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九は、撃ってこなかった。僕はすぐ食糧の部屋に行って、そこに転がってる手提げ袋に入るだけ持ち去る。手に持ってるのは日記だけ。便箋はどこに行ったんだろ。

 部屋をすぐに出て、走る。下へ、下へ。逃げなきゃ。撃たれるのに十分な理由がここにはあふれてる。水面に近付けるだけ近付こう。九はまだ水面が上がるのを見たことがないはず。なにも考えずに建物の中をさまようだけじゃ昨日の夜みたいにすぐ見つかっちゃうよ。九がこの階に近付かないのに僕は賭ける。関沢はるは水際にいるって気付かれても九が行きたくないって思うと信じる。階段を駆け下りる。九が追ってくる。妄想? ほら、もう、すぐ、後ろに。撃ってくるよ。

 あっという間に水面の所まで着く。階段に一番近いドアが開いてる。最初の衣装部屋だ。廊下が水に浸ってる。朝から一階分くらい水が上がってきたらしい。さすがにこの階は怖いか。

「いや、」

 僕は靴を脱ぐ。死体から奪った靴。一歩進む。水に足をつける。そっと床をかくよに、足をそっと進めて、足首までを水に埋める。足元が見えなくて、なにか変なものを踏まないかって、やっぱり心配。まだそれだけしか水の中に入ってないのに、息がはくはく、と、呼吸がしづらい。そのまま階段を降りる。裾が水につきそうになって、両手でスカートを掴み上げる。

廊下はただ暗い。絨毯の赤は見えなくなってる。泥水は光を飲み込んで、それでも黒いままだ。足元で光ってた照明は、今は水面のほんの少し上で耐えてる。じゃばじゃば一歩歩くたび鳴る。水は冷たくない。部屋のドアの前はどこも、ごみがたくさん集まってた。その横を足を引きずり進むと、部屋が見えてくる。女の子の死体が転がってた場所。ドアが開けっ放し。特になにか臭う、なんてことはない。寒いから? その中に入る。

広い。明るい。遠い窓が横に大きい嵌め殺し。そこから光が入り込んでる。外に見える景色は、窓のすぐ下が水面。少しだけ部屋の中の水位が低い。沈みかけた、客船の一室ってこんな感じなんだろか。僕は、あとは飲まれるだけなんだろか。

でもここなら、きっと来ないだろ。僕はドアをそっと閉めて、一息吐く。

水面には部屋にもともとあったごみがそのまま浮いてる。飴の包装紙。

部屋の隅から、椅子を引きずってくる。水面が波打つ。部屋の真ん中に置いて、座る。部屋の端まで達した波が反射して帰ってきたらしくて、小刻みに椅子の足に当たり水面が揺れる。足を水から引き上げて、椅子の座面の手前にちょこんと乗せる。膝を抱える。足の指が冷えてく。引き上げた足に黒い粒がついてるのに気付く。コートのの袖とか、べっとりついちゃったかな、でももういいか。泥水が足からコートに、スカートに染みこんでく。僕はそのままにしておく。

スカートの生地越しに膝へ顎と鼻を当てる。舌を出して、少しだけなめる。ざらりとしてる。膝が少しだけ寒くなる。

 首をひねって、頬を当てる。陽の光がまぶしい。僕はすぐ戻す。

 君はかえり。突然九の声。頭の中で。片膝だけを、水の上に浮いてる飴の包装紙を狙う。邪魔。僕ははる、だ。部屋の外へ、かき出そ。足を伸ばして、水面を軽く蹴る。ぴちちちゃ、とつま先に弾かれた水滴が部屋の向こうまで飛ぶ。まず、九に見つかったら撃たれる。包装紙は上手く避けたようで、揺れる水面にまだ残ってる。も一度。ぴちちちゃ。変に水が暖かい。見つかってはいけない。逃げて、生き残らなきゃ。ぴちちちゃ。それ以外は振出しに戻っただけ。ぴちちゃ。ここから自分一人の力だけで、逃げ切るのだ。ぴちちゃ。

「舟を探そ」

 口に出す。こんな、すぐにでも銃弾が飛んできそうな所にはいられない。舟を出すならいつだろ。夜。闇にまぎれて。今はまだ駄目。見つかるわけにはいかない。救助されるわけにはいかない。

 僕はまた外を見る。水面がそろりと揺れて、ごみが窓に貼り付くよにゆっくり左から右に流れてく。死体の乗ってる舟を使えないかな。あの子ごと山へ、っていうのは。

 見てみよか。ここからじゃよく分からない。舟を投げ入れたベランダの部屋へ。すぐの場所なはずだ。

僕はスカートのすそをつまみあげて、水から離す。油断すると、すぐ後ろの布がみずに浸かりそうになるし、気が抜けない。立ち上がる。あ、椅子。こんなことで足がつくとは思えないけど。僕は両手で持ってた裾を片手に持ち替える。椅子を片手で持ち上げて、部屋の隅に運んで、それから外に出る。もうほとんど光が届いてなくて、僕は後ろ手で閉めた部屋のドアを開けて、廊下を照らしてから進む。廊下を少しだけ右に進んで、ドアに手を伸ばす。

なんとなしに、天井を見る。僕の開けた部屋から漏れ込んだ光で、ほんの少しの濃淡で白と黒が格子状に並んでる。

視線を戻して、ドアを開ける。部屋の中は浸水してる。あれ。ドアは閉めてあったのに。視線を奥へ。部屋は細い。窓は開いてないよ。外にはゴミがたくさん浮いてる。やっぱり外と内では水位に差がある。部屋を横断して、窓を開けに行く。左側に寄せてあった置物の棚は倒れてしまったみたいで、置物が寝転がって沈んで泥水の中からこっちを恨めしそに見てる。クレセント錠をひねって、窓を引く。重くて、両手で力を込めて、思いっきり引っ張ると、水と一緒にごみがたくさん流れ込んでくる。水の勢いに押される。二歩後ろに下がると、なにか踏んで、足の裏でぴきっ、と音がする。外の水は冷たくて、僕はくしゃみをする。

中に入ってきたごみは、ゴムボールや腐りかけの木の枝やラベルのとれたペットボトルなんかでどれも使い物にならない。

窓の外に出る。浅瀬みたいになってるベランダに足を踏み入れる。見渡す。

白いビニールの袋。プラスチックの把手。Tって毛筆で大きく書かれた空き缶。それと、水槽?ちっさいけど。端が全部ゴムで保護されてる。手の届きそうな所にあるのはみんなそんな小さなものばかり。負けず劣らず、無駄なものばかり。遠くを見る。乗れそうなものはたくさんあるけど、もっと大きいものじゃないと。そんな微妙なごみがぷかぷか浮いて、同じよな光景がずうっと、木を剥がれた山肌まで続いてる。舟になるよなものはない。特にいいものは浮いてない。

その中に上に板を乗せた舟が見える。真上にぴんと紐が伸びてる。上の方で風に巻かれて、耳をすますとぶぶぶぶ、と低く鳴ってる。風の音にまぎれて聞こえる。

舟は流されてずいぶん遠くまで行ってしまってる。なんでこうなるって読めなかったの。とりあえず泳いで取りに行くのは無理だ。そんな不安になるくらいの距離。あの舟になんとか乗れたとして、オールはどうするの。僕は外を見つめたまま。目に風が当たって、僕は顔を手元に寄せて目をこする。板の下に窮屈そうに収まってる死体はどうするの。そのまま一緒に乗ってってたら、どこかで捨てるしかなくて、それじゃ犯罪にならない?

 九はこの階で舟を見つけたと言ってなかったっけ。その部屋に、舟は一つしかなかったんだろか。

僕は反転して、ドアの方へ歩いてく。じゃぶ。じゃぶ。

どこに行けば見つかるだろ。僕はもうこの階をストーブを見つけるまで、かなり家探しした。あるとしたら、まだ行ってない所。ここから遠い場所にあるんだよ。水に沈む置物から泡がかすかに漏れてる。ぽ、こ。ぽ、こ。さっき踏んだのからかな。息が漏れだしてるみたいだ。僕はまたいでドアノブに手を掛ける。

外に出ると、廊下の先は暗闇。僕はドアの横の壁にぴたりとくっついて逃げて、光を取り込めるだけ取り込む。それでも三つ先のドアが見えるか見えないか、ってくらい。

ここを進んでくの。

 裾を持ち替えて、余った片手を闇の中に差し込む。濃くて、伸ばした手の先はもう黒に消えかかる。

九はここを、ずうっと、向こうまで歩いてったんだろか。

ドアにはまるで群がるよにごみが集まってる。スカートを持ち上げてから、ずっとかすかに足から身体が冷える。

ここまで暗くなかったんじゃないの。でも、それにしても。

九はなんで階段の所にいたんだろ。女の死体を拾うため? なら、あれがかえり? そもそも、この建物の中に九はなんでいるんだろ。「みんな逃げたはずだよ」九はそう言った。じゃあなんで九はここに。このホテルの住人ですらないのに。

 僕は一歩前に進む。すり足。身体の前方に手をかざしたまま、なににもぶつからないよに。

 じゃぶ。足を進めるごとに、軽い波が足先で起こる。どんどん暗くなって、自分の腕は闇に溶ける。巻きあがる水かな、その手の甲に少しなにかがかかる。ここは暗闇。じゃぶ。

 水に足をうずめて進む。きっと、この先に落とし穴があっても迷わず進んではまる。誰か隠れててもまったく気付けない。

 懐中電灯も貰ってくればよかった。口に出すと、

両足を交互に引きずって進む。水の中でなにか固いものが当たる。僕は、びくり、と止まる。片手で探る。軽い音。空き缶? 他にも、金属じゃない固い感触がたくさん手に当たる。木材で出来たなにか。持ち上げる。ここはドアの前のごみだめ。まさぐってそうだと気付く。目の前にドアがあるって、その途端暗闇の中にほんのりと見える。いつの間にかまっすぐ進んでなかったみたいだ。空き缶を手の中でくるくると回すと、側面に穴が開いてるって気付く。僕は捨てる。ぽちゃん、ぽぽぽぽ、と空気がが吐き出される音がして、足の爪の上にになにか当たって、きん、と鳴る。

僕は壁に沿って歩くことにする。真横に腕を伸ばして、今度は前になにがあるか分からなくて無闇に大股で歩く。足をするり、するりと長く伸ばして進む。二の腕と二の腕の間を寒さが通り抜ける。深緑なはずの壁はもう闇と同化してる。その上を指が上滑りしてく。壁はつるりとしてる。ときどき、ごみだめにぶつかって僕は少しだけ横に避ける。暗闇の中をかき分けるように、腕を振って少しずつ開拓してく。ちょっとずつ切り開いてく。ここなら、もう、来たことはないんだろか。九は、本当にここまで歩いてきたんだろか。どれくらい進んだかなんて、僕には見当がつかない。騙されてるってことは。九はどこまで周防つきだったんだろ。九の一言一言。そんな当てのないものより、見えてる舟を手に入れる方が早くない? 九は、本当にこの階で見つけたんだろか。隠し事が多すぎる。今までも僕が気付いてないだけで嘘や隠し事は繰り出されてたんだよ、だから、きっと。

じゃあどこへ行けばいいんだろ。

僕はあたりを見回す。闇ばかり。満たされてる。ここは密室? 足元に水。かすかに空気が動いて、ここは廊下だって思い出す。伸ばした手に触れるつるりとした壁が、唯一はっきりしてること。舟にたどり着くのに、泳ぐのは最後の手段。屋上から紐を伝うのは無理? 出来るわけない。なら、あの舟は手に入れられないよ。あるとしたら上の倉庫だ。物置に舟はなかった。じゃあ木箱の中。倉庫の木箱の中身だけはまだ確認してない。それよりは泳いだ方が正確じゃない? そうだけど、問題は九に見つからないかどうか。泳いでる所を見つけられたりしたら、もう逃げようがない。このままいっても、じり貧。このままここに残っても。そう。別に平気なの。倉庫に行くのは。怖いけど。その勇気を振り絞れば、生き残れる、かも。

「うん、」

 上に行こ。廊下を進む。

すり足でかき分ける水には、もう馴染んできた。ゆっくり時が流れる。暗闇をのろり、のろりと動くのも案外、性に合ってるのかもしれない。ここは怖くない。きっと水面は上がらない。自分の足が鳴らす水の音がやたら規則的で、ここは海のよな気がしてくる。波の音を聞いてる気分になる。安心感で満たされる。それにそこまで寒くないし。特に不快じゃないし。怖くもないから平気。

九はなんでこれくらいの水で悲鳴を上げてたんだろ。肩まで浸かるとまた違うのかな。

僕は進む。さっきかき分けて来た道を戻る。まだ遠くて、はっきりとした光は届いてない。来た道は暗くて道なんて覚えられなくて、だから僕は、ほのかに明るい方を目指す。

廊下を右に曲がって、ばあと、。明るい。なんで。

きい。なんの音。白く飛んだ視界に目を凝らす。暗闇は退散する。

ドアを開けて誰か。九。ちょうど部屋から出てくる。遠い。手の先で重たいなにかがきらり。銃。早い。僕は隠れる。視線を切る。闇に慣れてた目はすっかり駄目になってる。視界は真っ黒。こっちに歩いてきてた。よね。反転して扉に耳をつける。こっち見てなかった、と思う。まだばれてないはず。廊下の向こうで、ドアを静かに閉める音。きいい。それがやんで、水をばしゃばしゃ、ってさせて、音が近付いてくる、こっちに来る。

走る? 波を立てたら気付かれる、なんで、なんで分かったの。逃げなきゃ。逃げるよ。どっちに! すぐ近くのドアへ手を伸ばす。やたら重たいドアノブを音を立てないよにってそうっと引くと、ばんっ、と大きな音を立てて一気に開いて、僕は引っ張られて部屋の中へ。足を後ろから、僕と一緒にごうごうと泥とごみと水がなだれ込む。水音がすごくて外の音はかき消される。僕はその水の流れに押される。転びそうになるのをこらえて、反転する。押される向きが変わって、余計後ろにバランスを崩しそうになるけど、なんとか耐える。一歩飛ぶよに近付いて、ドアノブに取り付く。押し込む。水の方へ。ごおと、水は漏れ込む。ねえ、僕を守る壁になって。歯を食いしばって、そうつぶやく。

ドアは水が重くて全然閉まらない。全体重を掛けてもほんの少し詰まるだけで、すぐ押し返される。閉まらないドアのすき間から、茶色と金の低いヒールが片方だけ、水と一緒に入り込んでくる。ドアから落下して、ぼ、と低い音が鳴る。ばしゃばしゃ、と外で九が足音を立ててる。部屋の中にはまだ水が足りなくて、ドアは軽くならない。僕はドアノブを押さえつけるけど、ドアは完全には閉まってくれない。中に水がどんどんと水が入り込んでくる。おろしたままのスカートの裾が水に広がってく。ねええ。閉まって。顔が震える。このままじゃ確実に捕まる。押さえたまま、部屋を見渡す。部屋の壁に白いクローゼットが、まず目に映る。閉まらないドアのすき間から漏れ込んだ光で、やっと見える。窓はない。あの中に隠れるのは? 出るタイミングを見失うよ。他には、なにかない? 九の音が聞こえる。待って。目を凝らす。「あ」部屋の奥に穴がある。細い通路。その先にはきっと部屋。厨房と同じだよ。あっちに。

 ドアを捨てる。ばぁんと、また音が鳴る。逃げろ。水を切って進め。ばしゃばしゃと部屋を横切り、通路を通って隣の部屋。ドアノブに手を掛ける。引くとやっぱり水がなだれ込んでくる。考えなしに廊下へと飛び出す。どっちへ。左右を確かめる。水面が大きく揺れてる。流れに足を取られそうになって、僕は右へと走る。九はいない。よかった。ここはもう駄目。ここにいる理由はもうないよ。ここにいたらいつか見つかる。舟を探さなきゃ。

 階段はどっちだろ。

後ろから視線。ばっと振り返る。誰もいない。九? 気のせい。階段の方に視線を移す。また後ろから九が追いかけてくるよな。一歩一歩波を立てないよに進む。見つかったらすぐ、ずどん。九は後ろにはいない、安心して。自分の動きがひどくのろいよな感覚。僕は立ち止まる。息がのどもとで止まったままでしこりが取れなくて、どうしても息が出来ない。廊下の壁にもたれる。視界は黒く、ときどき、波が淡くきらり。下を向いたまま、息を吸おうとする。九の圧力で胸が苦しい。視界の端で、どんどんと九の白い輪郭だけが、気配だけが肥大してく。ともかく、逃げなきゃ。水に沈んだ廊下の上、足を一歩前に進める。その遅さに、僕はなにかをあきらめる。僕は首を引き上げ、上を向く。息を吐く。殺されるわけにはいかない。心は冷えて、でも顔は熱いまま。大きく息を吸う。死にたくない。そうでしょ? 僕は肩を掴んで引き留める理性を、無理やり引き離して走り出す。水面の破裂する音が、なんども廊下に響く。怖い。怖い。これ、気付かれないかな。そんなことを他人事みたいに考える。逃げろ。逃げろ。暗闇を走り回る。ほんのりと明るい方へ。階段は、階段はどこ。角を曲がる。飛ぶよに進んでく。その先も、真っ暗な廊下が向こうまで。その奥に、かすかに明るい場所。近付いてくる。なんだ。

その前まで、走ると、階段がある。手すり。あっ、た。迷わず上へ。手すりを掴んで、上へ。上へ。泥の水から抜けて冷える。駆け上がる。腕を大きく振り回しながら、振り向く。九はいない。追って来てはいないみたい。小刻みに吐く息が突然目立って、耳に付いて、その途端がくっと足が止まる。僕は立ち止まる。のどもとで引っかかった息がなかなか離れなくて咳き込む。目に涙を浮かべながら、手すりの間から、下を覗く。人は、見えない。大丈夫だ、ひとまずは。いいよ、さっさと上まで行こう。九は下にまだいる。今ならばれずに行ける。昇れ。走れ。


23


 息を詰まらせながら、観音開きの扉の前までなんとか来る。濡れたままの裸足は乾いて、そして冷えた。痛いくらい。なにかで拭けばよかったかな。九が戻ってきたらどう隠れるの。カードキーがあればいいんだけど。

 僕は膝に置いてた手を外して、姿勢を正して、赤いホールのらせん階段を昇って、小部屋から倉庫に抜ける。

鼻をすんと通る匂い。きつく、僕は苦手。まだ天井にぶら下がってる照明がつくにはだいぶ早くて、中は薄暗い。緑の床がやけに目立つ。雑に並べられた大きな灰色スチールの棚。そのすき間から見える壁には一面Mと掲げられてて、僕にはふざけてるようにしか見えない。まったく笑えないし。向こう側の階段の一番上、屋上へつながるドアが開け放たれてる。光がそこから入って、完全な闇からは脱してるらしい。

僕は歩き出す。倉庫を昨日の夜と逆の方へ。水の中に入ってそのあといちいち身体を沈めすぎて、踏ん張りすぎて、膝が痛くなる。順番に巡る。歩いてく。なんで棚を整列して並べないんだろ。どれを下ろそうか。一応乗ってるものすべてに目を通してく。なにも置いていない所ばかりが目について、木箱は前見たときもまばらになってるような気がする。最初来たとき見つけられなかった舟があるかもしれないし。さっき履いたスニーカーが塗り床とこすれて、きゅっ、と鳴る。音が拡散して尾を引く。脱いどいた方が、ばれないだろか。

どの木箱にも文字が書かれてる。黒い文字でAとかBとかプリントされてる。ほとんどがそう。ペンキで長ったらしくアルファベット書き連ねてあるのもちらほら。

とりあえず一つ下ろしてみようか。目に付いた木箱の前で立ち止まる。木箱は棚の一番下に鎮座してて、CHOCOLAT MENIERと印字されてる。ここにあるほとんどの木箱と同じ大きさ。チョコレート? 舟じゃ絶対ない。まあでも。手を伸ばして引き出す。軽い。やっぱりろくなもの入ってなさそう。金具が二つついてて、側面と上面をつないで留めてる。鍵穴は見当たらない。金具を引き上げる。ばちん、ばちん。その途端勢いよく蓋が開く。驚く。中身は、大きめの花瓶、片手で持てるくらいの針金で出来た人型がいくつか、それにちっさな色とりどりのビーズを詰めたケースがたくさん。うん。

僕は蓋を元のように閉めて、しまう。それから、立ち上がって天井を仰ぎ見る。木箱の一つが目に入る。一番上の箱の、側面に大きくBOATの文字。赤いペンキ。珍しく短い英語。目に留まる。ボー、ト。

舟。

舟? この大きさで? でもBOATって書いてあるよ。舟じゃないの。あれだけの小ささってじゃあなんだろ。小物だったりしないかな。多分そう。さっきもチョコ関係なかったし。まあとりあえず取り出してみよか。じゃあはしごを持ってこないと。

ドアの前まで歩く。迷わないよに道を覚えて進む。つきあたりを右、その次を左。またつきあたりまで。九はまだ来ないよね? 九は、きっとまだ下にいる。来るとしたらドアの所から。そのドアが見えてくる。

壁に敷き詰められた大きなMが、一つだけ欠けてて、その代わりに銀色のドアが嵌め込んである。さっき僕が倉庫へと入ってきた扉。

でも、まだ、来ないはず。今来られたら鉢合わせて間違いなく撃たれる。僕は近付いてく。ドアが開いたら、どこに隠れよう。棚が遠くなる。隠れるものはなにもない。一歩、縮める。はしごへと手を伸ばす。顔が変ににやける。なんで? 顔を撫でて、表情を戻す。手は汗ばんでる。一度気付くとあとからどんどんと湧き出す。はしごに触れて、持ち上げて、九みたいにはしごを歩かせるよにして進む。少しだけ、楽しい。

ドアの方に背を向ける。ふざけた内装がまた視界に入る。目にきつい。薄暗い中で、どれも目立つ。その中で浮いてしまった鼠色のスチール棚を、僕は避けながらはしごを両手に持って進む。九のことは一旦忘れる。このタイミングじゃ避けようがない。それよりも。今はBOAT。どこだったっけ。

顔を上げたまま進む。運びづらくて、持ち手を段々と上げて、僕は万歳してるみたいになる。それにはしごに当たらないよに足を広げなきゃいけなくて、すごく歩きづらい。真上を見上げる。棚の高さと並び立つくらいの長さ。なにかにぶつかって転んだら。危ない代物を抱えてるの。

 僕は進む。だいぶドアから離れて、九は、まだかな、なんてことを考える余裕も出てくる。視線を上にあげて、BOATと書かれてる箱を探す。もうすぐ着くよ、って悲鳴を上げだした腕をなだめて、僕はあやふやになった道を足の向くままに進む。

 すぐに赤いペンキで書かれた文字が見えてくる。あいまいだった道順はどうやら正解だったみたい。

 場所を見極めて、はしごを倒し立てかける。これについに乗れる。

昇ってく。一つ足を上げるたび、たわみ、きしむ。視界が変わる。上の方になればなるほど、木箱の数は減って、視界が開ける。

そのうち、頭がはしごの一番上を越して、捕まれる所がなくなる。足を一歩上に伸ばそうとして、上げた足がすくむ。支える腕が震える。下は見ない。

木箱は目の前にある。慣れない匂いがしてくる。ペンキ? まだ新しいのかな。ともかく足をぎゅっと踏板にからめて、木箱に手を掛ける。持ち上げる。

「重たっ…!」

 引っ張る。空中へ。手に持ったまま。体が後ろに倒れて。危ないっ。身体をひねって、手を放す。木箱が僕の横を通って、落下してく。はしごに手を。助けて。伸ばして。ひっかかる。踏板に指がなんとか届く。引き寄せ掴む。ぎんっ、とはしごが鳴る。よしっ。下で重い音。目をやると中身が飛び出てる。木箱の金具が弾けたみたいだ。一安心、かと思うけど浮遊感は続く。なに? も一度、足元をよく見る。はしごが、棚から外れて、垂直に立ち上がってってる。捕まった勢いが残ってた。どうしよう。とっさに体が動かない。なにが危ない。後ろの棚にぶつかる? どうしよう。はしごの角度は急になってく。落ちたら無事でいられない。どうしよう。どうしよう。せめて身を固める。頭を守れないのが怖い。目をつぶろうとして、こじ開ける。目を逸らすのは駄目。本当になにも出来なくなる。心を奮い立たせる。出来ることを。出来ることを。

あれ。はしご止まってる。もう大丈夫? ゆっくり戻ってく。棚の方へ。ぶつかるよね。大丈夫かな。これはこれでまずいかも。とりあえず指を挟まないようにしなきゃ。怖い。反動で飛ばされないようにしなきゃ。

戻ってく。速度が上がる。もうほとんど落ちてく勢い。ああ、まずい。手を挟まないよに、指だけで縦の柱を握る。身構える。

がしゃんっ。反動。身体とはしごが縦に大きく揺れる。精いっぱい指に力を込める。段々とおさまる。ふう。

 下を見る。遠い。この高さから落ちてたら、と思うとぞっとする。床には木箱の中身が広がってる。ひっくり返った木箱のその横に、黄色の、ビニールで出来た大きい布と、少しだけ色味の薄い黄色の短いホース。ボートじゃない? なんだろ。ちゃんと見に行こ。

はしごを慎重に降りる。今ので壊れたかもしれない。きしむその音が、断然、大きくなってる。より慎重に降りなきゃ。視線を下にやって、踏板を体の横から覗いながら降りる。床の緑で目がちかちかする。やっぱり上の方は無理だよ。やっぱり一番下の段のしか取り出せない。

降り切る。近くで見ると、ビニールだと思ってたものは、もっとゴムっぽくて生地が厚そうだ。無地ではなくて、ちょっとだけ灰色が混ざってる。プールで膨らます前の、すいかがプリントされてる安物のボールみたいな。そんな質感。もっと分厚いけど。細長くてきちんと畳まれてる。僕は木箱の方に近付く。木箱に隠れて青い箱と黒い箱が一つずつ。なにやら赤いものや白いものが飛び出てる。操作するつまみだろか。木箱をどける。その下にはさっきの四つとは別に、新しく黄色いビニールと、あとは白い板が落ちてる。さらにちっさなフィンと細いアルミのパイプが二つずつその下に隠れてる。なんだこれ。どういう考えでこれらは詰められたんだろ。黒いフィンを手に取る。足ひれってこんな感じだっけ。でも小さい。足を入れるはずの所がない。代わりにちょっと穴が開いてる。まるで棒を差し込むみたいな。アルミのパイプ。

 オールか。オールのひれだ。ゴムボート。じゃあこれらは舟だ。やっぱり舟だ。九の影におびえることもない。これで出られる。もう九は僕には関係ない。

でも、舟の組み立て方なんて知らない。どうしたらいいんだろ。説明書とかないの。見れば分かるんだろか。あの灰色と黄色の布が舟の本体だよね。どうにかしてまずは膨らませないと。この箱っぽい機械を使うの? なんの知識も持たずに舟を作っても浮かぶんだろか。危なくない? 保険が欲しいよ。沈まないっていう。

 九は、まだ戻ってきてない?

 ドアの方へ視線を送る。かろうじて、ドアの銀色が見える。ここからは結構距離がある。僕は階段の方に目をやる。屋上へまっすぐ進んでくれるなら、僕には気付かないよ。うるさくしなければ。足跡も残ってないし。

あ、でも、はしご。僕は首を真上に上げる。銀のはしごが棚へと、もたれかかるよに。ドアの横にあるべきはしごが今はない。それでばればれだ。戻してこないと。立ち上る。一瞬外した視線を戻す。あれ。しゃがんでたときと違って、はっきり全体像が見える。でも、明らかに、遠い。この距離をまた歩くの。

ねえ、今すぐここから抜け出そよ。はしごでばれるのはしょうがない。これだけの荷物を外に運び出すだけで、もう大変だよ。隠れてる人のしたことだって九が勘違いしてくれる、かも、しれないし。

ぴぃぃ、と音がして、びく、って自分でも驚くくらい大きく身体が反応する。聞こえた方向にそっと顔を向ける。外。階段の方のドア。また風が強くなってるみたいだ。棚の最上部と、ほとんど同じ高さ。なんでドアが開きっぱなしになってるんだろ。陽の光が、かすかに赤みがかってる。九が閉めなかったんだろか。

あそこに隠れてる人がいるなんてことはないだろか。それなら、僕は顔が見てみたい。九のことを知ってるかもしれない。なら、聞きたいことが。早く出ないと九が帰ってくるよ。でも、いるかもしれない。階段の方へ一歩足を進める。歩いてく。あの先にはきっと誰かいる。薄暗い倉庫の中、棚の間を縫うよに進む。九だったらどうするの。僕の方が先に倉庫の方に付いたに決まってるし、金網の方をわざわざ通りたがりはしないと思う。壁のMが近付いてくる。それに九は怖がってたし。外から陽の光が直接差して、やっと視界がはっきりする。ここは、倉庫。一度辺りを見回して、そのことを再認識する。それに、九が開けっぱにするとは思えない。風に押されて開いただけ?

僕は階段の前に着く。Mのピンクを撫でる。冷たくて、すぐ指を離す。そろりそろりと、階段を昇ってく。今、九が来たら、どうしよか。待ち伏せよか。奇襲すれば勝てるのだろか。がん、がん。重たい音が足元から。腐食してる金属の出す、人をびくつかせる音だ。

デッキまで昇り切って、開いたドアから目だけを出して、外を覗く。誰もいない? 大きくなりすぎたたき火が、ごうごう、と燃えてるだけ。あれ。外に首だけ出してみて、ドアの裏にも回ってみたけど、誰もいない。

 九が開けっ放しでここを出たってだけのこと? なんだ。

 僕は踵を返して、階段を音を立てないよに降りる。反対側の、ドアに目線を送り続ける。九はまだ来ないのだろか。とりあえずここは危険。どこかに逃げないと。どこへ逃げるのが正解なんだろ。がん、がん、と重たい音。今ごろ九は血眼になって躍起になって僕を追ってるんだろか。僕が動かした椅子は気付かれただろか。僕は倉庫に意識を戻す。ここでも案外気付かれないんじゃない? 荷物は少ないけど、整ってはいない。乱雑さの中に身を潜ませられる、はず。でもそのつもりならはしごを戻さないと。それに、ここで組み立てるつもり? ここに水が来ないと、使い物にならないよ。じゃあ外へ投げ込む? 思考は一足飛びで巡ってく。ねえ、これ、その前に使い物になるの。実際やってみればいいじゃん。これがボートって確証もないわけだし。ここを出てからやろ。なにが必要かなんて水に浮かべるまで分からないもの。入ってたものは、だから全部持っていこう。九が倉庫に来てもここでじっとしておくのは、さすがに耐えられない。どこに運び込もうか。九がもう探していそうな所。そういう所に隠れるのが一番楽。


24


部屋の中は暗い。窓のない部屋だ。棚が部屋の壁を全部埋めてる? よく見えない。なにがあっても関係ないよ。くるっ、とその場で半ターン。ドアノブに手を掛け丁寧にドアを閉める。そのままそこで張り込む。ここで聞き耳を立てて、九が通るまで待つの。

耳をそばだたせる。目を閉じる。

ここはホールの観音開きの扉の、その真向かいにある部屋。ここなら九は探してるはず。ここを通って九は屋上へと行くはずだし。

部屋の向こうの、廊下の物音に意識をやる。廊下を誰か通ってたりとか。それらしき音は聞こえない。かすかにぱきっ、と物音が。ずっと。誰? 人の気配はない。これがラップ音とかいうのかな。変な匂いのかたまりが。漂ってる。粉っぽい香水。どこから? 悪臭。目を開ける。木の軽いドア。誰かの気配が後ろから、

「なあ、」

「うわあ!」

 手を肩に置かれる。中に人がいた。高い声。振り向き、拳を固める。身構える。先手必勝。九のときとは、僕は違う。

「大声を上げないでよ」

女。かえり? シルエットしか分からない。暗闇から一歩詰めてくる。途端に霧が消えたよに、その人の全身が見えるよになる。大きい目。髪がかすかに栗色。茶色のダッフルコート。ファーが付いてる。それに黒地に花の飛んでるスキニー。なんでか上品。隠れてた人。かえり。メイクはしてない。本物。この人だ。人工的な花の匂い。造花がまき散らしてるとしたら、こんな。遅れて汗と脂の匂いがきつく漂う。女のそれだ。でもこの匂いは不快。香水じゃ隠せてない。僕もお風呂にはずいぶん入ってないしこんな匂いがするのかな。でもこれは、さすがに、ひどい気がする。

「ごめん、ね?」

 年上なのか、年下なのかはっきりしない。服装は年のいったおばさんのそれ。でもおばさんらしい仕草は一つも見せない。顔の、肌の感じとか、若くはあるはず。壁を見えなくするくらい、たくさんの本棚と、そこを埋める小さな本の背中。暗闇の中で、その白さだけが浮かび上がるよに見える。それを背景にして、おばさんみたいな子どもが、こっちに視線を送ってきてる。僕は少しだけ、どきまきする。この子も、着れる服がないだけなんだろか。

「これじゃあ隠れてても意味ないし。いい機会だし」

かすかにしわがれた声でかえりがそう言って、それから口を閉じこっちを見る。そっちから切り出しなさいよ。そんな目。そういう目は、少し苦手。

「あなたがかえり?」

 圧力に負けて仕方なくそう聞く。

「そうだよ」

 自信ありげ。かすかに胸を張る。あの死体はやっぱ関係ないか。日記が遺言だって考えられなくはなかったけど。

「生きてたんだ」

「どんなやつならあの流れで死ぬの?」

 かえりはすぐ答える。前髪を軽く中指で触る。

 薄暗闇の中でかえりがあごを少し、引き上げる。にやついた目をしてる。

この人が、かえり。

ドアの外に意識をやる。物音はしない。九はまだ、ここに来てない。

「日記を僕のバッグに入れたのもあなた?」

「九が入れたと思ってたでしょ」

 笑いをこらえてるよな声。なにがそんなにおかしいの。

「いつ?」

 僕はこらえて質問を続ける。

「なんでそのコート着てるの」

かえりは無視して、突然僕を指さす。声が突然平らになる。僕はひやっ、とする。間合いが取りづらい。弾まない。

「借りたけど」

 なんとか答える。

「女の子から奪った? 死んでる子の」

 かえりは有無を言わせない、強い口調で問い詰める。

「まあ、そう」

 僕はたじろぎながら、うなずく。表現が過激。

かえりが暗闇の中に引っこんで、はっきりと見えなくなる。また沈黙。

「知り合い?」

 とりあえず思いつく質問を投げてく。なにが目的かさっぱり分からないけど。

「そう。この前までずっと一緒にいた人」

 あれ。そんな人、日記帳にいなかった。

 かえりは一歩も動かない。僕は少しだけ後ずさりして、ドアノブに手を掛ける。ここなら、かえりからは見えないはず。九の目を見つめながら、ドアの先に気配を探る。外に、九はいない。

最初から、かえりはここにいたんだろか。僕らがここを通るたび、かえりは聞き耳を立ててたんだろか。

「死なれてちょっと精神的に来てたってのに」

 かえりはそう続ける。

「ごめん」

「謝ればいいって問題じゃないって」

 はあ、と溜息をこれ見よがしに吐く。

 また会話が途切れる。かえりはくるりと僕に背を向けて、部屋の奥の方へと歩いてく。部屋は全部の壁に本棚がくっつけてある。正面の本棚の前に行って、かえりは本の背に指を当てて、撫ぜながら左へと歩いてく。しゅしゅしゅ、って軽くこすれる音が鳴る。

「ねえ、いつ」

 僕は急かす。僕のバッグにいつ日記を入れたの? かえりが、なに? って動きでこっちに顔を向ける。首がねじ切れるくらいひねってる、辛そうな姿勢。

「あなたがバッグを落としたから、私はその中に日記帳を入れただけだよ」

「なんでそれを九が拾ったの」

 そんなことは知ってるんだよ。

 かえりは僕の方に身体を向ける。目の前の女の方が、少しだけ背が高い。九が僕と目を合わせて、なにかを察したって顔でにやつく。頭を低くして、僕の顔を覗き込む。

「偶然じゃないよ?」

「だからなんで」

「手紙をバッグの横に置いといたの」

 かえりが浮ついた声で、見せびらかすよに言う。手紙。日記帳の裏に挟まってたあれ? あんなもので人が釣れるものだろか。

「なんでこんなもの僕に見せたの?」

 僕は後ろ手に隠してた日記を、かえりの足元に投げる。ぽて、ぽて、と跳ねてかえりの靴の先に乗る。かえりは微動だにしない。そのまま表情を崩さず棒立ちでこっちに目をやる。

「読んだ? ちゃんと隅から隅まで」

そう言う。ほんの少しだけ微笑む。怪しい優しさが声の端々に現れる。

「最初の方は読んだけど」

「読んでくれればなんであなたにあげたか分かる」

 九はそう言って、同時に片手で自分の腰に手を回す。そのまま優雅にお辞儀するみたいに身体を倒して、同時に腕を伸ばして足元に投げられた日記帳をそっと拾う。ゆっくりと上体を起こしながら、ぴ、と日記帳を僕に投げる。

 予想外のタイミングで日記帳が飛んできてびっくりするけど、なんとか取れる。あわてた心となかな腕の中に納まらない日記帳がやっと落ち着くと、かえりがこっちを見てるのに気付く。聞いてた? ってそんな顔。

「…分かった、読む」

 ゆっくりそう口にする。

「読んで、今」

「え」

「すぐ」

 かえりが僕の目を見て、こっちに寄ってくる。僕は後ずさりして、背中が壁にぶつかる。彫り込み。ドア。すでに僕は部屋の隅だ。逃げる場所がない。かえりが一歩、近付いてくる。

「そう言われるといやだ」

 あわててこれ以上なにか言われる前に、その言葉だけ口にしておく。言ってすぐ、会話の糸口を与えただけだったかも、って今の台詞を取り消したくなる。

「そ。じゃ、仕方ない」

 かえりは僕の格好を見て、ふんと鼻を鳴らして、大人しすぎるほど大人しく引き下がる。ほんの少しだけ肩をすくめて、部屋の奥の方へ、黒いもやの中へ引っ込む。僕はドアノブに掛けてた手を身体の前に戻して、指を固める。

「九になにしたの」

 そう口にして腕を視線の前で軽く振る。一歩、部屋の内側に踏み込む。

「私が九になにかしたってなんで決めつけてるの?」

 かえりは薄笑いを浮かべて、とぼける。

「なんで僕のことまでかえりって呼ぶの?」

 は。

「今そんなことしてるの九」

 笑う。

 かえりは後ろに下がってく。こっちを向いたまま。ひたひた、と声になりきらないかえりの喉から漏れ出す音が部屋を埋める。

「こっちを見て。質問に答えて」

 あなたなら知ってるんでしょ? 僕に本当のことを教えて。

「いいじゃん、面白いし」

 笑いを殺しながら、かえりはそう言葉を発する。

 本棚に手を掛けて、何冊か、床にばら、ら、って落とす。

「そういうことじゃない。質問に答えて」

 僕にはさっぱり面白くないし。も一歩、かえりに近寄る。気をそらされちゃいけない。この人がかえり。きっと九と同じよに知ってる。ちゃんと問い詰めなきゃ。黒いもやの中から、絞った声でかえりが、

「九って面白い子だと思わない?」

 って真面目な口調でささやく。

 それからにやり、と目だけ笑って、寄ってくる。

 もやの中から白い手のひらが、作り物めいた毛皮の付いた茶色の袖が、蒼白なかえりの顔が、順に現れる。

「答えて」

 かえりはもう僕の前。香水の香りがむっ、と。造花、だこれは。

「気付いてないの?」

 かえりはさらに顔を近付けてくる。僕は避ける。耳元に息が掛かる。

 気付かないの? うるさい。

「なにに」

 逃げたら、きっとなにも。僕は両手をぎゅぅぅ、って握る。身を固めて、かえりの声を待つ。

「私の名前はかえりだよ」

 それがどうしたの、と瞬間言いかけて。

 新しいかえりが来る。待ってて。そんな感じの文章だったはず。それは目の前のこの子の言葉。かえりの言葉。

「手紙のせい?」

 それで僕をかえりだと思ったってこと?

「そう」

 かえりは軽くうなずく。ぼんやり開けてる口がそれにつられて揺れて、目立つ。

 それだけのことで?

「九はおかしいって気付かなかったの」

 こんなに見た目も、声も、きっと心も、まったく違う僕とかえりを見分けられなかった。そんなことあるの。僕はこれと同じように見えてたの。

「私の価値の方が上だったの」

 かえりがぽつり、と言う。

 視線を壁の方にやって、本棚の方へ、僕に背中を向けて、動く。高笑い。どこか優雅。

「なにがおかしい」

「あれだけで九がそんなことするなんて思わなく、て、ね」

 咳き込む。こっちを見る。黒い靄の中で、笑顔のまま。

その細め切った目に引き込まれる。

「楽しい?」

 僕は突き放す。

 かえりは、ぺた、と口を開いて、また閉じる。舌なめずり。かえりの喉からまた、心のすき間にそのまま忍び込んでくるよな音が漏れる。

どこからその余裕はくるの。

「楽しいよ。ああ、気持ちいい」

 かえりはまだ笑ってる。押し殺してるけど、静かにならない。

「変だよ」

 僕はそうつぶやく。

「ねえ、変だって」

 かえりは押し殺して笑い続ける。

「かえり、なんでそんなことしたの」

笑うな。かえりは我慢できなくなったようでまた大きな声で笑う。

「そんなことがなにになったの」

 笑うなよ。

 まだ笑ってる。

「どうして、そんなこと」

僕は声にかぶせても一度聞く。かえりが僕のバッグに手紙を添えた理由。

 かえりは黙って、うつむく。背中を丸めて精いっぱい伸ばしてるよな、そんな体勢。苦しそうに天井を向いて、息を一つ吐いて、それで一気に吐き出すよにまた笑い出す。止めない。顔を上に向けて、それでも視線だけはこっちを見てるよな気が。やめろ。見るな。私は幸せだ。こっちを見てない目がそうほのめかす。見せつけるな。九は私のものだ。笑い声でそう告げる。なら、僕に構わず持っていって、勝手にしてよ。我慢するから、ね? 耳を塞ぐから。ゆっくり息を吸って、僕はそっと、諦めてく。

「九を知ってるみたいに振舞わないで」

「ほ」

 やっと止まる。こっちをゆっくりと首を回して見る。

 ついにかえりが驚いた。一矢報いた。

「へえ?」

 かえりはでもすぐ、つい横っ面をはたきたくなるよな、元の顔に戻る。

 違う。あなたはかえりじゃない。こんなものを僕はかえりと認めない。こんなものを、九が慕ってたかえりだなんて。

「あなたも九からかえりと呼ばれてるんだよね? へええ」

 その顔をやめろ。

「なに? 九とまだそんなに長くいるわけでもないのに? そんなことを? へえええ」

 口角がどんどん上がってく。眼が細いまま皺が寄って固まる。

「あなたもそんなに長くいるわけじゃないじゃん」

「本当に日記読んだの? ああ、書いてなかったかもね、そういえば」

 なにを言う気。いやだ、黙って。

「九はここに通ってきてたんだよ? わざわざ」

「あなたはかえりじゃない」

 瞬間的に返す。こんなものと。こんなものと一緒にされてたまるか。

「九は二日と開けずに来てたよ。暇を見つけては顔をほころばせて。息を弾ませて」

「黙れ」

 これはなにに対する怒り?

「大変だと思うよ。わざわざ階段を昇ってくるの。それに途中から私おこもり始めちゃったからね。買い物とかご飯とか増えちゃって大変そうだったけど。九は甲斐甲斐し」

「九をどうやって騙した!」

 叫ぶ。

「私はなにもしてないよ」

「そんなことがあるわけがない!」

「私はどこも飾ってなかったし、猫を被ってたわけでもないんだって」

 かえりは少しだけ口をすぼめる。

「じゃあなんであなたなんかに、あなたなんかに九が釣れる!」

 うるさい。これはかえりじゃない。僕はこんなのじゃない。

 かえりはそれに顔をしかめて首を下にひねって後ろの方の髪をいじって、言う。

「あんたなんかに、ねえ。私に聞かれても困るよ。九に聞いてみれば?」

 九に。その単語にひるむ。会話は勢い。もう無理だよ。僕は、息を吸って、

「聞けたら困ってないよ」

 ゆっくり口にする。落ち着こ。

「勇気がないの?」

「ない」

「意気地なしだねえ」

「なんとでも言って」

 もう九に会うことは出来ない。お別れだ。

「そう。まあ日記読んでね。九によろしく」

 かえりは唐突にドアを開けて部屋を出てく。外に誰かいるって確かめもしない。

「まっ、」

待ってと言いかけて、黙る。

九は廊下にいないの? いたら、今声を出したら巻き込まれるよ。

 でもかえりは振り返る。

「なに?」

「九は、」

「九が?」

 なにを話したかったんだろ。

「ううん、なんでも。早く行って」

「早く、ねえ」

かえりは口を曲げて、そう言ってそれから出てく。足音もなく。気配がすぐ消える。廊下を左に行ったと思うけどすぐ自信がなくなる。あいまいになる。追いかる? 脂と香水の混ざった残り香はうっとうしく絡みついて消えない。

とりあえずこの部屋から出よう。隣の部屋でも、この扉は見張れる。それで、その部屋にBOATの箱に入ってた荷物を持ってきて、組み立てながら九を待とう。僕はドアの外に聞き耳を立てて、ゆっくりドアを開く。かすかに明るい廊下から部屋の中へ光がなだれ込む。


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