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九は元々食糧入れだった大きい草色の布袋を首の後ろで担いでる。九の後頭部はほとんど覆い隠されてて、コートと同系色なのもあって、後ろから見ると着ぐるみたいだ。
「九」
赤い絨毯が奥まで伸びてる。背の低い着ぐるみがきびきびとした似合わない足取りで進んでく。厨房はもう抜けた。もうすぐでホール。僕は置いていかれないよにするのが精いっぱい。肩に乗せてる服の束がずり落ちかけてそのたび少しずつじりじり引き離されるから、僕は思わず呼び止める。
「なに?」
九は首だけ振り返る。両手に薪。声がうわずってる。僕も両手はふさがってるけど。表情はよく読み取れない。なにかいいことでもあった?
「そういう諸々ってどこで知ったの」
聞きたかったことをついでに聞く。
「なんの話?」
九がこっちを向く。奥に行くほど廊下は暗くて僕は目を閉じる。慣らさなきゃ。
「紐の結び方とか、のこぎりの切り方とか、火のおこし方とか」
目を閉じたまま思い出しつつ答える。
「知ってて当然のことなんじゃないの」
九は滑らかに言葉を吐き出す。
「少なくとも男は」
僕が黙ってると九がそう続ける。威張った所のない、事実をただ突きつけるよな言葉遣い。僕はたじろぐ。そんなことはないと思うけど。
「別に知らないことに不満はないよ」
そんな話がしたいわけじゃないの。
会話が止まる。九はまた踊り出す。たたたったたった。
それに僕は女だ。見ればすぐ分かることだけど。九も分かってるだろけど。
九の足取りはまったくゆるまない。なんでそれで進めるの。足元を見つめてると、タップ音に合わせて九が鼻歌で歌いだす。耳慣れないメロディだけどなんて曲だろ。
「気分いい?」
「いいけど、どうしたの」
九は足音を立てたまま、こっちに顔だけ向けて進む。前見ないと、顔から倒れるよ。
「いや、鼻歌歌ってるから」
僕は九の代わりに九の足元に目を凝らす。やっぱりまだ暗闇には慣れない。鳥目なのかな。
「悪い?」
九が僕の視線に気付いて顔をちらと前に戻す。少し、声が尖る。
「悪くはないけど」
九はまたこっちを向く。僕は目を合わせられない。
「じゃあ、いいじゃん。別に普通だよ」
進む。九は一度も振り返らない。観音開きの扉の前まで来る。九が背中で扉を押す。扉がゆっくり動く。
「やっぱり、開くよね」
僕が口にして、二人で赤いホールの中へ入ってく。派手な壁。ホールの真ん中に奇妙な淡い黄色のらせん階段。窓から強く差し込む陽の光。目が痛い。僕らは部屋の真ん中へと歩き出す。太陽は不安定で、らせん階段に昇り始めるまでにもう数回、顔を出したり、陰ったりが入れ替わる。九が踏板に足を掛ける。上へ。着ぐるみたいな背中がひょこっ、ひょこっ、と昇ってく。
「どうしたの」
着ぐるみが振り向く。僕は階段を昇る直前に足を止めてたみたいで九はもうけっこう上にいる。踏板の下から覗き込んでくる。太陽が雲間に引っこんで、九の顔は陰に落ちる。こっちを向いてるのに着ぐるみみたいだ。
「昇ってこないの」
僕はらせんの踏板に足を掛ける。
昇り切って、小部屋の柵を回って倉庫に出る。
灰色の棚を縫うよに進み、まだ暗い倉庫を通って階段を昇り、ドアを開ける。風。外には石張りの床に紐から解いた薪が撒いてある。ふわり抜けて、僕は屋上に一歩出る。人はいない。HELPだったはずのパイプがいびつなまま、向こうの隅の方に寄せられてる。壁が風景の中飛び抜けてる。風はだいぶ弱い。かすかにそよいでフェンスを小さく鳴らしてるくらい。日もまだずいぶん高い。いくらかだけだろけど、過ごしやすそうだ。空は白くて、それにしてはのっぺりとしてて、雲が全体にかかってるのか、たまたま青じゃなく白く見えてるだけなのか、どっちだか分からない。
九は僕の横をまたすり抜けて、ひとつの薪の前にしゃがみ込む。僕に小さな背中を向ける。こっちに目をちら、と向けて、そばに下ろした緑色の袋からくしゃくしゃの紙を取り出して、僕に向かってふらふらと振ってみせる。
九はそれを引っ込めて何やら作業を始める。僕は一面に撒いてある薪を踏まないよにまたいで、九と距離を保ちながら周りを半周する。途中で、持ってきた服を九のすぐそばに下ろして手元を覗き込む。床に紙を積んでるらしい。僕は九の正面に陣取って、毛布を首から解いて、床に敷き両膝をその上に乗せて、座る。九は丁寧にバランスを崩さないよに丸まった紙を置いてってる。
突然風が強く、びびゅう、と吹いて、僕は舞う髪を押さえつける。風が入り込まないよに首元を絞る。九はとっさに紙を背中で覆うけど、もう手遅れで、持ってきた紙は右へ、転がってフェンスに貼り付く。ばしゃ、とかすかに紙のつぶれる音がする。
「なにか手伝えることある?」
視線を戻してうつむいてる背中におずおずと聞く。寒い。毛布を広げて羽織ろ。
「ないと思う、けど、ここにいて」
九の声は風に流されてはっきりとは聞こえない。その言い方はどうなの。
「いいじゃん」
九は僕の顔を見て答える。それから目線を戻してまた紙を積み始める。片手で押さえたまま、より慎重に組んでく。僕は一度立ち上がって毛布を広げて、体に巻き付けてまたしゃがむ。鼻までうずめて、目だけ。表面に染みこんだほこりの匂いが心地よい。でも目に少しだけ痛くて僕は顔から毛布を離す。顔を上げて目で九の動きを観察する。ショッキングピンクの薄いカーディガンを一枚手に取って、積んだ紙の上にそっとかける。ピンク色の微妙に凸凹した丸い物体。今は石の下へ潜り込んでる所。珍妙な生き物。横に四つ並んだボタンが目。床へと垂れるピンクの袖が触手。そんな想像がひと通り頭を巡る。風が吹いて、袖が少し持ち上がる。
「あ、本使わないと」
九が手を伸ばして作ったものをさっと崩して、その手が止まる。生き物は消え、目のちかちかする桃色の羽織りものがそこには残る。九は顎に手を持ってく。袋から分厚い本を取り出して、真ん中あたりで開いてページが下を向くように床に置く。その上にさっきと同じように紙とワンピースを置く。
「で、この周りに、薪を」
ピンクの球体の真上の一点から放射状になるように、薪で囲う。未確認生命体をついに捕らえた、三角錐の籠。そんな見た目。触手を外へと伸ばし出たがってる。どこに連れて行こうか。こういうのでもいいのかもしれない。言葉はしゃべれてくれないと困るけど。こういうのが本当にいたとして、九となにが違うんだろ。悪い人、人じゃないか、生き物かもしれないよ?
「こんなのでいいの」
僕は想像を断ち切って九に聞く。大きく声を張って、風とピンクの生き物との妄想の旅を弾き飛ばす。見ると、九は立ち上がってる。こっちに視線を合わせて、
「火をおこしてから考えればいいよ」
と言う。九はポケットからライターを取り出す。九の向こうの、白い空の下にある、木の迷路の、その緑が重たく映る。そのまま蓋を爪ではじいて開ける。歯車みたいなのを回してじゅぼっ、と火がつく。大きくその日が揺れる。重たそうなのは風がそれなりに吹いてるのに揺れてないせい? 九は片手に持ったまま、しゃがむ。たき火の前に持って行き,ピンクの膜を少しめくり、中の紙に火を当ててるらしい。僕はたき火の横をお尻を引きずりながら移動して、九の手元が覗き込みやすい場所に移る。九の右隣。僕が目をやるとすぐ、ライターを引っ込める。紙がずんずん黒くなってってる。九はすぐにワンピースで閉じて蓋をする。そのまま火元を見つめながら片手間にポケットにライターを戻して、いきなり顔を上げる。
僕を見つめる。はっきりしすぎてる目元。あれは目のくまなんだろか。もともとなんだろか。目を合わせながら、僕は指で自分の目の下あたりをなぞる。
「うちわとか、ないよね」
九が口にして、僕はうなずく。
「じゃあ他の服で、あおぐ」
そう言って背を向ける。僕の持ってきた服の山から九が灰色のYシャツを引っ張り出してこっちに見せる。目の前で襟の所を折って畳んで、うちわのような片手で持ちやすい形を作る。
「放置してたら駄目なの」
「火が大きくならない」
九が口にすると、ちょうどピンクの生き物からめらっと、火が出る。そんなものなのかな。ピンクの皮膚がとろける。
「やっぱか、燃えやすいよね」
太陽が、陰る。石張りの屋上は灰色が覆って、風が強くなる。
「駄目なの」
かき消されないよに声を少しだけ張る。
「新しく足さないと」
九はそう言って、ライターをまた取り出す。
僕から逃げるよにたき火の周りを四つん這いで移動しながら、ライターの火をじゅぼっ、とまたつける。僕の正面に着いて、しゃがんでなにかする。
「本に火をつけてんの」
九が視線に気付いて答える。火元から視線をずらさないで、口だけを動かす。そのまましばらく突っついて、やっと火がついたらしくて、九は立ち上がる。
「これで多分つくはず」
僕は見上げる。九は僕を見つめ返す。
「放置でいいの」
「毛布燃えないように気を付けて」
目をやる。床。近い。燃える。すぐ手を伸ばす。端をつかんで遠ざかる。
「あ」
離れた途端寒い。風が冷たい。目を閉じ、毛布を鼻のあたりまで上げる。毛布の中に息を吹き込む。目を少しだけ開けて、上を向くと上の屋上庭園のへりが見える。汚れて、白がくすんでる。背後には壁? もたれる。それから九の方を向き直ると、燃えてるピンクが触手を振ってくる。視線を上げると灰色の壁が見える。あの辺りにはまだ雲がかかってないみたいで、陽に照らされて輝いてる。空が白い。
ああ、やっぱり遠い。
僕はたき火に目を戻す。たき火が光って九の顔と膝だけが、ほんのり橙色に明るくなってる。
「ねえ、九、これ暖どうやってとるの」
僕は尋ねる。風が吹いて、首をすくめると、九も同じよにして、少しだけ笑う。
「毛布から離れて」
九は首の位置がやたら下がった姿勢のまま、僕のかぶってる毛布を指さす。
毛布の余った部分が石張りの床に広がってて、風でぴくん、ぴくんとはためく。
「床冷たいと思うけど」
「暖まってるよ、その頃にはきっと」
九が火に当たったまま口にする。
僕は視線を逸らす。色の抜けた森と空の方を見つめる。すぐそっと九に視線を戻す。横目で、ばれないよに。九は飽きもせずたき火をまた見つめてる。なにもせず、ただ紙とワンピースを握りしめてる。その手を、その目をじっと、気付かれないように、にらむ。もう見てはいない。
ホールへの扉に鍵が掛かって、また開いたこと。じょうろ。衣装部屋のドア。僕ら以外に誰かここにいる。隠れる場所はいっぱいあるし、見つからないよに行動するのは多分できるはず。
耳元でなにか鳴る。風。まだ陽射しがあるしそこまでじゃないけど、どんどん寒くなるんだろ。やっぱり帰りたい、って僕は囁く。
なぜ一緒に行動しよう、と言ってこないんだろ。僕らと協力しない方がいい理由がなにかあるのか、な。食糧をたくさん持ってる、とか、外に出たくない、ここにとどまり続けた方がメリットが高い、とか。そういうことなんだろか。誰かに会いたくなるって感情より、実利の方が大事だって考えてる人。孤独が怖くない人。相手も僕らみたいに二人だったりするのかもしれない。
九は火をまだじっと見てる。本に火が回り出してる。煙が上がる。九がなにかぶつぶつと言ってる。あれが薪に移らなければも一度だ。そういう類のこと。
僕は目を下ろし、屋上の床を見つめる。石張り。僕は身体に巻き付けた毛布から手だけをそっとのぞかせる。手でそっとなぞると、砂のような細かい粒子が手に付いた。
日記は?
石と石のつなぎ目に指を当てる。雑草の小さな葉が出てこようとしてる。
あれを入れたのは誰だろ。なんとなく九ではないと思う。他の誰か。隠れてる人? なんどもその上をなぞる。あの死体の女の子じゃない、違う? 隠れてる人が入れたなら、やってることがちぐはぐ。僕らから隠れといて、なんで僕に自分の存在をアピールするの。そのうち葉はつぶれて、葉先がつなぎ目に緑の線を引く。私はここにいるって、僕にだけ伝えたかったんだろか。汁が指に付いて、砂で拭きとる。僕と文字だけで知り合いたかったんだろか。そもそもいつ入れたんだろ。このバッグは全然手放してない。入れるタイミングがあったとすれば僕が落としてから九が拾うまで。どうしてそのタイミングで僕のバッグに放り込むの。九が拾う保証もないのに。
手遊びするものがなくなって、僕は毛布の中で膝を抱える。
なにかおかしい。じゃあ九? 拾ったんだしいつでも入れられるよ。でもなんで。九以外の誰が書いた日記なんだろ。これを僕に渡して、それでどうしたいの。僕と九は知り合いなはず。じゃあ僕がこの字を? 僕にその記憶はないけど。でも思い出すな、って九は言った。思い出しちゃいけないはずなのに。これもやっぱりおかしい。
僕は足先を毛布から出して靴を見つめる。オレンジに輝いてる。
ピンクの生命体が焼ける。風が吹いて、カーディガンのボタンの目が、一度かくっ、と傾いで、ずざあっ、と一気に崩れる。九があわてて緑の袋から新しい種を取り出す。
「あ、ついてる」
九が声を上げる。そう口にしたまま薪の三角錐の中に、急ぎ急ぎ紙と衣服と放り入れてく。なにやらすき間を作ってるようだけど、仕組みが分からなくて僕はただ見てるだけ。たき火の形はどんどん崩れてって、三角錐の籠も消えてく。火は一度消えかけて、それから、スイッチを入れたみたいに大きく燃え出す。
九はそのあともだいぶいじって、そのうち満足したよに息を吐く。手をゆるめて、こっちを見る。ずいぶん高さのない円錐が燃えさかって九の手の先にある。
「行くよ」
九は突然立ち上がって、僕の手を掴んで立ち上がらせる。「後ろ向いて」って囁いて、僕はドアの方を向かせられる。
風が吹いて九がよろけて、僕も腕の支えがなくなって転びかける。
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また薪と紙と服を持って、屋上へと戻ってる。相変わらず着ぐるみみたいな九の背中を追って、僕らは鼠色の棚の横を進む。隠れてる人はこれ以上なにかするつもりはないらしくて、行きも、帰りも、まったく邪魔は入らない。大砲みたいな金属のかたまりが通路に飛び出してて、またぐ。きっ、ってかすかに靴と床がこすれる。隠れてる人は、僕らを閉じ込めるつもりがないんだろか。なんだか、薄気味悪い。棚をそのうち抜けて、壁が近付いてくる。大きなMの文字が薄いピンクで壁に敷き詰まって貼られてる。階段がその壁の前を横切ってる。手前で九は止まって僕に先頭を譲る。倉庫の階段を昇って、屋上に出る。たき火はまだ健在。フェンスに囲まれた隅の方、折り重なるよにパイプ。床の上に撒かれた薪はもう十分あると思うけど、九から見ると全然足りないみたい。どれだけ大きいものを作るつもりなんだろ。
たき火を避けて歩いてって、九は奥の方へ行くみたいだ。
「九、なにか手伝えることある?」
「ない」
むげにされる。九はそう言いながら、たき火のすぐそばに腰を下ろす。僕と九の間にちょうどたき火が入る。
僕は首の所で縛って垂れ下げといた毛布を解く。二つ折りをゆっくりと広げて、片から羽織ってだらしなく床まで毛布を垂らす。
「じゃあ、ここでまどろんでていい?」
毛布を撫でつけながらたき火を挟んだ正面にしゃがみ込む。いいよね? 返事は聞かない。床に垂らしてあった毛布の端を身体に掛けて全身を覆って、僕は勢いよく背中を後ろに倒して屋上に寝そべる。そのまま頭を床に打ち付けて痛い。毛布で頭を覆って、僕は青い視界の中で息をする。目が痛くなる前に目を閉じる。手を枕にして、眠りにつく。
あったかい。風もここまでは入り込んでこなくて、頬をこする毛の感触が柔らかくて気持ちがいい。静か。日はまだ少し強くて、まぶだの裏が少しだけ、白い。僕は余った方の腕で目元を隠す。身がよじれて、毛布が膝とお腹の上からはがれ落ちる。
いつ日記は僕のバッグの中に入ったんだろ。
僕は床へと落ちた毛布の端を手探りで見つけて、より一層深く、掛け直す。
目を開けると、ほこりと、青。上から陽射し。すぐまた閉じる。
多分、僕は九に渡してもらってからここに来るまで一度もバッグを手放してない、はず。色々ありすぎて思い出せないから自信はないけど。最初に九に拾われてからそれだけは気を付けてたし、多分、入れるタイミングはない。じゃあ九が見つける前? じゃあなんで九がそれを拾うって分かってたんだろ。ううん、それだけじゃない、なんで僕に返すって分かったんだろ。九はなんでも拾う子じゃない。ポケットから出てくるものは確かに色々だけど、必要なものだけで、がらくたをなんでも拾ってるわけじゃない。このバッグだけを拾って持っておいたのは、じゃあなんでなんだろ。
やっぱりあの日記は僕のなんだろか。忘れてるだけで。
それはおかしいよ。僕はこんなものを持ってた記憶なんて絶対にないし、そもそも僕の記憶は欠けてない。欠けてないはず。なんど思い返しても僕の記憶は飛んでない。九が言うには僕と九は知り合いらしいけど、僕にそんな記憶はない。
とりあえず、日記をちゃんと読もうか。ここで開けば九にも確かめやすいだろし。僕は身体を起こす。
「かえり、こっち来て」
九がすぐ声を掛けてくる。手招きする。
石の屋上にくっきり浮かんだ影がそれと同じように揺れる。
僕は毛布を手放さず、近寄る。
「毛布燃えちゃうよ」
「燃えないようになんとかならない?」
そんなのじゃ、きっと背中がどうしようもなく寒いのだ。
「じゃあここに座って」
九は火をちらりと見て、僕の手を引っ張って、九の正面より少しだけ左にそれた所で肩を真下に押される。座れってこと?
僕は火を見つめる。火の舌が風で撫ぜつけられて、ちょうど左から右へと流れてく。風向きとたき火の線上から外したみたいだ。
「ありがと」
僕は腰を下ろす。火に近付けるのは怖いし、火の近くにせっかくいるんだし、って前をはだける。
「かえり」
よく見るとたき火はいつの間にかまた形が変わってる。木材がキャンプファイヤーのように組まれて、円錐の木材たちはその中に収まってる。
「どうしたの」
顔を上げずに返す。
「ねえ」
僕らは火を取り囲むように座ってる。火の向こうに九、その向こうに壁。左にHELPだったはずの文字。広がる薪に追いやられてさらに形が無様になってる。
僕は手に掴んでたバッグを地面に下ろして、中から日記帳を取り出す。
両手でくるくると回す。表も裏も黒い革が張られてる。紙は下の方の紙がことごとくよれて内側に折りこまれてて、そのあたりだけ分厚い。革も同じように表紙の左端だけがきれいに傷んでる。他の部分には目立った傷も刻印もなくて、いいそう目立つ。
「そんなの持ってたっけ」
そのまま執拗にくるくる回してると、たき火の向こうから九が聞いてくる。
顔を上げる。目を合わせる。その向こうにフェンスと灰色のくすんだ壁。
「持ってたよ?」
僕はまた誤魔化す。
「なに書いてあるの」
「日記」
背中に羽織った青い毛布を首筋にたぐり寄せる。
「見せて」
火の回りをよつんばいで近付いてくる。僕は急いでバッグにしまう。九は中身を覗き込もうとしてた顔を引っ込めて、僕へ目を向ける。
目元を少しだけ寄せて、首を傾げる。
「いや」
絞り出すよに言うと、九は大人しく戻る。
僕は九がたき火で隠れるのを待って、僕に突っ込んでた両手を引き出す。手の中で日記帳は少しつぶれてる。
一度バッグの中に戻して、それから丁寧に、両手で持ちあげる。まず最初のページからだ。柔らかな厚紙の表紙をめくる。
開くと、絵が描いてあった。これは、きっと、女の子。スカートが異様に膨らんでる。桜色。ページの下四分の三は全部スカートの生地だ。丁寧に書き込まれてる。僕は紙の上をを指でなぞる。インクの染み具合を観察する。手書きには見えないけど。僕は表紙に戻る。でもこんな絵が合うカバーじゃないよ。僕は絵に目を戻す。スカートの布は波打って、白のフリルもそれに合わせてゆらゆら、どこがどこにつながってるか分からないくらいくねってる。残りの部分にちょこんと小さく半身が描かれてる。黒い髪がスカートの付け根あたりまで。こっちをまっすぐ向いてる。ストレート。ふわりと半身を浮き上がらせるよに広がってる。赤い花弁がたくさん結いつけられてる。贅沢。でもそれにしては顔が暗く、目も口も俯いてる。着飾ってるならもっとかわいい顔すればいいのに。変な絵。ページをもう一枚めくる。
白紙。次へ。
しばらく文字のないページが続く。代わりに落書きが隙間なく。女の子の顔を最初のページみたいに描いて途中で飽きたみたいで、その余白に小物を敷き詰めてる。カットされたロールケーキ、煙草の箱、中で色の波打つビー玉、誰かの腕、へたの付いたいちご。そういうのがいつしか途切れて白紙のページに出る。もう一枚めくると文字が隅の方に書かれてる。
『拾った』
『どう使おう』
『日記帳にすることにした。その日の気持ち、を書こう。』
『※無理して書かない』
そんなことが走り書きされてた。僕は一枚めくる。
『五月二十八日』
『始めて三日。もっと生きたい。そんな気分になる。特に困ったことはない。』
僕は読んでく。
『五月三十日』
『書き忘れてた。書きたい気持ちはある。まだなににも困ってない。意外に快適。退屈が唯一のなやみ。でもたくさんの本がある。ここには。』
見開きの左から、右へと目を移す。
『五月三十一日』
『初めて本を読むだけで一日使った。』
一枚めくる。
『六月二日』
『あきた。動く方がいい。探検をしよう。』
僕はどんどん読んでく。文字量は大したことなくて次々ページをめくれる。
『六月三日』
『探検?』
『六月九日』
『やっと見つけた。ずっとなくしてた。この部屋から出て、色々回ってみた。ここは広い。カジーメイオ。ここは歩き切れない。ここが水に沈むのだ。もうすぐ。』
『六月十日』
『かゆくなってきた。動いたもの。昨日。お風呂は作れないのかな。』
『六月十一日』
『作った。水もったいない。作り方忘れて。』
『六月十三日』
『書き忘れた。ひもじい。お腹が空いた。もうたくさんはない。そろそろだ。』
『六月十四日』
『たえれば楽になる』
『駄目だ。無理。』
『六月十七日』
『書き忘れた。探したら色々とあった。夢中で食べた。おいしい。逃げなければいいだけの話。飲まれればいいだけの話。』
『六月十八日』
『手元にあるストックがもう乾パンだけ。量も少ない。あっという間。探しに行こうか。しけんたんすいというのはいつ始まるのだろう。まだか。』
しけんたんすい。探しに行くってどこへ。この文章を何度も読み返す。
この子は、なにをしてるんだろ。掴めなくて諦めて、次のページに進む。
『六月十九日』
『足した。ちゃんとしたストックが出来た。今回は乾パンから食べることにする。残りやすいし。白湯でいいからあったかいものが飲みたい。川はまだだよ。』
川。この子も知ってるみたい。
『六月二十一日』
『書き忘れてた。探検も上の方は大体やってしまっててつまらない。あったかいものがないのにも慣れた。下に行ってもいい?』
探検ってまるで九みたいだ。
『六月二十二日』
『もう少し探す。面白いものはもうない。暗くなってから、外を覗いた。水はまだいない。私は汚い。体を洗わないと。』
九の言葉は、この人の真似なんだろか。
『六月二十三日』
『降りてみた。廊下に犬がいた。犬がいた。歯をむき出しにしてた。こっちを見た。追って上に来てるかも。下はやめておいて。』
『六月二十四日』
『落ち着いた。体はまだ洗えてない。なんで中に犬がいたんだろう。群れてる? 部屋の外に出てない。』
犬。ここに。
僕は顔を上げる。
九は火をぼんやり見て、ゆるんでる。畳んだ灰色のYシャツをいかにも退屈しのぎといった態度で適当に振って、たき火に風を送ってる。九の髪が強い陽の光で白く輝く。明るい外で火をおこしてるのが、なにか新鮮。たき火は炎の先から黒い煙をくゆらせる。お線香の白い煙のよな。火の先から九は犬と会ったことあるんだろか。もういないのだろか。先にドアを開けさせてるのはそういうこと?
僕は日記帳に目を戻す。
『六月二十六日』
『書き忘れた。体洗った。いいごはん見つけた。おいしい。探しに行く。あと犬を見に行く。』
『六月二十七日』
『下の方探検してきた。犬はいない。昨日のごはんと同じパック見つけた。』
『六月二十八日』
『どこ行ったんだろ。犬。夢? わかんない。昨日見つけたごはんは我慢。』
『六月二十九日』
『男の子が来た。いきなり現れたから心臓止まるかと思った。せめて一声かけろ。上から水が降ってきたのを不思議に思ったらしい。見られてるのか。』
『六月三十日』
『起きたらいなくなってる。あの子以外なにもなくなっていない。これも夢?』
『七月三日』
『書き忘れてた。九って言うらしい。手紙が置いてあった。気付かなかった。いつ置かれたんだろ。この二日は下の探検。ガラクタを持ち帰ってた。』
『七月五日』
『また九が来た。声をかけられたけど、それでも唐突でびっくりした。「ここ気に入っちゃってさ、またふらっと来ていい?」私はなにもしてあげてないのに。懐かれたのかもしれない。こそばゆい。』
日記がそこで途切れる。白紙のページが何枚か続いて、僕はめくってく。
『七月十九日』
やっと戻ってきた。やけに大きく開く。気になって、日記帳を一度完全に閉じて、手を離すとそのページがまた出てくる。ここだけ開き癖がついてる。なんでこんなに書いてなかったんだろ。
『試験湛水は八月中には始まるらしい。九に教えてもらった。「こっそり聞いたら教えてくれたよ?」このせいで職員に目を付けられてないといいけど。』
またしばらく余白。めくって、だいぶ書かれてなくて僕は読むのをやめる。
結局誰なのか全然分からない。自殺しようとしてる? 代わりに考えをめぐらす。手帳を持ったまま、目を閉じる。上を向く。まぶたの裏が真っ赤。僕はすぐ顔を下げて、目を開ける。白紙のページに目を落とす。
視界の端で九が動く。顔を上げると、いつの間にかコートも脱いで適当にそのあたりに投げてる。この九が、日記の中の九と一緒?
九はワンピースを取り出して、炎の中へと素手で雑にねじ込む。崩れかけのたき火。火はいつの間にかにものすごく大きくなってしまってる。顔がひりひりとするのに気付く。
「勢い強すぎない?」
いつの間にかむき出しになってた膝小僧がぼやっと熱くて、手のひらでさするけどほとんどなにも感じない。
「調節はしてるよ」
そっけなく九は言う。あわててる様子はない。
キャンプファイヤーみたいになってる火は座ってる九の頭を越えるか越えないかってあたりで揺れてて、さらに大きくなろうとしてる。その火から黒い煙が出てってる。もくもく、って太く、高く上の方まで伸びてってる。
「大きくなりすぎじゃない?」
「そうでもないよ」
九が答える。もうたき火の向こうへ視線はほとんど通らなくて、僕は身体を左に倒して、九に話しかける。九の駄々い色に染まった肌が白い空とマッチしてなくて、少しだけ可笑しい。
「それ、なに燃やしてるの」
風が吹いて、火の先が、ぐおんっ、と左に揺れる。視界が遮られる。黒煙がたなびく。炎の向こう側で九が片目をつむる。
「うん?」
九がこっちを向く。風はまたおとなしくなる。かき消されて、聞こえなかったみたいだ。
「なんでこんな煙黒いの」
「プラスチックとか、発泡スチロールとか。中に適当に入れた」
九はそう言って、緑の袋から物置に落ちてた赤いプラスチックの破片を取り出し見せる。
「まずくない?」
黒い煙は宙に広がり散って、空気の中に溶けて消えてる。九が悪びれずに言って、なにか、吸ったら身体が腐ってしまいそうな匂いが、突然あたりに漂い始めたよな気がする。
「そうだけど。まあ今は煙が黒い方が大事だよ」
九が答えて、手に持ってる赤をたき火に放る。
炎が一瞬赤くなって、またきれいなオレンジ色に戻る。プラスチックは見えない。空へと出てく煙が心なしか、多くなったよな気がする。
「まあ、これなら気付いてもらえるだろけどさ」
そうだ。これじゃさすがに気付かれる。気付かれたらどうしよか。多分すぐに、すぐ救助が来るはず。迎えは舟だろか。ヘリだろか。
「ねえ、九」
僕は話しかける。たき火の向こうで九が顔を上げる。今はもう見えるのはシルエットくらいだ。煙があまりにもくもく立ってて変な匂いがする。
「なに、かえり」
九が返事をする。
僕と一緒に逃げるのは駄目?
遠くに壁。凹凸の少ない、のっぺりとした見た目。くすんでる。
あとでちゃんと話すから、今は黙ってついてきてくれない?
黒い煙がそっちに向かってなびき、伸びてく。僕は石張りの床に置いてた手を、きゅっ、と握る。茶と緑と赤の混じった森が視界の左右に広がる。
「ねえ、」
風が、ぴぃ、とかすかに鳴いてる。
ここでたき火を消せば多分まだ救助なしで逃げれる。ねえ、逃げよ?
なんどか九と黒煙の消えてく空を交互に見て、僕はまだ言葉を発せない。九もそのたび視線を合わせるだけでなにも言わない。たき火が、ぐしゃり、と崩れる。炎で隠れてた九の顔がすっかり見える。黒い煙と火の粉があたりに撒き散るけど、九も、僕も目を逸らさない。
「なに、かえり」
九がしびれを切らしたよに返事をする。
僕は閉じてた唇を開けて、正しい言葉を口に出す。
「九は、どこかへ連れてってくれる人がいる?」
いないなら。
「なに」
「九には、誰か好きな人がいる?」
いないなら、ここにたき火を残して、一緒に。
「なんでいきなり」
九は姿勢を崩さず、なにを言ってるか分からない、って態度で答える。
「九は、誰かを好きじゃないの」
僕は聞く。誰かを好きだったんじゃないの。
「だから、」
手が軽くなる。あ。日記帳がこぼれ落ちる。手から離れて、たき火の方へ。腕を伸ばす。これは、なんなんだろ。でも燃えてもいいのかもしれない。九につながる糸は今のうちに切った方がいいのかもしれない。日記は地面に落ちる。この日記帳の中の女の人は、九にとってなんだったの。一度、軽く跳ねて炎に近付く。わざわざその人の部屋になんか入ったりして。
日記は、しゃぁぁぁ、と滑り、炎の直前で、ざ、と止まる。
違うのかな。ほっ。息を軽く吐く。
僕はゆっくりと手を伸ばす。きっと読んでれば分かることだよ。
読むのを続けよ? 日記を見つめる。
あれ、橙にほのかに照らされた黒革の日記帳。その一番後ろに紙が挟まってる。今の衝撃でははみ出した? なんだろ。
取り出す。手紙かな。便箋が二つ折りになってる。淡い黒の罫線とそこに収まってる文字がうっすら透けて見える。女の字だ。開く。
手紙は二行だけ。
『私が行く。待ってて。』
『それが新しいかえり。九へ。今度は。』
かえり。僕は最初になんて呼ばれた。九はバッグを覗き込んでた。上から陽が差してる。かえり。なんで、いきなり。そんな名前を。
目の前の九へ。その背景はみんな白い。一歩。そっちに向かって。たき火。避けて、九の目の前まで大股で距離を詰める。
「九、なにこれ」
仁王立ち。九はとても小さく見える。その表情はいつもとほとんど変わらない。ほとんど驚いてない。なにこれ、って口走っちゃったけど、手紙は見せられない。これは九のじゃない。書いたのは、字は日記の人の。
「どうしたの?」
「…かえり」
僕は言葉を絞り出す。
「かえりが、どうしたの?」
「かえりって、誰?」
なにかに巻き込まれたみたいだ。
「誰って、かえり、君だけど」
「日記帳入れたのは九?」
「日記帳?」
僕は便箋だけを引き抜いて隠し、持ってた黒革の手帳を閉じて表紙を突き出す。
九はそっと距離を開けながらゆっくり腰を上げる。
「これ」
「それがどうかしたの」
「答えて九」
九を見降ろす形。早く。たき火の熱で手が痛い。
「入ってたってバッグの中?」
「答えて」
「入れてない」
「じゃ、かえりって誰?」
問い詰める。
「誰って」
九は一歩下がる。フェンスが、きぃい、ってきしむ。
「この日記知ってる?」
「知らない」
「九、この建物が浸水する前にここに来たことあったって言ってたよね」
「うん」
「そのとき、かえりって子に会わなかった?」
「誰それ」
「嘘吐かないで、九。あの死体がかえり?」
僕は誰?
「違うよ、かえり。落ち着いて。かえりはかえりだけ」
「じゃあ、この日記のかえりは誰なの」
今は十一月。この日記を書いたのはその死体じゃないの。死体を拾って弔うのもそれが理由?
「よく分かんないけどかえりは君だよ」
「僕はかえりなんかじゃない」
僕は誰。九、誰の代わり? あの死体? 日記の中のかえり? 僕を誰にするつもり?
「かえり、落ち着いて」
「僕のあだ名みたいなものじゃなかったの、かえりって」
「かえり」
「僕はかえりじゃない」
会話は加速する。
「かえり、なあ聞いて」
「僕の名前は関沢はるだって。かえりなんて知らない」
「かえり、ねえ、君はかえりだよ。変なこと思い出さないで」
九が僕の肩に手を伸ばす。
「僕の記憶は変なことじゃない!」
「かえり」
「僕は飲まれないよ、飲まれない、君になんか負けない。君、かえりなんて僕はならない」
「落ち着けって」
「かえりって子はまだここにいるんじゃないの。会いに行きなよ。そっちが本物。僕ははるだ。かえりなんかじゃない」
隠れてる人でも、あの舟の上の女の子でも誰でもいい。でもかえりは僕じゃない。
もうその名前で呼ばれても、なにも、なにも嬉しくない。
「かえりは君ひとりだよ」
九がそっと息を吸って、そうぽつりと口にする。
「かえりはこの日記を僕のバッグに入れた人だ僕じゃない。僕ははるだ」
言い聞かせるように何度も口にする。僕は、関沢はる。かえりでもいいかな、って思ってたのに。僕ははるだ。君の求めてるかえりじゃない。こんな形の愛はいらないの。変えて。今すぐ改めて。
九は僕に手を伸ばそうとして、戻す。言葉の勢いが止まる。
無音の時間が一瞬だけ。
「そんなに大事、」
九がぼそりと口にする。
「君がはるってこと」
こ、この? はる、違う。この人は違う。ずれてる。僕の探してる人じゃない。この人は僕をどこへもつれてってくれない。そっと口を開く。
「もういい」
ドアの方へ歩き出す。あれ。発した声が大きく響く。もういい…。こだま?いいか、どうでも。石張りの屋上を蹴って、ドアを掴む。
九の気配が後ろ。足音。迫ってくる。首筋に風。殺意。うそ? 銃。こんなことで? 逃げろ。ドアを蹴り開け、後ろを向く。九。こっちを見てる。身体をひねって、飛ぶ。ふわ。真ん中の踊り場まで。反らす。さっきと同じ。上手く着地。ごぁぁぁん。響く。も一度飛ぶ。引き金を引かれたら終わりだ。逃げろ。倉庫の床に着く。すぐ立て直す。走れ。
「待って、かえり!」
九がようやく階段のデッキに出てきて叫ぶ。僕ははるだ。九、撃ってこい。それでどうしたってお別れだ。




