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やっと物置に着いた。九が分けといてくれた女の子の靴を僕は借りてる。ここを出るときは返さないとね? 九の方は大体いつも通りで、一度ワンピースを着て僕の前に出てきたけどどこかしっくり来なくて、脱ぎたがる九をそこまで引き止めたりはしなかった。ちっさいからって女装させればいいっていうわけでもないみたい。九は僕の反応を見てすぐ脱いで、逆に今までのコートの上にさらに寝床から持ってきた毛布を上から羽織る始末。
部屋の中に入る。また僕が奥へと追いやられて、九と一緒に道具を探し出す。
僕は山を崩して、中から新聞紙の束を見つける。日付を見る。今年の一月くらい。ここはそれくらいしか放置されてなかったの?
「ライター見つけたよ」
九が僕に声を掛けてくる。目を移すと、顔の前に掲げて僕に見せびらかしてる。蓋が出来るタイプ。ジッポって言うんだっけ。
今はたき火の道具を探しに来た所。なんで僕、ついてきてるんだろか。
九のしたり顔はそのまま固まって、褒めてって主張してくる。
「…まさかそれだけのつもり?」
僕は違うよね、って信じながら聞く。
「む? そうだけど」
なにか不満でもある? 九があまりに堂々としてて、僕はひるむ。
「新聞紙とか木の枝とか薪とかないの」
「ないね」
九は自信満々に答える。
「…じゃあどうやってやるつもり、たき火」
「出来るだけたくさん物を持ってきてどんどん燃やす」
「なに燃やすの、ていうか薪使わないつもり?」
九が聞いてくる。
「本とか服とか紙ごみとか。薪あるの?」
「あるじゃん九。ここに」
僕は指さす。
「どこ?」
「それ。そこにいっぱい立てかけてある木材」
九は、心底って感じに驚く。そこまで?
「本当だ」
九は近付いてそのうち一本を掴む。九の顔が暗闇に飲まれて見えなくなる。
「うん、うん。うん、これなら使えると思う」
黒い顔が口を開いて声を発する。
「気付いてなかったの」
「うん」
九は顔を上げる。声が弾んでる。
「もともとなにに使ってたの、その木材」
「僕のじゃないし、なにに使ってたかは知らない。でも多分これなら燃える」
九はそう言ってもう一回しゃがみ、掴んだ角材を三本に増やして、それを両手で抱え上げて部屋を出てく。
「また上に持ってくの」
僕は遅れて部屋を出ながら聞く。
「このままじゃたき火に使えないよ」
九が両手で抱きかかえてどこかに歩いてく。
このあたりの廊下は右にカーブしてて先が奥まで見えない。
「そうなの?」
九が立ち止まって、僕の目の前で角材を立てる。僕の身長よりはるかに高い。天井に触れる勢い。
「これどうやって燃やすの」
九は怒ったよに僕に聞く。このままたき火に詰めるのは無理だね、確かに。じゃあ小さくすれば。
「のこぎり?」
僕は口にする。薄暗い廊下に声が反射して、響いて、それが闇の中、潜んでる誰かの応援の声のようで、僕は安心する。切って短くすればたき火にくべられるはず。
九は口を閉じて、僕の目を見つめる。目を離さない。駄目? 僕は廊下の端、光の届いてない場所に目をやる。ねえ、隠れてないでなにか言ってあげてよ。
目を戻す。九はまだ僕を見てる。はっきりした目元が僕に、気付いて、って伝えてる。なにか忘れてる? 僕。ねえ、速くさっきの部屋に戻ろうよ。
「あ、れ?」
僕は気付く。九はまだ僕の目を見てる。じゃあ九はなんで物置から出たの?
「九、物置に戻ろうよ」
僕は一度顎を引いて目を逸らして、そう口にする。九はまだ僕の目を見つめてる。物置の中にのこぎりがあるなんて、少しも不思議じゃないのに。
「のこぎりはその部屋にはないと思う」
九が手に棒を持ったまま、顎で物置の方を示す。僕は目をそちらに向けて、物置のドアが開きっぱなしになってるのに気付く。
「なんで?」
僕は歩き出して、閉めに戻りながら聞く。九は答えない。
部屋に一歩入って、ドアノブに手を伸ばす。部屋の真ん中に積まれたがらくたの山に、暖かくて寂しい部屋の中、天窓から差す光で陰が出来て、もう会うことはないだろ、って僕にお別れを告げてるよなそんな雰囲気。
僕はドアをそっと閉じて、九の方へまた歩き出す。
「あの子が絶対に使わないから」
九がやっと口を開く。
「この部屋食べ物とか飲み物とかもないよね」
がらくたばかり。一見必要なさそうなものばかり。
九が黙る。角材を三本とも真横へ伸ばした腕に立てかけたままで、疲れないのかな、って僕は勝手に心配する。
「じゃあどこにあるんだろ、のこぎり」
九が黙ったまんまで、しょうがないから僕はそう水を向ける。
「のこぎりぐらいなら探せばすぐ見つかると思うけどね」
九はやっと口を開いてくれる。そのついでに廊下に角材を下ろす。
「どこにあると思ってるの?」
僕は勢いに乗って聞く。一度開いた口がまた閉じる前に。会話はテンポ。
「そこらへんの部屋」
九は廊下の先を指さす。向こうは暗くて、ドアは見えない。
「あるかな?」
そう口にしながら、きっと見つかる気がするよ、って心の中で唱える。
「分かんないけど」
九はそう言って地面に置いてた角材を振り回して肩に乗っけて、廊下のさらに奥へ進んでく。角材が、九の背中が闇に溶けてく。
僕は追いかけると、カーブした廊下の内側にすぐ部屋がある。九は持て余してた片腕を伸ばして、ドアノブに手を掛ける。角材を肩の上で握りしめたままだ。邪魔になって動きづらそう。九は、角材を大きく振り回す。ドアの前から引いて僕に道を譲る。レディーファースト。そういうことなのかな、って僕はようやく感づく。先に部屋の中へ。目線を送る。奥に、ぎっしり詰まった本棚が壁際に一つぽつん、と。木彫りの重厚そうな白い椅子が部屋の真ん中一脚置いてあって、取り囲むよに大判の本が直置きで積まれてる。メルヘンな絵が、その表紙を飾ってる。それで全部。他になにもない。壁の深緑が目立つ。床は椅子の周り散らばってる本を除けば、珍しく片付いてる。
「どこにあるの」
僕は反転し、椅子に飛び込むよに座る。ぎゅぎぎ、って椅子の足と絨毯がこすれる。椅子は少しだけ滑って、止まる。椅子はふかふかすぎて、座り心地悪い。もっとちっさい人じゃないと駄目なんだよ、きっと。背後でなにか崩れる音がする。本倒しちゃったか。別にいいか。僕は椅子の上で座り直して、目の前に積まれてる本の山から一冊取る。表紙に西洋の、お城の絵。中を見ると、文字が詰まってる。僕は真ん中あたりを開いて少しだけ読んで、すぐ元に戻す。暗くて読みづらい。目を上げると、部屋の前で九がつっ立ってる。僕は背もたれに両手を掛けて、後ろを振り向く。やっぱり本が散らかってるけど、それはどうでもいいの。部屋を見渡す。窓もたんすもクローゼットもない。
「ここにはなさそうじゃない?」
僕は背もたれに顎を乗せたまま言う。そもそもこの部屋にのこぎりなんて馴染みそうになかった。ここで広がってたのは、もっと優雅で、質素で、怠惰な暮らしだよ、九。
また九は黙ってる。考え事をしてるようだけど、ぼうっとしてるだけ?
「なんでこんなに収納が少ないの」
僕はその姿勢のまま、そう続ける。
奥の壁が寂しくて、もともとはなにか大切なものが飾ってあって逃げるときに持ってったんだろか、って僕は考える。
「なんでなんだろね」
九が答えになってない返答をする。
僕は九の台詞を無視して、顔を上げて、
「そもそもここどんな種類の建物なの」
天井に目をやりながら、なんとなしで聞く。そのまま背を逸らして九を見ようと思ったけど、椅子の上じゃ無理で、僕は体勢を戻す。
すると鼻の前を、ふわりと甘い紅茶の匂いが通る。あ。
思い出す。なんども嗅いでる匂い。これは誰の?
気配を探って、背後にいるはずの九の気配がまったく感じられなくて、僕はドアの方をまた見る。
いつの間にか九は僕の横にいる。顎を撫でてる。目が合う。僕はたじろぐ。椅子から滑り落ちそうになって、あわてて耐えて、また九に目を送る。九の口がそっと開く。
「ホテル?」
ぽそり、と言う。ここは、ホテル。
僕は、ああ、そうだったの、って納得する。でもすぐ、お風呂とかベッドとかどこにあるの、って疑問が頭の中で噴出する。
「カジーメイオって、じゃあホテルの名前?」
僕は尋ねる。九は頷く。
「どういう意味なの」
神話に出てくる竜の名前だったり、どこか異国の、マイナーな言語で弓矢を表してたりするのだろか。想像が飛躍しすぎだよ。
「知らない」
九はあっさり言う。そのまま、部屋の中に入って、僕の目の前に。差し向かいになる。まただ。一度気にし出すとと圧迫感がすごくて、僕はすごくこれが苦手。
「どうせかっこつけでしょ」
九が口が動いて、そう続ける。そのままそこに居座る。僕はガンを飛ばされたまま。
「鍵とか掛からないの、部屋」
耐えられなくなってそう口走る。
九は、僕の前から退いて、僕と、僕の座ってる椅子と、それを囲んでる本たちの周りをぐるぐると、ゆっくり、ゆっくり回り出す。
「全部鍵は開いてるね」
足取りと同じゆったりした口調でそう答える。そういえばそんなこと言ってた気がする。でも鍵穴なんてどこにもなかったと思うよ。九は僕の周りを回り続ける。最初はそれをいちいち追ってたけど、そのうち目が回ってきて、今はもう椅子にまっすぐ座って前を向いたまま。
「鍵掛けられる、今」
「出来ないよ、カードキー持ってないし」
「カードキー?」
「えとね」
九が衛星軌道から離脱して、ドアの方へ飛んでく。途中で僕に手招きする。
椅子の肘掛けに手を掛け、ぱっと立ち上がると、九が部屋のドアを開ける。僕はまた先に通してもらう。
「ドアノブのところ見て」
九がその場で棒立ちのまま言う。僕は言われた通り目を向けるけど、特になにもない。なんの変哲もないドア。見慣れてる形だ。
「む」
うすい茶色の木のドア。彫り込みが結構凝ってて、きれいな模様が浮かび上がってる。それに銅色のドアノブがついてる。真四角の板がドアに貼り付いてて、ドアノブがそこから生えてる。なんとなく渦巻を思い浮かべるよな、そんな形をしてる。
僕は少しだけ腰を落として、ドアノブと目線を合わせる。ドアノブの持ち手の、その反ってる部分の塗装がはがれかかってて、中から薄い色の金属が顔を出してる。
「その上、横に線が入ってるじゃん?」
九が僕の横で同じよにしゃがむ。
「これ?」
ドアに貼り付いてる板の、その上。木で出来たドアの彫り込みの上から、細い線が横に一本、よく見ると入れられてる。僕は腕を上げてそれを指でなぞる。
「それ。そこにカードを挿すの」
九が口にする。僕は九の顔を思わず見る。
「本当だよ?」
九が僕の顔を見て、そう付け加える。僕は目線を戻して、またおそるおそる指でなぞる。ドアと一体化してる。フラット。
「なんで」
「なにが」
九が無機質に返事をする。
部屋と廊下の境界に僕らはちょうどしゃがみ込んでる。それに気付いて僕は、立ち上がってなにか、なんでもいいから蹴り上げたい気落ちに駆られる。
「鍵開いてるの?」
それを押し静めて、僕は口に出す。全部の部屋の鍵が開けるなんて、相当の手間だと思うけど。
「知らないけど」
九は、僕には関係ないよ、って声をまた響かせる。
それで僕は蹴るものを探すけど、九の横から部屋を見渡しても床に落ちてるごみはほとんどなくて、我慢する。本でもいいんじゃないの? 絶対痛いじゃん。
気持ちを静めて、九に目を戻す。疑問が浮かぶ。
「ねえ、九」
九はドアノブを見つめてしゃがんだまま。
「なに」
目を動かさずに言う。
「水の上で浮かんでるあの子は、ここに住んでたんだよね」
この建物の中、どこかに。ホテルに住む、ってよく分からないけど。
「うん」
「じゃあそのときは鍵掛かってたの」
僕は目を閉じる。九は堂々と背筋を伸ばして、このホテルの廊下をざっ、ざっ、と歩いてく。これは僕の頭の中。九は最初から分かってたみたいに、ある所で立ち止まって、そのドアをロビーから持ち去ったカードキーで開けて、中に入ってく。こうだろか。
「掛かってたよ」
やっぱり。じゃあ。
「どうやって中に勝手に入ったの」
目を開けて、九の顔をにらむ。部屋が向こうに見えて、円を描く本の山の中心にある椅子が、こちらに座面と背もたれのすす汚れた白いクッションを見せてる。
「そのときはたまたま開いてた」
「入ったの」
僕は聞く。
「そうだよ」
「なんで?」
九がまた黙る。ねえ、気付いて。
あんまり沈黙が長くて、僕は想像からカードキーを消す。九は堂々と背筋を伸ばして、このホテルの廊下をざっ、ざっ、と歩いてく。ここは想像の中。九は最初から分かってたみたいに、ある所で立ち止まって、そのドアに手を伸ばして、中に入ってく。中には誰もいない。部屋の主は不在だ。九は後ろ手でドアをそっと閉めて、部屋の中にある椅子に腰かける。もうすぐ、女の子が帰ってくる。外から足音が聞こえて、九は立ち上がる。音は近付いて、ドアがゆっくりと、開いてく。こうだろか。
「なんで? なんでってなんで」
九の声が少しだけ尖る。
「あの子に断ってから中に入ったわけじゃないでしょ」
僕は言う。九。気付いて。僕は日記を読んだ。
「なんでそう言えるの」
「性格的にそうしそうだから?」
すかさず誤魔化す。そんなことは一つも思ってないけど、こういえば追及されないはず。
「なにそれ」
九は目を見開いたあと、僕の顔を眉をひそめて見つめる。
「かえりはなにも知らないでしょ?」
そのまま続ける。どうだろ。この反応は。
あの日記は九が入れたのか、どうなのか。分かんない。でも、確証はないけど、もし九が入れてたらこんな反応にはならない気がする。もっと楽しんでる目で、にやにやした口元で、僕を観察してくるはずだ。本当に僕が日記を読んだのか、見極めにくるはずだ。
「トイレ、個別にないんだ」
僕は話題をずらす。九もそれを望んでたみたいで、にこっ、と頬を上げる。
「安いからねこのホテル」
九がぽそっと口にする。共用にすれば安くなるものなの。少しだけそんなことを考えて、僕は、ぴん、とくる。
「じゃあ、シャワーもあるの?」
口に出す。もう何日も入ってないし、さすがに気分が悪い。
「あるよ、シャワー室。今は使えないけど」
なんだ残念。
僕は立ちあがりかけてた腰を元に戻す。
「これだけでかいのに、なんで共用? ベッドもないし」
それで口を開く。まだ僕は一度も見かけてない。
「ああ、それは、こっち」
九が唐突に立ち上がって部屋の中へ戻ってく。僕は遅れて立ち上がって、立ちくらみでふらつく。椅子を取り囲んで車座になってる本の山の横を、九は避けて奥の壁に向かう。
「これ、これ」
九が壁を指さす。僕は九を追いかけて、本の山のサークルを避ける。九が右の壁に寄せてある本棚にもたれる。僕は絨毯を一歩ずつ詰めて九が指差してる、フラットな深緑の壁の一点に目を凝らす。すると、壁の中央にほんの少しだけ四角のへこみがあって、そこに壁と同じ色のボタンが収まってるのに気付く。色味がほんの少しだけ違って、その中には水色のラインでベッドとそこに眠ってる人のアイコンが描かれてた。そんなものさっきまであった?
九はそれを押す。手を離すと、水色がピンクに変わってる。
「あれ?」
九が首を傾げる。
「なに?」
僕は九にさらに一歩近付く。
「や、ベッドがこれ押すと出てくるはずなんだけど」
九は振り返らずひとりごちる。壁に埋め込まれてるってこと?
「電気来てないから動かないんじゃないの」
僕は、それはそうだろよ、って返しを期待して口にする。
「じゃあ、なんで、ボタンの色は変わるの」
「ごめん分かんない」
九の声が思ったより鋭くて、僕は素直に引っ込める。
「ま、ここの壁の中にあるよ」
九がボタンの周りを撫でながら言う。なにか気付いて、同じ場所をしきりに触り出す。壁に目を凝らし始める。そのうち、壁に横一線の切れ目を見つけたのか、九は両手の指を壁に掛けて、両側に引っ張り始める。姿勢が変。肩が盛り上がる。片腕が大きく上がる。九は低くうなる。ぎ、と壁が鳴る。
開けてどうするつもり。そう考えると、がりっ、がりっ、って九の爪が深緑の塗装を削って、腕が滑って、真上と真下に、ばっ、と広がる。僕はそれを後ろから見てる。
「掃除まで手が回らないよ、ってことなのかな、なにもかも共用な理由」
その揺れる背中に聞いてみる。九はまた壁に手を伸ばす。
「そんなわけはっ…、ないっ…、と思うけど」
九は腕に力を込めながら話す。しゃべりにくいようで、すぐに壁から手を離す。
「どうせ全部の部屋回るだろし」
そう続ける。
「じゃあなんで」
「のこぎり探そうよ」
九が話を断ち切る。
鋭利な声が空気を変える。僕は、寒い。甘い紅茶の匂いはどこへ?
九はベッドもシャワーも、もうどうでもいいじゃない、ってそんな目。そういうシステムなのここは。僕は無言で頷く。
「ここにはなさそうだから、隣へ」
九は言いながら、僕と反対側、部屋の左側からドアを向かう。そのまま廊下へ消える。僕は本の円を迂回して、追いかけて部屋の外に出ると、九はちょうど、カーブした廊下の先、内側にあるドアの中へ入ってく所。
追いかける。静か。もう慣れたけど、やっぱり空気は寒くて、喉に染みる。冷えた冷たい空気はすべてきれいなんだ、って勘違いもきっと今ならまかり通るよ。
廊下は静まり返ってる。陽はまだ高いらしくて、どこかから入り込んだ陽射しで、まだそれなりに明るい。ここは広くて、僕には手に余る。背筋が凍えて、早足で九のもとへ向かう。
ドアの前に着いて、部屋の中を覗く。
また部屋は狭い。その中に、今度は、収納がある。たんす? 服がたくさん収まってそうな、和たんす。右の壁に寄ってる。その横に、九が置いたんだろうなって角材が壁に立てかけてある。あとはストーブみたいな、寸胴な機械がいくつか、部屋の真ん中を占拠してて、その間に挟まれるよに九がなにやらごそごそとたんすの中を漁ってる。
「あ、見つけた」
九はなにかをそこから引きずり出す。廊下からのわずかな光でそれがきらめく。
僕は感づいて、そんな簡単に見つかるものなの、って口から言葉が漏れる。
「あったの、のこぎり」
そのこぼれ落ちたひとりごとを誤魔化すよに聞く。
「うん、ほら」
九が剥き身ののこぎりを僕に向ける。ファンタジーに出てくる、大剣を構える甲冑をまとった傭兵みたいで、僕はなにか武器がないか、って辺りをきょろきょろ探す。真横の廊下には何も落ちてなくて、九のいる部屋も、ごみで散らかってはいるけど、空き缶だったり、見るからに壊れてる電卓だったりして、長いものは一つもない。九はそんな僕を見て、冗談のつもりだったんだけど、って無表情で腕を下ろして肩の力を抜く。それで、はあ、と笑い気味に溜息を一つ吐く。
「どこで切る?」
それから暗闇の中で僕に聞く。九の手の先で銀色のかすかな光が、僕にめがけて飛んでくる。僕は思わず目を逸らして、廊下の先に視線を送る。
どこかで見た光景。いつものよに静まり返ってる。赤い絨毯と濃い緑色の壁。白と黒の格子の天井。アンティークな雰囲気。空間に熱がない。ねえ、僕を冷やして。廊下の向こうへ手を伸ばす。僕の心を落ち着かせて。大振りなのこぎりが頭の中にちらつく。さっきの映像。あの刃が当たったら肉が削れるよ。肌に当てて動かしたら血がかたまりで外に飛び出るよ。僕は目線が戻せない。九は怖い子。
「とりあえず剥き身は怖いし、なにか紙でくるもうよ」
きっと妙な姿勢をしてるんだろな、って僕は廊下の先を見つめたまま九に頼む。廊下の向こうは明るい。これは必要なことだよ。目の端で部屋の中を捉える。九がその場で反転する。のこぎりが、赤黒い絨毯のすぐ上で軽く揺れて、ばっ、と僕は廊下の方へ顔を戻す。
「じゃこれで」
九がのこぎりを床に投げる。僕は部屋の中に目線を向ける。部屋の真ん中で九は棒立ちだ。
九は床に落ちてた、端のよれてちぎれかかってる紙の束を拾って、一枚ずつちぎって刃に当てる。なにか印刷されてる白い紙。新聞紙とかじゃなくて平気かな。紙の量、足りなくない? その前に、とりあえず。
「とりあえず上に持っていこ?」
僕は階段の方を指さす。九が刃の光を少しずつ消してく。そののこぎり、早く使って用済みにしよ。そしたら紐の先みたいに川へと捨てて、もう見ないよ。九がのこぎりを包み終わって角材をかつぐ。そのまま部屋の外に出てきて、僕らは歩きだす。九が先頭。まだのこぎりをいじってる。階段に差し掛かって、九は踊り場でターンするたび角材を大きく振り回して、僕はまた距離を取らないといけない。わざとじゃないんだろけど。そんなことは分かってるよ。ほとんど黒い壁二つに挟まれて、階段状に敷かれた赤い絨毯の上を僕らは進んでく。絨毯の一歩一歩踏みしめなきゃいけない感触が気になって、僕は足が疲れてるのに気付く。だるいことが重なってく。
「屋上で切るつもり?」
僕は顔を上げて、九に聞く。この二日で見慣れた背中が遠くて、少しだけまた寒い。
「む。昨日僕らが眠った部屋で切るつもりだけど」
九はいつもの通り、背中を向けたまま僕に返す。
「なんで」
「近いじゃん」
九は踊り場に着いて、そこで手すりを掴んで小回りにターンする。角材が遅れて、踊り場全体を真横に薙ぐ。僕は足を止める。びゅんっ。お腹の真ん中がひんやりとしてる。九は、と顔を上げると、平然と階段を昇ってる。
「他の部屋じゃ駄目なの」
声を張って、僕は質問をはっきりさせる。僕は歩きだす。もう踊り場一つ分くらいの距離が僕らの間には開いてて、このまま置いてかれる気がした。
「それでもいいけど」
九は声のトーンを少しだけ抑える。相変わらず振り向かない。
「その前に屋上で切らないの」
僕はそのままの声でも一つ聞く。九がまた踊り場で乱暴にターンして、一瞬立ち止まって手すりの上から僕に顔を向ける。
「切りやすい高さの机がいる」
九がちっさい声で、そう口にする。それでまた階段を昇り出す。
僕は小走りでついてく。これ以上離されるのは多分、よくない。
「一緒に寝た部屋に、みんなで囲んでお茶会でも開けそうな、一番低い机あったじゃん?」
九はまた僕に背中を向けて話し出す。ティーセットを並べられそうな、あの机? 甘い紅茶の匂い。あれはどこから漂ってきてたんだろ。
「じゃあ今日も、ねどこを変えるつもり?」
「困らないでしょ」
表情が見えなくて、余計に冷たく聞こえる。まあ、困らないけど。
そのとき九が唐突に階段をぐるぐると回るのから抜け出して、廊下へと出てく。
「この階で合ってるの?」
静かな空間に僕は久しぶりに声を上げる。九は肩に乗せてる角材の後ろを、軽く左右に揺らして返事をする。
ねどこへと九は迷わず歩いてく。僕は追いかけて、九がドアを開けて中に入るのを確認する。遅れて、部屋の中に入ると、九が壁に角材を立てかけてる所。床には僕が起きたときのまま毛布がほっとかれてて、僕はその作った布団を四つ折りに畳んで抱えてどかす。右の壁には部屋のどっちにも机が置いてあって、僕はわざわざ奥まで行って、畳んだ毛布をなに一つ置かれていない机の上に、うんしょ、って持ち上げてのっける。アーチ型の窓から陽が差して、窓枠の形に影が出来てる。九はその間にふかふかの椅子を三脚とも机と反対側の壁の方に寄せて、机だけ、使いやすいよに部屋の中央に引き出してくる。その机の脚に窓枠の陰がかかる。それで九は入り口近くに行って木材をひょいっ、と持ち上げて、雑にその机の上に置く。さすがに角材は長くて、机の上に乗ってるのは三分の一くらい。それだけで部屋の様子は様変わりして、窓の位置なんて全く変わってないのに、くつろげる場所から、いつでも怪我をしてしまいそな物騒な空間へと変わる。
九は机から離れて、奥の窓の方へ歩いてく。僕はそれを追いかけるよに、部屋の左手前にあるふかふかの椅子の方へ歩いてって、そこに座る。椅子は背もたれを壁につけて、横に三つ、小さなすき間を開けて並んでる。腰掛けると、意外に心地よくて、僕は少しだけ嬉しい。下の方で座った本に囲まれた椅子と違って、包まれるよに安定するの。これなら眠るときも床じゃなくて、九と同じよにここに座ればよかった。
「かえりー、押さえて」
また僕に背中を向けたまま、机の上の木材を指さす。僕が立ち上がって、そこへと手を伸ばすと、
「足」
九が冷やかに口にする。
僕は伸ばしてた手をあわてて引っ込めて、一歩下がる。
角材は一方が窓に、もう一方が廊下へつながるドアに向いてる。ドアのすぐ近くに紙ごみの積んである机、窓のすぐ近くに毛布の積んである机。足でって、どう押さえたらいいんだろ。
九が窓側の角材の端に着いて、そこで角材を押し始める。ドアの方へ大きく、木材がはみ出して今にも落ちそうで、僕は落ちないよに手を伸ばす。
「うん、これくらい」
手を伸ばして角材を掴んだ瞬間に、九は押すのをやめる。そのまま後ろ歩きでどこかに進んでく。
「これでいいの」
僕は遠ざかってく九へ、掴んだ角材を見つめたまま聞く。
「こうじゃないと切れないよ」
九はそのまま、唯一なにもない左奥の部屋の端に着く。目線は机に乗った木材に向いたまま。
「あ、でもバランス悪い」
そう言うとすぐに九は壁沿いに椅子のある方へ小走りして、ふかふかな椅子を軽々持ち上げて、それで垂直に曲がって僕の方へ飛んでくる。僕は叫びそうになりながら机の裏に避ける。九はそのまま角材手前で止まって、大きく飛び出た木材の下にその背もたれをねじ込む。
「これで、うん、いけそう。かえり、押さえて」
足で押さえるってだからなに。僕はなにも考えず、ひとまず机の上に足を掛ける。乗る。これで両方の靴のかかとを角材の上に乗せておこうか。僕は反転して、両のかかとを木材の上へ慎重に乗せて、まっすぐ立つ。
「押さえててね」
九が口を開く。僕は九の顔をまじまじ見る。なに。すごく冷たい。
そのまま、九はのこぎりを取り出す。
「どうした?」
片手に持ったままこっちを向く。
僕は首を横に、ぶんぶんっ、と大きく振る。目が、怖い九。
「そう」
九はつぶやいて、それから机の端と木材と両方に当たるよに、余ってる手を置く。力を込めて、手が骨張る。でもやっぱり子どもの手。
それから机の上にのこぎりをそっと置いて、刃をくるんでた紙を器用に剥いてまた掴んで、当ててる手のすぐ横にまっすぐ当てる。
一度、大きく引き、ざっ。戻す、ごっ。木の粉が刃の周りから染み出る。も一度。ざ、ごっ。木の粉の山が少しだけ、膨らむ。も一度。ざごっ。また膨らむ。段々と速くしてく。九の腕の動きがものすごくなってく。いつの間にか、ざごっ、が集まって、ぎごぎごって音に変わる。木の粉が舞う。もっと速く。僕は目で追えなくなる。ぎっ、って鈍い音が混じって、九が止まって音が全部やむ。また九は、さ、ごっ、からゆっくり加速する。
そのうち、木の切れ端がこんっ、と落ちてのこぎりの音がしなくなって、木の粉の舞う音が聞こえるくらい静まって、それで九はゆるむ。はあ、と溜息を一つ。
「はい、これで出来た」
のこぎりを床に置く。
「次行こ。長さはこれぐらいでいいだろから」
九は額に指を当て汗をなぞって、それからすぐのこぎりを拾い上げる。さっきの木材を拾って、長さを当てる。僕を木材の上からどかして、切りやすい所に移動させて、そこにのこぎりをまっすぐ噛ませて、また、ざ、ごっ、から速度を上げる。二本、三本、と増えてく。
そうして押さえて見る間に、九は続々切って、疲れを知らないみたいだ。
九は持ってきた三本をあっという間に六分割して薪にしてく。今は三本目。角材が短くなってくると、九が手で押さえる位置を変えればいいだけだし、僕はいらなくなる。それで、残り二つになったふかふかの椅子に座ってぼうっとしてると、空気が粉っぽくて、そろそろ目が痛いのに気付く。そこから立ち上がってのこぎりを一心不乱に振り回してる九をちらと見て、その背中を通り抜けながら、窓の近くに寄る。冷気はどこからか染みこんでるようで、九と僕の発した熱も、小窓に手が届く範囲じゃもうぼやけてる。
僕は窓の金具に触る。窓が、ぎぎ、って音を立てて開く。冷たい空気。顔に当たる。粉っぽさが飛んでく。これが本物。これこそが、清浄できれいなもの。
一つ、大きく息を吸う。ああ、肺が冷える。心が落ち着く。
背後で、こん、って音が鳴る。薪が角材から落ちた音。また九が切り終わったみたいだ。
「大丈夫?」
僕は声を掛けながら、振り向く。
「平気だよ」
九が顔を上げる。赤らんでる。コート脱げばいいんじゃないの? 息が上がってる。でも堂々としてる所はいつも通り。つらそうだけど、本当に平気なんだろ。
絨毯の中に入り込んだ淡い茶色の木の粉で、絨毯の色が際立つ。風に押し流されて、九の靴の横をゆったり通り抜けてく。
僕は顔を上げる。ドアは閉じられてる。この空気を早く追い出そう。開けに行かなきゃ。僕は九の方へ歩いてく。
「なんたって力いらないし」
九がそう続けて、やっと僕は、九は非力じゃない、って気付く。そのまま九は机に乗せてた膝を下ろして、角材の残りを残したまま、ごみを巻き上げながら勢いよく駆けて、歩いてる僕の目の前でジャンプしながら反転し、さっきまで僕の座ってた椅子へと飛び込む。僕は思わず足を止める。
「なにしてるの」
僕は首だけ動かして九の方へ向いて聞く。もう部屋の中は刺さるよに寒い。けどさっきの空気よりはましだよ。早い所換気しちゃお。九が削り出した粉を吹き飛ばそ。ドアの方へ歩いてく。九の前を通り抜ける。
「ちょっとだけ、疲れた」
九は言って、背もたれに寄り掛かったまま、お尻をずらして、浅く腰掛けて、背もたれのクッションに首筋をうずめる。僕は首をひねって後ろを向いて、九を見つめたまま進む。九は気持ちよさそうに目を閉じて、首をこすりつける。前を向かないと危ないよ。
ちらりと進んでる先に目線を送ると、もうドアが目の前。止まって、ドアノブを引く。ぴぃぃぃっ、って風が笛のよに高く鳴る。かなり、重い。スニーカーで地面を掴もうとして、すぐドアに負けて引きずられる。ドアが、がん、って閉まる。
僕は両手でしっかりドアノブを掴んで、腰を入れて引っ張る。ドアがぴぃぃうぅぅ、って音を立てながら開いて、ひときわ大きな風が部屋の中を通る。僕は目を開けてるのがやっと。机の上に積まれた紙の束から一枚、宙を舞ってドアの先へと吸い込まれてく。九のフードがはためいて、ファーが顔にかかって鬱陶しそう。木の粉はほとんど押し流されて廊下へと消える。
「九、それどうやって上に持ってくの」
僕はドアを閉めて窓の方へと歩きながら聞く。九が机の下に行儀よく積んでる角材の切れ端を指さす。
「縛って、まとめて」
九は椅子の上で腕を軽く振って、上半身を起こしながら答える。腕を振るときコートが、ばっ、と鳴る。
僕は部屋を横切って、窓の前に来る。床の上には絨毯の毛にからめとられた木の粉がまだ残ってる。
「紐あるの」
金具を引っ張って、窓を固定しながら尋ねる。
「む」
九は内ポケットを漁って、僕がさっき物置で見つけたよな、細い糸の束を僕に投げ渡す。僕は取り損なって、絨毯の上に落とす。僕は九をちらりと見て、安心してゆっくりしゃがみ、手で掬い取る。
なんで持ってるんだろ。物置で見つけたんだよね、僕より先に見つけてたってこと? なんで黙ってたんだろ。僕のあとに見つけて、必要になるかもって拾っただけじゃないの。黙ってる必要がないもの。
ついで、九が同じよになにか取り出して、僕は近付く。小振りなはさみだ。九の手の平の上に乗っかってる。ファンシーな色調。持ち手が蝶をデフォルメしたキャラクターの全身。なんでそんなの持ってるの?
九の顔を覗くと、九が軽く口を丸くして、受け取ってよ、ってはさみを振る。大きいつぶらな作り物の目が僕の目を見てる。
「なに、それ」
九の手のひらに収まってるその珍妙な生き物。僕はひとりごちる。
「分かんない、拾った」
九はそれを使って、紐の長さを適当に取ってく。出来た長い紐を僕に差し出す。
「何本ごと」
僕は紐を一本だけもらって、反転しながら聞く。
「四本くらい?」
「分かった」
そう言って、机の下に近付く。しゃがみ込み、暗い場所から木材一本ずつ取り出す。四本取って床にとりあえず置き、それから立てて長さを揃える。視線を上げると、九がこっちを見てる。視線を送り返して、理由を問い詰める。なあに。九は視線をずらさなくて、その目からはなにも読み取れない。僕は薪のことに頭を戻して、目線を手元に落とし立てといた薪を倒して、二段になるよに二つの上に二つを積む。これで縛ったら太くて短い一本の角材になるよ。
「九みたいな縛り方出来ないけど、いいの?」
「いいよ。ささくれ気を付けてね」
紐を絨毯の上に真っ直ぐ置く。並べて置いといた薪を一度に持ち上げて、その真ん中あたりにに乗せる。紐の両端をつまんで、薪の上で一度交差させる。紐を引っ張って木材を締め上げ、蝶々結びにする。
うん、結べた。紐をつまんで軽く引っ張って、きつく結べてるのを確認する。
「九、」
紐を掴んで持ち上げると、薪が滑り落ちる。足の親指に落ちる。
「んんー!」
床に転がって悶絶する。
「どうしたの」
九が僕に聞く。見てたんじゃないの。
「失敗した」
僕は体を起こす。あまりみっともないのはよくない。それで絶え絶えな息で九に答える。
「そんな痛い?」
九はそう言って、立ち上がり、僕の床に投げ出してる足をまたいで机の下でしゃがむ。しゃがんだまま振り返って、毛の長くて鬱陶しい、赤い絨毯の上に九は紐を二本、床へまっすぐ置いてその上から薪を下ろす。二本とも、僕と同じよに結んで薪をまとめる。
「やり方一緒じゃん」
「じゃあ持ち方が悪かったんだ」
九が優しく口にする。
「どう持つつもりなの」
「こう」
紐を持たず手で直接真ん中を掴む。それで九は立ち上がる。ささくれに刺さったらどうするつもりなんだろ。部屋の乱れた机や椅子の位置とか、木の粉の匂いがまた立ち上ってきてることとか、もはや戦場みたいで、その中で唯一、生き残ったよな、鋭い視線と疲労を九から感じる。
「こんな感じで縛って順々に持っていこう」
そう言って、薪を床に下ろしてまたしゃがんで、それで床に紐をまっすぐ撒く。
19
「あれ」
「どうしたの」
九が観音開きのドアの前でそう口にして、僕はどこか怪我でもしたのかな、って少し心配になる。二人のどっちの手にも薪の束がある。これをあともう何回か運ばないといけないし憂鬱。九は僕に顔を向けたまま黙ってる。扉を背中で開けようとしてる所。
九はその場でターンし薪を床に下ろして把手を掴む。がじゃ、がじゃ、と九が扉を押し引きするたび音が鳴る。
「開かない」
九がやけに平坦な声でそう言う。
「え、なんで」
また九が扉を揺する。首に巻き付けてる青い毛布がそれに合わせて揺れる。
がじゃ、がじゃ、と二度鳴っただけで、また静まる。
「分かんない」
「鍵が掛かってる?」
僕は九に倣って薪を下ろす。背中側からドアに近付く。
「なにかした、かえり?」
九の背中から手を伸ばす。九が振り返る。僕は声を耳元で聞きながら、九の上から扉の把手に手を掛ける。
押す。びくともしない。鍵が掛かってるのかな。
「なに、かえり」
九は耳元で小さくささやく。僕は前かがみになってて、顔だけが近い。
「どうかした?」
「や、なんでもない。なにかしたの?」
九はまた耳元で息を吹きかけるよにしゃべる。くすぐったくて僕は距離を取る。廊下へと下がる。
「してないと思うけど」
ここは廊下。左右を見るけど誰もいない。いたずら? 闇の向こうから誰か見てるんだろか。やっぱり誰かいるんだろか。日記を僕のバッグに入れたのは、あの死体だと勝手に思ってたんだけど。違うのだろか。
そんなことを考えて廊下の先に目を凝らしてると、目元のはっきりしすぎた顔を九が割り込ませる。
「前にこの扉に触ったのっていつ?」
ピントを合わせると、九は口を開いてそんなことを聞いてくる。にじり寄ってきて、僕は一歩下がる。
「えと、毛布取りに来たとき?」
また一歩近づいてきて、僕は下がりながら誤魔化す。それで九の顔の横から廊下の奥をうかがう。一番奥は闇に隠れて見えない。
九は僕の言葉を聞いてやっと止まる。僕の顔をまじまじ見る。どうしたの。観音開きの扉と廊下の反対側の壁に付いてるドアがいくつか並んでて、その前で立ち止まってる。廊下の向こうの暗がりで、九だけが浮かび上がってるみたいだ。九は満足したみたいでやっと視線を外して、扉を見ながら顎をさすって、
「や、違うよ。そのあと、かえりが一人で倉庫行ったのがある」
と口にする。隠しても意味ないか。僕は口をつぐむ。どうせ九が追及してくれる。視線を合わすと、九はまたなにか考えてるようで、目の前に直接答えてくれる人がいるのにまどろっこしいな、って思う。呼吸の音が大きい。九ってこんなに息荒かったっけ?
「あのときなにかした」
九がまた口を開く。一歩近付いてくる。
「なにもしてないよ。僕どうやったら鍵が掛かるかそもそも知らなかったし」
このホテルの鍵の機構なんて今でも分からないし。僕はまた後ろ歩きで距離を取りながら、そう冷静に対応する。誤解を受けないようにしなきゃ。はっきりものを話さなきゃ。僕は鍵を閉めてないよ。これだけはちゃんと伝わるよに主張しないと。
「じゃなんで」
九はにじり寄る足をほんの速くする。僕は走っちゃいけないよな気がして、さっきよりずっと足を動かすのを遅くして、それで足が絡まって転びそうになる。
「どこ行くの」
九がそう声を上げて、顔を上げると九はもうずいぶん足を止めてたようで、扉の前に戻ってタップを踏んでる。たたたったたった、ってこもった音が鳴ってる。
「とりあえず開かない」
扉の前に来て、九は口にする。扉をがじゃがじゃと鳴らす。僕を呼び寄せといて、それだけ?
「外回る?」
そう口走る。外のらせん階段へ、金網の道を通るコース。屋上に行く方法はあとそれだけだし。九へ視線を送る。九は足元に目線が行ってて、話を聞いてるのかよく分からない。
たたたったたった。たたたったたった。
「そうする?」
たたたったたった。九は足を鳴らしながら突然そう返事して、僕の横を、踊りながら駆け抜けてく。風で髪とスカートの端が軽く舞い上がった。
九は廊下を左に曲がって消える。こもった音が遠ざかってく。
僕は九の残した風に引っ張られるよに、階段の方へ歩いてく。
鍵を閉めたのは誰だったんだろ。左に曲がる。九はまだ見えない。だいぶ先まで行ってしまったみたい。風が九の進んだ方向にかすかに残ってる、ような。
カーブしてる廊下を進む。見通しが悪い。外側の壁際を歩いて、少しだけでも先の視界を確保する。九が脅かしてくるんじゃないか、って少しだけ身構えて、そろり、そろりと足を潜める。
隠れてる人だ。
頭の中ではじける。九が見逃してるだけ。やっぱりこのビルには九の他に誰かいるんだよ。鍵を閉めたのはその人。うん、鍵を掛けれる人はそういう人しかもういない。絶対にそうだ。廊下がまっすぐになって、僕は横にそれて厨房に入って、調理器具の横をすり抜けて、部屋をいくつもパスしてく。部屋は暗いけど、九の背中はまだ見えてこない。どこ行ったんだろ。
厨房の中のややこしい道を抜けると、曲がり角で九と出くわす。
「わ」
「うわっ」
大きな声を出しちゃって、僕はあわてて口をふさぐ。
「またいなくなったのかと思った」
九は出会い頭、鋭く間合いを取って、それをゆるめながらそうひとりごちる。
「もうそんなことしないって言ったじゃん」
僕は答える。大変だよ、九、ここには誰か残ってる。そう続けようとする。
「なんで開かなかったんだろ」
九がつぶやく。その一言で僕は言おうとしてた台詞を取り消す。気付いてないわけない。なんで話題にあげないの、九。ここに誰かいるなんてもう簡単に分かることでしょ?
僕は黙って九が言葉をまた紡ぐのを待つ。沈黙が廊下に広がる。
「あれ、鍵掛かってたよね」
九がなにを言わなくて、しょうがなく僕は探りを入れる。
「多分」
それで九は黙る。いるに決まってるのに九はなんで気付かないの。なんで黙ってるんだろ。
「九、ここに知ってる人、本当に残ってないの?」
僕は聞く。なにか嫌な予感がする。問い詰めて今すぐに取り除かなきゃならない違和感がある。なにを隠してるの九。
「いるはずないよ」
「そんなに確信を持って言えるのなんで」
答えてよ。九は口をつぐんで、それから僕に背を向ける。
「今まで誰とも会ってないし」
九はそう口にして、歩き出す。
「上の方に来たことないんだよね」
「うん」
「じゃあなんで」
九は振り返って、大きく息を吸って、なにか言おうとした口のまま止まって、またその場で反転して、元の通り歩きだす。
「とりあえず僕には分かる」
それでぽつりと言う。
なんだそれ。
「かえり以外にこの建物の中には誰もいない」
九はずんずん歩いてく。背中がまた遠ざかってく。声はくぐもって、ただの音へと姿を変えてく。待って。九は右に曲がる。僕は速足で追いつく。階段は目の前。背中に貼り付く勢いでついてく。そのまま階段を降りてく。
「僕が言うんだから、信用して」
九がそう口にする。一度ちらりと後ろを振り返り、さらに速度を上げて僕を引き離す。
「いやだ」
だって確実にここには誰かいる。背中がまた遠ざかる。そうじゃなかったら鍵を掛けたのは九だ。その理由を説明してよ。なにか隠してるのは絶対。
「そう」
九は声を殺してそう答える。
すぐに一階分階段を降りて、九はまた外のらせん階段めがけて歩き出す。銀色のドアの方へ一直線で九は向かう。僕は頑張って足を動かしてついてく。
「じゃあ、誰かいるとして、どうしたの」
九が廊下を歩きながら、前を向いたままで聞く。
「誰かいるんだよ?」
詰まりそうな息の間でそう言葉を発する。気味悪く感じないの。覗き見られてる。監視されてる。そういうことだよ? 扉の前にすぐ着く。九は扉を触ってドアを開ける。僕が先に中に入る。僕は掃除用具みたいなドアを押す。
ドアはゆっくりと開く。風は、今は弱いみたいだ。
足元を見る。川面がまず見える。なんど来ても多分、この景色を見たら最初は足がすくむ。金網が見えてこない。仕方なく、なにもない空間に足を伸ばす。
そのまま前だけ見て歩き、らせん階段に着く。僕は高い場所にいるって、足元を見ると思い出して、そのたび目を閉じて心を落ち着ける。
葉の落ちた森を眺めて、まだ日の高い空の色が曇ってもないのに白いのを不思議がって、そうやって気を散らしながら一段一段ゆっくり昇る。
そのうちデッキまで昇って、フェンスに開けられた穴をくぐり、屋上に足を踏み入れる。さっきフェンスとらせん階段にそれぞれ結んだ紐が、ぱたぱた音を立てて揺れてる。
赤いタータンに赤いレンガの道。屋上には木がたくさん植えられてて、その赤に満ち満ちた道以外にはほとんど針葉の緑とその葉先の腐った茶色しか見えない。たまに見える花が唯一の癒しだ。他の方向は木で埋め尽くされてて最初からこの道をまっすぐ行くしか選択肢がない。
「ねえ、九」
僕は振り向いて薪を置く。引きずられて九も下ろす。
「む?」
白い空と、山が見える。赤とこげ茶のまだら模様。
「寒いね」
風が背後から吹き抜けて、九が目をこする。背中に掛かってる青い毛布が寒いわけないじゃん、って揺れる。違う。もっとなにかすごく、言いたかったことが。
「寒い」
九は僕の言葉を反復する。
「嘘、九は暖かいでしょ」
「正直言うと」
あっさり認めて、僕の目から逸らさない。
僕らの左右を埋める木の壁が迫ってくるよな、九の背後の景色を埋めるよな感覚。僕は九に向かって手を伸ばす。
「毛布ちょうだい」
九は振り返って、首筋に手を当てながら「なにかいた?」と口にする。
「いや、気のせいだったの」って僕は返す。
「ほい」
首元で止めてた毛布の先をほどいて、丸めてから僕の方へ優しく投げる。
宙を舞った毛布は放物線を描いて、ふわりと僕の頭の上にかぶさる。
「なにするの」
視界は青で埋まる。かすかに陽の光が透過してくる。息がしづらい。
「暖かいでしょ」
ぐぐもった九の声が聞こえる。僕は手探りで端を見つけて、顔を毛布から出して九と同じよに首元で縛る。いつの間にか半回転してたらしくて、木の壁はさっきと同じなのに視界の先に九がいなくてちょっとだけ焦る。
「ね、早い所たき火作ろうよ」
僕は振り返って、立ちっ放しの九を急かす。
「さっきまで全然乗り気じゃなかったのにどうしたの」
僕は目線を上げる。木の壁の間から見える狭い空に雲が見当たらない。
「寒いし。早く」
雑に返事をして、僕はお尻に首に巻き付けたばかりの毛布を敷いて、赤い道の上に座る。少し湿っぽい。この上で燃えるかな。九はなぜか戸惑ってる。両の手の平をこっちに向けて、いやそれは、と口が動く。僕は腕を向けて、ライターを催促する。
「えっと、ここでやるの?」
九が目を僕から左右へ逸らして言う。
目線を追うと木の壁。周りは全部そうだ。簡単に燃え移るよ。危ないんだった。
「下に降りてからだね」
そう口にして、僕はゆっくりと立ち上がる。腰を上げるときに赤い道につけた手が濡れる。毛布も湿っちゃったかも、って手で毛布の上から濡れてない方の手で撫ぜて確認する。うん、湿っちゃってる。水を吸わないから被害はないけど。あとでたき火に当てようかな。
薪をまた手で掴んで進み始めて、いつの間にか先頭は九。両側の視界は屋上にみっしり生えた木で覆いつくされてる。毛布が取れて背中が狭くなったよな。そのまま進んでくと分かれ道にぶつかる。どっちが正しいんだろ。影が差して、赤い道は薄暗い。きっと虫たちのすみか。裸足で歩いたり、腰を下ろしたり、よくできたもの。あの時には気付かなかったこと。
とりあえず左に曲がって、それで昨日ここに来たときのことを思い出して迷路の抜け方はすぐ分かる。「今の所、右じゃない?」って前を行く九に話しかけて、僕はターンしてゆっくり歩き出す。こっちで合ってるよ、って口の中で唱える。それで九も思い出したようで、いつもの通り僕を無理やり抜かして、次の曲がり角からは迷わず進む。途中で壁が見えて、合ってるって確信する。
「壁だ」
九が言う。
「壁だね」
青色を水でうんと薄めてから塗ったよな白い空の下、コンクリの白い壁がくすんでる。もう見慣れて、僕は全然驚けない。壁の上、手すりで囲われてる場所にはやっぱり誰もいない。風が吹いて、僕ははためいてる毛布をたぐり寄せて前を絞る。九の背中がちょっとだけ震える。馬鹿らしくならないのかな、ってそれでいらない心配をする。
「九、」
突然、前を行く男の子の名前が口をつく。九は振り向く。
「なに」
九が振り向く。僕は九の目を見る。
「なに?」
九はも一度繰り返す。それから少し顎を引いて指を組んで顎のあたりに寄せる。
ねえ、あそこに行けば人がいて、誰か助けてくれるんじゃない、ってなんで言わないの。九は助けてもらいたいんじゃないの。頭が回ってないだけ?
「なんでもない」
こんなことを聞いてどうするつもりだったんだろ。藪蛇にしかならないのに。
「それ多いよね、かえり」
九は少しだけ毒を吐いて、また普段通り歩き出す。分かれ道を迷わず進む。
「九、あのさ、じょうろが置いてあったじゃん、最初来たとき」
別のことを話題にする。九は振り返らない。
「あれどこに行ったの」
九は答えない。
「九、どこかに動かした?」
僕はなにもしてないよ。前を向く九は姿勢も、歩く速度も変わらない。色の抜けた空も、灰色の壁も変わり映えしない。木の壁だけが視界の中でどんどん後ろへと流れて消えてく。九の乱した空気の流れが、僕の肌をでたらめな方向に撫ぜる。
「ううん」
九がやっと答える。
「じゃあどこに行ったの」
また九は口をつぐむ。
「誰か、やっぱりいるんじゃないの?」
それでその人と知り合いなんでしょ、九。
ごおっ、と風が強く吹いて、木の壁が、ばさささっ、ってざわつく。九が振り向く。さっきもこの質問したよね。僕はそうだったってやっと記憶を取り戻す。
「だから、いたら、どうするの?」
九がさっきと同じ返し方をしてくる。でもなんでここで途切れたんだっけ。思い出そうとする。
「いたら、」
どうしようか。仲良く手を取ろうか。その前に、男の子なんだろか、女の子なんだろか。仲良く手を取りづらい年齢だったりしないだろか。
「なにか困るの」
九は言葉を重ねて僕をせきたてる。
「邪魔をしてこないの、その人は」
背中に問いかける。
九は左に曲がって、僕の視界から、一瞬だけだけど、いなくなる。
「僕は誰かいるなんて思ってないし」
あ、いた。と思うと、九は突き放すよに答える。
「知り合いな可能性はないの」
「かえりと一緒でここに偶然居合わせただけじゃないの」
かえりと一緒に。そのとき僕の方から九の方へ風が吹いて、僕は首筋にかすかに風を感じるくらいで、歩いてるあいだずっと感じてた向かい風は影をひそめる。
「それは把握してたんだ」
木の壁の腐った茶色が目立つ。その間を、九と僕は歩き抜けてく。匂いがしないのが不思議。九は、それを知ってるなら僕が記憶喪失だってことに違和感を感じてもよさそうだけど。
「こんなことになってるのにわざわざここに残らないって」
九がそう返す。九はどうしてここにいるんだろ。
「その人はじゃあなんでわざわざ隠れたの」
「隠れた、って?」
九がかすかに振り返る。曲がり角がもうすぐだからよそ見しない方がいいよ。
「扉に鍵を掛けて、ホールの中に引きこもってるんじゃないの」
鍵を閉める意味なんてそれしかないよ。九は黙る。角を曲がって、また見えなくなる。
「今から会って、理由を問いただしたい」
きっと九の知り合いだ。僕はそう口にして、九の背中をまた見つめる。
「そっとしておいてあげたら駄目なの」
九が反転して、後ろ歩きで僕に問いかける。腕を後ろで組んで前かがみで僕を試すよな視線。
「優しいね、九は」
いつからこんな子になったんだろ。最初はこうじゃなかったのに。
「かえりはぶしつけでいい加減」
笑う。僕もつられてにやりと口元を上げる。
黙って歩く。もうすぐこの木の群集も途切れるはず。最後の曲がり角を抜けて、通路の向こうに視界が少しだけ開ける。九の背の向こうに、白い壁が大きく。やっぱり合ってた。僕は安堵する。
「ふぅぅぅ、」
九が声を張り上げる。突然走り出す。白い壁の方へ突進してく。緑のコートの背中が揺れて、両手の薪が危なっかしく大きく振られる。
「ぅぅぅうう、とう!」
そのままそれを助走にして飛ぶ。すぐに下へと消える。
視線の先には壁が残った。僕はいつの間にか立ち止まってる。その向こう、空が白い。一度に視界に入るものはそれだけだ。僕は首を振って、壁の出てきてる境目を探す。山は、濃い緑の塗装が剥げて、地の薄汚い赤とこげ茶が見えてる。やっぱりよく分からないよ。目線を戻す。壁は相変わらずでかい。縦に三つ並んだでっぱりから、右に影が流れてる。あの影の中に自分がいたらどれくらいの大きさになるんだろか。慣れって不思議なもの。九はこれが何か知らないんだろか。知らないにしても、分からないものなんだろか。
「かえりー」
九の声がする。我に返って小走りで向かう。また同じよに脅されるのは勘弁。九はもうやらないって言ってたけど、また駄々をこねるなんて。
呼吸を整える。前を見据える。背伸びをすると、屋上の途切れる部分が見える。木の壁の少し先。そこで踏み切り。イメージは出来てる。よし。僕は足を一歩前へ出す。地面を蹴る。走る。壁がずんずん近付く。赤い道を蹴って、蹴って、木の壁の迷路を抜ける、蹴って、あと二歩、蹴って、
「えいっ」
そのまま僕も飛ぶ。風の中に身を投げる。腕が自然にふわりと持ち上がって、万歳の姿勢。下を見る。屋上が遠い。飛びすぎだよ怖い。その向こうははるか下、川。なんでこんなことしたの。ざぁぁぁ、って耳元でなにか。「ぅわっ」九の声。僕は目を見開いて落ちてく。思ったより僕は早く落ちてって屋上には落下できそう。でも落下地点に九。ぶつかる。避けて! あ、スカート。毛布が背中ではためいてる。まいいか。九はこっちを見たまま、当たらないぎりぎりに避ける。その少し奥にHELPの文字。転んだら突っ込む。まずい。足を前に。手は使っちゃ駄目膝を使うの。僕は背中を逸らす。石の屋上が近付いてくる。
どんっ、と頭の奥で響く。目を開ける。僕は屋上に中腰で立ってる。なにごともなかったみたい。やった。転ばずに下に着けた。膝をゆっくり伸ばす。目の先にHELP。これも無事。よかった。
「かえりっ」
真横で九が叫ぶ。そっちを見るけど、九はなぜかこっちを見てない。
「出来るんだよこれくらい」
僕は叫び返す。自慢げに腕を上げようとして、薪を持ってたことに気付く。太ももに直に当たってる。そこまでコートもスカートもめくれ上がってる。あら。僕はそっと掴んでた薪を石張りの屋上の上に置く。それから腰を曲げてスカートのしわを直す。皺を伸ばした所から風に膨らんでまた皺が出来て、いつまでも終わらない。伸ばしながらあたりを見回すと、九が持ってた薪はもうドアのある壁際に寄せて並べられてる。相変わらず本人は僕に背を向けてる。どこにも刺さってないよね、ささくれ。スカートは今さらだってあきらめて、身体のどこにも痛みはない。ふくらはぎとかは。確認して、どこからも血が出てなくて安心する。
「もう平気?」
「うん、ごめんね」
威張って叫び返したのがなにより恥ずかしい。九が、しゅん…、と黙ったままで僕はやりづらい。風が耳元を通り抜けてごおぉぉ、と音を立ててる。
「解いちゃっていい?」
たき火を早く完成させなきゃ。僕は足元に置いた薪をまた掴んで、確認する。
「うん」
解いて九の分と一緒にする。最初は行儀よく積んでたけど、一度崩れてからはあきらめて無計画に紐を解き床へ落とす。
そんな風に薪を広げると屋上はもう手狭で、仕方なく九と僕は一人ずつパイプを掴んで、HELPを隅の方へ雑に追いやる。最後に僕がPの縦棒を表してた二本のパイプを持ち上げて、半ば投げるよに石の上に置くと、九が「じゃ、戻ろ」って声を掛けてくる。僕は振り返らず、さっきまでHELPだったものを見つめる。ぐしゃぐしゃでもうほとんど原型が分からない。パイプがただ乱雑にところどころ固めて置いてあるだけって言われた方がすっきり飲み込める。Hが特におかしくて、左上の二本の棒はほとんどくっついちゃってる。話しかけられてたのを思い出して顔を上げると、もう銀色のドアに手を掛けてる。準備が早いね。呆れたよな声がもしかしたら口から漏れたかもしれないけど、もうそれで構わない気がする。僕はドアへ、九の方へ近付く。九はドアの前で僕を見つめてる。風が不意にやんで、あたりは静まる。上の屋上のへりが日差しを遮ってて、九は影の中から平気でこちらに目を向けてる。
見つめあって、僕はドアの前まで歩く。九が前を譲って、僕はドアノブに手を掛ける。この先は倉庫。頭の中に浮かぶ。誰かホールの中に隠れてる人が。ねえ、ここの鍵も閉まってるんじゃないの? 僕は顔を上げる。上の屋上がこっちに飛び出てる。ねずみ返し。口の中が乾く。閉じ込められた? 僕は九の方に目をやろうとして、やめる。確かめるのが先。ドアを引こうとする。指に力が入らない。震える手でドアノブを倒す。ゆっくりと引く。音もなくドアは開いた。
デッキの部分まで踏み出す。灰と蛍光緑と薄いピンク。その人はここにいるかもしれない。身を乗り出して鼠色の棚のすき間を探すけど緑の塗り床しか見えない。人の気配はない。
「小さい枝とかの火種は荷物集めて置いてた所で集めればいいよね」
九はそんな心配なんてまったくしなくていい、って態度で僕の横をすり抜ける。
「どこでもいいと思うけど」
僕は雑に返事をして、九と一緒に倉庫へ降りる。首を振って目を凝らすけど、人はどこにも見当たらない。そのまま進んで、僕は床に降り立つ。
ホールへの入口へ。
「紙と、本と、あと服? そんなものでいいかな」
はしごの方へ。九がひとりごちる。
「どうやって持ってこよ」
棚には? 隠れてる人を探す。棚に置いてある木箱の一つ一つの陰に誰かいないかって、目を配る。尻尾を出すのを待ってる。
「紙とかは食糧入れてた袋に詰めればいいけど、本どうしよ」
倉庫の中の壁に貼り付いてるピンクのMがちらちらと視界に入って、目に毒。
九はまだ先のことを、次々口走る。ここから出られるかも怪しいのに。ホールへのドアに鍵が掛かってたらどうするの。なんで二人して下に降りちゃったんだろ。しばらく九だけが口を開いて、僕はそれにぼそりと答える時間が続く。早く確かめに行かないの、鍵。早くして、九。行く手をさえぎる背中をにらみつける。
着く。ドアの前で九がまた、前を僕に譲る。僕はドアノブに手を伸ばす。ここのドアは外の屋上のドアと同じだ、って今さら気付く。
ドアを引くと、ゆっくり開く。暗闇がドアの先に広がる。あれ。
そのまま小部屋に出て、柵の周りを半周してらせん階段を降りる。もしかして誰かいたって言うのは気のせい? 支柱も手すりもないらせん階段は歩きづらい。本当は扉がただ閉まってるってだけのことで、勘違いしてわざわざ閉じ込められに来たってこと? 下には赤い部屋と大きく開いてるガラス窓。誰も、いないよ。おかしい所は特にない。降り切って、九は「ほら勘違いじゃん」と部屋を見回しながら言う。大きな声がうわんうわんと響く。僕は広い部屋の中、赤い絨毯の上をまっすぐ走って、扉の方へ。
「なにするの」
九が話しかけてくる。僕は振り返らず扉の手前まで、扉の把手に手を掛けて思いっきり引く。
音もなく滑る。ふわあ。
「…開いてる」
その向こうは廊下。ホールは、床に近い所は陽の光で明るくて、扉の向こうはすごく暗い。僕はドアを掴んだまま、振り返る。少しだけ冷たい空気が、中に入り込んできて、足元が寒い。九はこっちを向いて、口をつぐんでる。窓から明るい陽が差し込んで、影が右へと伸びる。なにもない赤くて広い空間はほこりがたくさん浮いてて、その中に九がぽつんと、寂しそうに立ってて、あれが銅像なら映えるんじゃないかな、って僕は勝手に想像する。
「さっきまで中に誰かいたんだよね」
僕は九の目を見て口にする。九は遠いけど、きっといつもの声で聞こえるよ。なら、どこへ行ったんだろ。九はこっちを見たまま首を傾げて、聞こえてない振りをする。
視線を切って、廊下へと出る。行こうよ? って視線を送って、九は軽くうなずく。右に曲がり、カーブする廊下を辿り、ごちゃごちゃした厨房の中を進む。赤い絨毯から目の細かいタイルへと床が変わる。厨房の部屋同士は短い通路で連結してる。もうこの道順も、何度も通って覚えてしまった。
ふと気付いて、途中で足を止める。ここは厨房の中。なにかの料理の匂いがここでもする。背後に九がいない。あれ。部屋を出てきたときはついてきてたのに。なにしてるんだろ。僕は反転し、来た道を戻ろうとする。と、暗い部屋の中でステンレスの銀色がぎらり輝く。包丁とかは置いてあるんだろか。僕は道から逸れて、机の下を覗き込む。小さいスチール棚が置いてあって、その上にはガスコンロがいくつか。右へ目を移し、オーブンの把手を引く。中には網が平行に何枚か入ってる。目を凝らしても食べ物の残骸だったり、明確な武器だったりは見つからない。
次の棚に目を移そうとすると、だんっ、だんっ、と足音が聞こえる。九だ。僕は顔を上げる。厨房の中に、ずざぁあ、って走り込んできて、そのまま風みたいに次の部屋へと走り抜けそうになるから、僕は「ねえ」って大きな声を掛ける。九はちらとこっちを見て目を丸くして、あわてて足を止めようとするけどて急には止まれなくて部屋の外まで通路の方まで吹っ飛んでく。なんとか足元踏ん張ってて転びはしてないようだったけど、靴と床のタイルが擦れて、きゅぅうぅうう、ってすごい音を立てる。宙を舞ってるちっさなちりが九でかき回されて、目の前をちらつく。それにしばらく見とれる。高い音は耳鳴りのよにずっと残る。
やっと静かになって、ちりのちらつきもやんで、それでやっと九は通路から両手の指と顔だけ出してこっちを覗く。
「なに、してるの?」
そう声を掛けてくる。九こそ。
僕は無視して立ち上がる。元の道へ戻る。通路を九が塞いでて、僕は「行かないの?」って聞く。
九の背後はかすかに明るくて、さっきまで暗闇の中でもぞもぞと動いてた僕は九の表情が見えない。なにかが低くうなってる。びぃぃいぃ、って薄く高音の混じった小さなノイズ。九はきっとこっちを見てるんだろな、って角度で顎を逸らす。九は顔をこっちに向けるのをやめて、それでその場で反転してゆっくり歩き出す。僕はその背中をまた追う。厨房が途切れたら左へ曲がって階段の所へ。また暗い。陽がまた雲の中へ? どっちも黙り込んだまま進んでく。
「なにしてたの」
階段の手前で、僕は前を行く小さな背中にさっき流した質問を聞き返す。
九は足を止める。でも答えは返さない。踊り場。ゆっくり振り返る。そのとき陽がまた出たらしくて、不意に明るくなる。上の踊り場から壁に鈍く反射した光が顔の横に当たって、九は片目を閉じる。
「かえりは?」
「九が来ないから暇つぶし」
僕はそっと口にする。大きな声を出すとここじゃ響く。
「へえ」
九は意味のない相槌を打つ。ねえ、話をずらさないで。
「九は?」
僕は逃げる九を追い回す。
「隠れてる人を探してみたけど、いなかった」
九はすぐ答える。僕はその顔をじっと見つめる。九は片目を閉じるのをやめて、まじまじと僕の顔を見つめ返す。いつまで経っても逃げなくて、やりづらい。
「そう」
目を逸らす。会ってたんだろな、って無理に僕はそう思う。きっと再会を懐かしんで短い会話を交わしたんだよ。そんな根拠のない想像で頭を埋める。だって、鍵を掛けて僕を拒絶した。その人はきっと、僕の求めてる人じゃない。だから、九とでもいちゃついておけばいいんだよ。僕じゃなくて。その隣の、目つきの鋭い男の子へ。
ほう、って息を吐いて、九は安心したよに、階段に足を伸ばす。僕は後ろからついてく。いち、に、さん、し。踊り場でターンする。戻ったらまた、屋上まで薪を両手で持って行かなきゃいけない。なんで僕がたき火の準備を手伝わないといけないの。先を行く九は走り出してひとつ下の踊り場まで駆け下りて、そこでまたタップを踏み始める。一段階段を降りるたびそれが近付く。九は小さくひとつ、ジャンプ。たたたったた。それからゆっくりと動きを大きくしてく。軽く宙に飛んで、回り出す。僕は階段を降りてく。あと三歩。九が突然こっちに向かって飛んでくる。飛びながら、身体をひねって、腕を投げ打つよに大きく振る。僕の顔の前をかすめる。そのまま踊り場から一段上がった狭い踏板の上に着地。ひ。僕はやっと一歩後ずさる。身体が反応する。九はそこで一拍置いて、そこから飛び上がる。また狭い階段の上で、踊り出す。腕をぶらつかせたまま、くるくると回り、身体の回転だけで腕を宙に大きく上げる。そのままもひとつ下の踊り場の方へ駆け下りてく。九の音はかき消える。どうしたんだろ。僕はうつむく。なんでついてくの。どこかで待ってればいいのに。僕が放っておくとすぐどこかへふらふらいなくなるから、一緒に行動しなきゃ、なんだから、しょうがないじゃん。言葉を尽くす。でもそれとこれは話が別じゃない?
僕は無視して足を踏みだして、踊り場に降りる。その場でたたたっ、と九がいつも踏むステップを再現してみる。最初の方だけで、あとは上手くできないけど。
僕は九の消えた方に視線を送って、足を止めて、降りてく。下の踊り場には九がいて、両の手の平を腰のあたりで真横に広げながら僕の方を見てる。かわいい仕草がいちいちどこかぴったり来ない。僕は階段の踏板の上を、一歩ずつ進んでく。この下の、そのもう一つ下の階が、薪のある階だよ。僕が降りてきたのを見て、九は奇妙な姿勢から抜け出してゆっくり階段を降りてく。いち、に、さん。ここ。薪がある階の踊り場。前を行く九は手すりに手を掛けて、反転する。さらに下に降りてく。あ、れ。
「どこ行くの」
「燃えるもの持ってこないと」
九は足をゆるめもせずにそう口にして階段を降りてく。どんどん遠ざかる。
「ねえ。ねえ、あとでよくない?」
引き留める。九が振り向く。立ち止まる。適当な理由を付けて。なにか考えなきゃ。
「往復数を少なくしたいし、今ついでに取りに行く方が断然よくない?」
九が冷静に断ち切る。そう口にして反転してまたゆっくり降りてこうとする。
「じゃあ、別にあそこまで足を運ぶ必要がないと思う、よ?」
紙類なら薪の置いてあるもはや戦場跡のよになってしまった元ねどこの部屋に、本だってそのすぐ隣の部屋にたくさん置いてあったと思うけど。服なら、この階の衣装部屋を漁ればいくらでも手に入るだろし。必要ないよ。
九はその台詞で進めかけてた足を引っ込めて、反転してこっちを向く。軽くうなずいて、こっちに昇ってくる。




