った表情でこちらを見ている。そして、矢崎が夕夏の手を掴み、部屋の隅に連れていった。
掴まれた手首が痛かった。
「痛い。離して」
「なんだよ、その口」
「え?」
「口紅、塗り過ぎだよ」
塗りすぎ?そんなはずはない。
夕夏が黙っていると、矢崎は苛立った口調で続けた。
「会社でその色はまずいよ」
「でも」
「俺が怒られるんだよ。お願いだから、取ってきてもらえないかな」
「それは無理です」
「どうして?」
「それは……」
「夕夏、ここは会社なんだよ。そんな赤い口紅おかしいよ」
夕夏はどう説明すれば矢崎にわかってもらえるのか、そのことだけを考えていた。
「君もプロジェクト任されたとこなんだから、自覚しないと。早く取ってこいよ」
すぐに動かない夕夏に腹を立てたのか、矢崎はいつものように優しくはなかった。
「まるで、口裂け女みたいだよ」
矢崎が吐き捨てるように言った。
矢崎の言葉が終わるか終わらないかの時、夕夏の唇がまた勝手に動き始めた。小声で何かをブツブツと呟いている。
「夕夏?」
矢崎が眉をしかめ、夕夏の顔を覗き込んできた。
「……お前の口も裂いてやる」
夕夏の暴言に、矢崎の表情が一瞬で凍り付いてしまった。
「違うのこれは。私が言ってるんじゃないの」
夕夏は焦って否定したが、矢崎は冷めた表情で言った。
「俺を失望させないでくれよ」
吐き捨てるように言ったあと、矢崎は夕夏から逃げるように離れて行った。矢崎の背中が自分を拒否しているように見え、追いかける事が出来なかった。
心を落ち着けようと、夕香はトイレに向かった。
トイレの鏡の前に立ち、自分の唇を確認するように見た。
口紅は落ちていない。なのに、何故……。
「どうしよう」
夕夏は、泣きそうになりながら携帯の待ち受けを見た。前回のデートで撮った、夕夏と矢崎のツーショット写真を待ち受けにしていた。
この時はこんなに楽しかったのに。
『俺を失望させないでくれよ』
先程の矢崎の言葉が、頭の中でこだましている。
つづく




